宣長が『古事記伝』の執筆を開始したのは、明和元(1764)年のことで、書き上げたのは寛政10(1798)年のことだった。脱稿までに34年の歳月が流れている。宣長は71歳で亡くなっており、人生の半分を『古事記伝』執筆に費やしたことになる。
宣長は、中国文明の影響を受ける前の日本人の精神性を古事記に求め、そこに記されたことを真実として受けとめている。
死者は黄泉の国に赴くと古事記に書かれている以上、宣長としては、それを受け入れるしかなかった。この世に悪が生じる原因を、古事記が禍津日ノ神に求めるなら、そう考えるしかなかった。宣長にとっては、古事記に書かれていることがそのまま真実だったのである。
しかし、これはあまりに受動的な考え方である。また、これでは死んだ後のことについていっさい希望を抱くことはできない。死後は、仏教が説く浄土に赴くこととは比べようもないほど惨めなものになってしまう。
また、この世で悪いことに遭遇したとしても、それは悪神の仕業で、人間の側からすれば、どうしようもなかった。宣長は、禍津日ノ神の引き起こす悪事をいかに防ぐかということについて、何の示唆も与えてはくれなかった。この宣長の考え方が、どの程度、日本の社会に受け入れられたかは判断が難しいところである。
まず、死後、自分は黄泉の国に赴くと考えている人は少ないだろう。また、何か悪いことが起こったとき、それを禍津日ノ神の仕業と考える人はいないはずだ。そもそも禍津日ノ神のことは一般には知られていない。
ただ、宣長が、優れたものである神が、善もなせば、悪もなすと考えたところは興味深い。だからこそ私たちは、悪いことが起こっても、それを受け入れるしかないというのだ。
そこからは、「諸行無常」ということばが思い起こされる。これは仏教の用語だが、この世にあるものは変転をくり返していく。仏教ではそれを法としてとらえる。宇宙の法則だとしているのである。
悪の起こる原因を法に求めるのか、それとも悪神に求めるのか。その点で、仏教の考え方と宣長の国学の考え方とは異なる。だが、悪に対して、人間にはなすすべがないとしているところでは、両者は共通している。
一神教の世界では、この世に起こるあらゆる事柄は神によって定められたことで、そこには意味があるとされる。
これに対して、国学も仏教も、そこに意味があるとは考えない。それが、一神教の西洋とは異なる、多神教の東洋の思想ということになる。
日本では、多くの神が祀られているわけだが、なかには疫病をもたらしたり、たたりを引き起こしたりしたことがきっかけになっているものが少なくない。
左遷されたまま亡くなった菅原道真が天神として祀られたことがすぐに思い起こされるだろうが、天照大神(あまてらすおおかみ)であっても、最初は宮中に祀られていて、疫病などを引き起こしたことで、伊勢に祀られることとなったのだ。
日本の神は、単純に善なる存在とは言い切れないところがある。善をなそうと、悪をなそうと、他よりすぐれた特別な働きを示したものが、神として祀られてきたからである。
神社のことを考えるうえで、こうした日本の神のあり方を無視することはできない。神に善と悪の両方の側面があることで、祀り方、いかに祀るかが重要なものになってくる。その点を念頭において、私たちは神社のことを考えていかなければならないのである。