大企業の社員の子どもの家庭教師をしていたという、ソウルの大学院で歴史学を学ぶキム・イェジンさん(仮名・25歳・女)。家庭教師先は成功者の象徴、高級住宅街である江南のタワーマンション。母親は大企業の幹部だったそうだ。
「子どもの母親は普段、非常に多忙で連絡がなかなか取れない人でした。授業料は一回につき3万5000ウォンいただいていたのですが、2カ月ほど経つと支払いが滞るようになりました。クラスでほとんどビリだった子の成績を、100点満点が取れるまで上げたのに。
しかし韓国では大人、それも雇用主に対して意見するのは非常に勇気がいることです。何度かやんわりと督促したのですが、何の反応もなく。授業料がようやく振り込まれたと思えば、計算の合わない額の5万ウォンが一度入金されて、それっきり。多忙とはいえ、あまりにずさんな対応に困り果ててしまいました」
SNS上では、こういったトラブルへの対処法が若者同士でよく共有される。キムさんもそこで得たテンプレートに倣い、意を決して「お母さん、授業料をいただかなければこれ以上授業はできません」とメールで告げた。
するといつもは反応を示さない母親が豹変し、このように返信してきた。
「ねえ、学生。私を誰だと思っているの? 私は大企業の幹部なのよ」
その後も「学生のくせに、年上に指図するのか」などと罵られて話し合いにならず、結局授業料をほとんど回収できぬまま、家庭教師を辞めることになった。
「韓国では、財閥はもちろん、高い地位にいる人が貴族のように横暴な振る舞いをすることが多い。そんな人間がいる大企業に、憧れる気持ちなどありません。私だけではなく、そう思っている同世代は多いです」
熾烈な競争をくぐり抜けるからこそ、その先で支配層となった者たちの自意識は肥大し、時に暴走する。韓国での支配層のメンタリティと聞くと、2014年に起きた「ナッツ・リターン事件」を思い出した読者もいるかもしれない。
大韓航空創業者一族の長女で、当時副社長を務めていたチョ・ヒョナがニューヨーク発仁川行きのファーストクラスに搭乗した際、皿に盛られて出されるはずのナッツが袋のまま提供されたことに激怒。旅客機の離陸を中止させた事件だ。
チョには法の裁きが下ったが、構造はいまだ変わらぬままだ。前述のとおり、韓国では大企業が日本よりもはるかに狭き門となっている。だが尋常ではない競争を勝ち抜いて入社しても、激務に耐えきれず、早々に辞める人も多い。昇進試験の評価が悪ければプレッシャーを受けて自主退職を迫られる。40代のうちに役員コースに乗らなければ出世が閉ざされる、といった現実が「大企業40代定年説」とも呼ばれる事態を招いている。
実際、平均退職年齢は49.1歳(2018年韓国統計庁調べ)で、実際にはそれよりも早いと話す韓国人は多い。退職後、子どもの学費を支払えず車や家を売るケースもある。辞めた後は中小企業に入り直すか、アルバイトをするか、起業するかの三択となるが、中高年からではどれも茨の道だ。大企業出身者は、再就職しても7割が新たな職場に適応できず、やはり1年以内に辞めてしまうという研究結果もある。