それに従って、演奏形態もシンフォニーからコンチェルト、ソリストの時代に入ってくると思います。大きなオーケストラが成立したのは、産業的な要因が大きく関係しているんです。
もともと音楽家たちは、王様が食事をしている後ろで伴奏をするような役割でした。やがてプロモーターが登場して、お金をとって音楽を聴かせるという産業が起こってくる。そうすると、できるだけ多くの人を集めたくなる。多くの人を集めるには、ソロやコンチェルトでは迫力がない。当時はスピーカーや音響機器が発達してないから、大人数で集まって大迫力のある音を出すような交響曲が音楽家たちに求められるわけです。
でも、これから当分の間、大観客を入れるようなコンサートは難しくなります。そうなると今度は逆に、シンフォニーからコンチェルト、ソリストという少人数の演奏が中心になっていくでしょう。
――今までは当たり前だった集団的な活動が、とても難しくなっている。時間が経つうちにそれが定着していくわけですね。
家族の生活もそうなっていくでしょうね。お父さんもお母さんも子どもも家にいながら、それぞれ別のことをしている。でも今までより過ごす時間は長いから、個人的なことをしながら、共同生活が成り立つような関係をつくっていかなければならなくなります。これも「アローン・アンド・トゥゲザー」です。
――今までと比べると、どうしても寂しい時代をイメージしてしまいます。
それも慣れてくるものなんですよ。学校の先生が生徒の肩に手をおいて教えるようなことがなくなる。飲み屋にはアクリル板があって、人と人が隔てられている。今の感覚だと、寂しく思う人もいるでしょう。でも、じきに慣れて違和感がなくなると、寂しく思う感覚もなくなるものなんです(笑)。
――今、業種によっては非常に苦しい境遇に追い込まれている人も大勢います。どう頑張っていいかわからない、何をしていいかわからない。『大河の一滴』に出てくる言葉を使えば「こころ萎え」の状態に陥っている人も多いと思います。こうした不安が渦巻く時代と、どのように向き合えばいいでしょうか。
本にも書いていることですが、僕はマイナス思考から出発したほうがいいと思っているんです。世の中は、花は咲き鳥が歌うような理想の世界ではない。私たちは、ついつい人生は明るく楽しいものだと思いたくなるし、社会がそれを用意してくれると考えてしまう。でも、それは違うんです。
仏教をつくったブッダは、「この世の中はひどいもんだ」というところから出発しました。この世は不条理である。正義が必ず勝つとは限らない、努力も報われない場合が多い、それから愛が報われるとも限らない。善人がばかを見るようなこともたくさんある。そういう不条理な世界を、ブッダは「苦」と表現しました。まさに究極のマイナス思考です。
その「苦」の世界のなかで、私たちはどうすれば被害を少なくして生きていけるのか。そういう生活信条を弟子たちに説いて教育したのが、仏教の始まりでした。
今、カミュの『ペスト』が読まれていますが、僕なら『ペスト』とともに同じくカミュの書いた『シーシュポスの神話』を薦めたい。シーシュポスという男が神々の怒りを買って、山の下から頂上まで大きな岩を担ぎ上げるという罰を受ける。彼は言われたとおり、担ぎ上げるけれど、頂上まで担ぎ上げていった途端に、その岩はまた転げ落ちてしまう。そこでまた彼は、下から担ぎ上げていく。それをずっと繰り返すんです。
この作品の背景には、人生というのは、こういう無駄なことなんだろうという非常に深いニヒリズムがあります。と同時に、繰り返し繰り返し無意味なことをやっていくなかに、人間性の気高さみたいなものをカミユは見いだそうとするわけです。僕は、そういう感覚を持って生きることが大切だと思っています。