企業の管理職の方から、たまに相談されることがある。会議で発言しない人がいるというのだ。
その人がどういう思考でそういう結果になってしまっているのか。もしかしたら、「自分なんかが発言するべきではない」と思っているのかもしれない。
しかし、忘れないでいてほしい。会議に呼ばれている時点で、その人のいる意味は確実にある。価値は担保されている。それなのに「自分なんて」と思うのは奥ゆかしさというよりも過度の配慮だ。おかしい。発言への期待がない人間は会議には呼ばれない。会議によっては重苦しい雰囲気で硬い表情の偉い人がそれらしい顔をして座っているかもしれないが関係ない。どんなにアウェーに見える会議でも呼ばれている時点でそれはホームゲームなのだ。
しかも今は、1年ごと、いや1日ごとに仕事のルールが更新されていくような世の中だ。
例えば会議に「業界の重鎮」がいたとする、あなたは入社2年目の若者だ。あなたは会社でのキャリアにあまりに差が開いているために、発言することはできないと思うかもしれない。しかし、その重鎮はTikTokはやっていないだろうし、インスタグラムでいいねを稼ごうと思ったこともないはずだ。ツイッターの裏アカくらいは持っているかもしれないが。
広告会社で例えると、昔であれば、CMを100本撮った人は、 10本撮った人よりも経験が豊富なので発言権が強いことに意味があった。
でも今はその常識、前例をたくさん持っていることよりも、新しい時代の変化について敏感に身体感覚で察知していることのほうがよっぽど大事だ。「世代が違う」ということは単なる年功序列のヒエラルキーを指し示すことではない。
それは進化し、変化する社会常識の中で、「生きてきた時代背景が違う」というだけのことになる。
20代の新人は「2010年代を生きてきたエキスパート」なのだ。時代性に視点を置けば、若者は業界の重鎮よりも鋭い感性や感覚がある。時代の空気を肌で感じるリアリティーさがある。ルールが刻一刻と変わっていく時代において「経験値」というものは、唯一の武器にはなりえない。
あなたが20代で若いとするならば、SNSとスマホを自在に使う世代であるとするならば、会議で思い切って言ってみたらいいんだよ。「それはぼくらの(世代の)感覚からしたらカッコよくないですよ」と。
周りは抗えない。ここに理屈はいらない、感覚を信じていい。もちろん「今回は、若い世代は相手にしないからいいんだよ」となるかもしれないし、「じゃあ、若者にわかってもらうにはどうすればいいんだっけ?」という議論になるかもしれない。
誰もが違う人生を生きている以上、発言できない理由などない。もちろんお年寄りでも同じことが言えるし、例えば環境問題に興味がある人、ラグビーが三度の飯より好きな人、なんだっていいんだ。自分自身の人生から生まれ出てくる自分の言葉、本当の言葉には必ず意味がある。
昔の偉人の言葉を借りるならば、「あなたじゃない誰かは、そこにはいなかったんだ。何かを言える権利があるのは、その場にいることができた人たちだけです」 。