年収がいくら増えても「幸せ」には直結しない訳

わかりやすく言うと、いい家に住んで、高級なものを食べて生活満足度が高くても、孤独で、気分が滅入っていて、感情的満足度が低ければ、それは常識的に考えて幸せではありません。幸せというのは「合わせ技」なのです。

また、満足度には「持続時間が短い」という特徴があります。いい家に住んで、いい車に乗ると、最初は嬉しいかもしれませんが、やがて飽きてしまう運命にあるのです。思い当たる方も少なくないと思います。

奮発して、20万円の高級ソファを購入したとします。届いてしばらくは、「なんて座り心地がいいんだ」と満たされた気分になるでしょう。しかし、すぐにそれが当たり前になってしまいます。1年経っても、座るたびに「幸せだなあ」と思う人はほとんどいないでしょう。

経済学の専門用語では、「限界効用逓減の法則」といいます。幸せというのは、だんだん得られなくなっていくことが科学的にわかっているのです。

飽きてくると「もっと欲しい」と思ってしまう

その原因の1つは、飽きてくると「もっと欲しい」と思ってしまうことです。あんなに欲しかった20万円のソファが色あせて見え、50万円のソファ、100万円のソファが欲しくなる。

満足度を追求することは、極端に言えば、ドラッグの依存症のような状態を招くことでもあるのです。

一方、幸せというのは、長期にわたって安定的に心を満たしてくれるものです。家族や友人とのつながり、積み上げてきた仕事への充実感、美しい自然とのふれ合い。

これらはお金で買うことはできません。数字に置き換えることもできません。満足度は他人と比べることができるもの、幸せは他人と比べられないもの、ということもできるでしょう。

満足は幸せに関係ない、と言っているわけではありません。幸せを構成する一部分にすぎない、と言っているのです。収入が極端に低かったり、家がなくてインターネットカフェで寝泊まりしていたり、日々の食事に困っていたりすれば、当然それは幸せな状態とは呼べません。

満足度が低くても幸せなら、福祉なんていらないじゃないか、生活保護の受給額も下げればいいじゃないか、というのではありません。逆です。格差が拡大している今、貧困にあえいでいる人たちに手を差し伸べることは、むしろ急務です。

幸福度が頭打ちになる3つ目の理由は、私たちの心理にひそんでいます。それは、先ほどのカーネマンが提唱した、「フォーカシング・イリュージョン」と呼ばれる、心の特徴です。

フォーカシング・イリュージョンを日本語にすると「焦点化の幻想」、つまり間違ったところに焦点を当ててしまう、という意味です。カーネマンは次のように述べています。

「人は所得などの特定の価値を得ることが必ずしも幸福に直結しないにもかかわらず、それらを過大評価してしまう傾向がある」

私たち人間は幻想に踊らされ、焦点を当てるべきところを間違えがちである。そう警告しているのです。

「○○なら幸せ」は不幸の始まり

日本人は他の先進国と比べ「もう少し年収が増えたら幸せになれるのに」と、間違った幻想を抱きがちというアンケート結果がでています。その意味では、日本人はフォーカシング・イリュージョンに陥りがちな国民と言えるかもしれません。

同じことは、お金以外にも言えます。近年、婚活が流行っているようですが、婚活にいそしむ人の中には、「結婚できたら幸せになれるのに」と考える人が多いと思います。これもフォーカシング・イリュージョンの典型例でしょう。

『年収が増えれば増えるほど、幸せになれますか? お金と幸せの話』(河出書房新社)。書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします

カーネマンは、「ヘドニック・トレッドミル」という表現もしています。私はこの言葉を「快楽のランニングマシン」と和訳しました。

つまり、ニンジンを目の前にぶら下げられながら、ランニングマシンで走っている状態です。走っても走っても、ニンジンを手に入れることはできません。

こうした「○○なら幸せなのに」という考え方は、人間を不幸にします。裏を返せば、「○○でないなら幸せではない」すなわち「〇〇でない今の自分は幸せではない」ということになるからです。つまり、今の自分はだめで、別のほかの状態はいいはず、という深層心理が根底にあるからです。幸せに特定の条件をつけるのは、不幸の始まりなのです。