また、同じ宗教の仲間だという意識は、外部に対しては排他的な意識を高めます。これはナショナリストの国民意識が外国人排斥を呼び起こすのと似ています。
③ 説明を与える
宗教は「人間とは何か?」「世界はどのように始まったのか?」「なぜ善と悪があるか?」「死んだらどうなるのか?」といった、高度に哲学的な問いに答えようともします。いわゆる神学です。
これは哲学や科学の原型のようなものですが、あくまで民衆を感覚的に納得させるものですから、発達した哲学や科学から見たらツッコミどころ満載の不確かな説明が多いことも否定できません。しかし、芸術的には印象深い説明になっています。例えば創世記にある6日間の天地創造の物語は、ビッグバン宇宙論から見ればナンセンスですが、1つの心理的ドラマとして堂々たる印象を与えます。
神学の究極的説明は、あくまで個人個人の気持ちを納得させるためのものです。ですから究極的と言いつつ、状況に応じて論点をズラしていく――言い訳を重ねる――のが常です。
例えば神に祈れば病気が治ると言います。しかし治らない。そこで「病気は神の試練です」とロジックを変えます。
また、悟れば人生の問題は解決すると言います。しかしいくら坐禅しても人生の問題は晴れない。そこで「真の悟りはブッダのみにある」とロジックを変えます。
言い訳というと聞こえが悪いのですが、こうした知的操作を重ねることで、信者は人生の奥深さに目覚めていくことができます。人生には裏があり、裏にはまた裏がある……この経験的事実を、神学もまた教えてくれるのです。
しかしまた、こうしたロジックになじむことによって、信者はどんどん思考の深みに引っ張り込まれ、人生の解決というよりも自問自答に一生を費やすことになります。このような探求に興味を抱くのは、一部の信者――リクツの好きな信者――に限られるでしょうが、そうしたエリート信者が聖職者や神学者になることで、宗教は次世代に伝えられます。
宗教のこうした仕組みは、近代になって多大な挑戦を受けました。科学が発展することで、呪術や奇跡が幻想であることが明らかになり、近代的法制度や種々の機関をもつ国家が発展することで、宗教的戒律や教団的アイデンティティーは社会全体の運営原理ではなくなりました。神学の説明もまた説得力をどんどん失っています。
今日、先進国においては、宗教は社会の主流を動かす力にはなっていません。
それでもそれはおおむね次のような形で、今日でも機能を果たし続けています。
(1)文化の基層として
社会が科学の成果を大々的に取り入れるようになってまだ数世紀もたっていません。宗教は思想、語彙、習慣の形で文化の基層を成しています。
日本人は仏教の教理を大方忘れていますが、それでも欧米人に比べたら仏教的あるいは儒教的な発想法をもっています(修行・修業を強調し、世界を建設的というよりも無常観で眺める傾向があり、先輩後輩などの序列を重んじる、など)。
欧米人の中にはもはや教会に行かない人も多いのですが、しばしばキリスト教的なところを見せつけます(慈善を重んじ、キリスト教の終末待望を受け継ぐ、未来のユートピア建設への希望をもっている、など)。
基層文化というのは侮れない力をもっているからこそ、個人的には無宗教だと思っている人々も、宗教の歴史や教えを教養的に学ぶ意味があるわけです。
(2)かつての宗教的機能の部分的供給として
重病や絶対の貧困など苦境にあえぐ人々は、精神的な最後の砦として奇跡に頼る権利があるでしょう。また国家や企業経済がまともに機能していないところでは宗教の互助的な働きは今日でもありがたいと言えます。死んだらどうなるのか、人生の究極的意味は何かなど、合理的には答えを出すことのできない問いに関して、宗教の説明を受け入れる人がつねに存在し続けるでしょう。