また野村は鶴岡のようなGM的な権限は与えられなかった。そして球団そのものが資金的に苦しくなったために、南海は強豪チームではなくなった。野村克也は8シーズン、プレイングマネジャーを務めたが、優勝は前後期制の1973年の前期だけだった。
1977年、のちの夫人になる野村沙知代が関わる公私混同問題で、野村はチームを追われる。このときは、野村によって引き立てられた江夏豊や柏原純一は「行動を共にする」と訴え、一時ホテルに籠城した。
野村はロッテ、西武でなおも3シーズン現役生活を続行して引退。
引退後は、9年の長きにわたって野球解説者を務めた。この時期に野村は変わったといえるだろう。
選手時代の野村は陰気で、インタビューの受け答えも不愛想だった。しかし解説者になってからは訥弁ながらも自分の言葉で野球を語った。また「ノムラスコープ」などこれまでにない手法で野球解説をした。
従来の野球解説は「根性論」や「精神論」が中心だったが、野村は自らがベンチで選手に説いていた作戦や戦術を、視聴者にわかりやすく話した。これは日本のプロ野球ファンを啓蒙した。野球には、理論に基づく「頭脳ゲーム」の一面があることをファンに知らしめたのだ。
「ノムさんほどの知識の持ち主が、現場から呼ばれることもなくテレビに出ているのは、球界の損失だ」
盟友と言われた巨人V9捕手だった森昌彦はこう訴えたが、1990年になってようやく野村はヤクルトスワローズの監督になるのだ。
ヤクルトでは古田敦也、池山隆寛、高津臣吾ら人材に恵まれたこともあり、9年間で優勝4回、日本一3回に輝く。
「ID野球」と言われ監督としてはヤクルト時代が最も成功した。
その後阪神、楽天で合計7年間監督を務めたが、優勝はできず。しかし両チームともに後任監督となった故・星野仙一の時代にリーグ優勝。野村が蒔いた種を星野が収穫したと見ることもできるかもしれない。
阪神監督時代には、野村沙知代夫人の脱税が発覚し、またもや監督を辞任している。
野村克也は、1970年代から多くの著書を刊行してきたが、21世紀に入ると単なる野球本ではなく、経営論や人生論を語るようになる。
その言葉はスポーツ選手だけではなく、ビジネスマン、とりわけ経営者に響くようになる。年齢とともに野村克也は「人生の師」的な位置づけになっていくのだ。
野村の人生をたどると、大成功とともに、さまざまな挫折や失敗を繰り返していることがわかる。野球以外の問題がたびたび足を引っ張ったともいえる。そうした起伏の多い人生が、不愛想で職人気質だった野村克也に人間味を与え、含蓄のある言葉を生み出す源泉になったのではないかと思う。
1988年限りで南海ホークスが福岡に移転し、大阪球場の跡地には「なんばパークス」という商業施設ができた。その屋上には「南海ホークスメモリアルギャラリー」が設けられている。
筆者はときどき訪れる。人影は少ないが、年配の人が懐かしそうに見入っているのを見かけることもある。
エレベーターホールを利用した小さな施設だが、鶴岡一人、杉浦忠、門田博光などの歴代の監督、名選手のユニフォームやトロフィー、ペナントなどが飾られている。しかし、野村克也に関するものは一切ない。
本人が、それを拒絶したからだ。野村は「私は西武ライオンズのOBだ」と言い張っていた。
野村は「南海を追われた」ことを深く根に持っていた。また南海のドン、鶴岡一人との確執もあった。しかし晩年には恩師鶴岡を懐かしみ、評価する言葉も口にしていた。
ほとぼりが冷めてからでいいが、このミュージアムに、野村克也の活躍の歴史を展示しても、本人は異を唱えないのではないかと思う。
野村克也がいちばん輝いたのは、なんといっても南海ホークスの時代なのだ。若き日に、人もまばらな大阪球場で声援を送った筆者はそう確信している。
(文中一部敬称略)