鶴岡はこうした二軍からはい上がった選手たちと、エリート選手を競わせることで、人材の錬磨を図ったのだ。興味深いことに結果的にはエリートよりもノンブランドの選手のほうが成功している。鶴岡は無名の人材の資質を見抜く慧眼(けいがん)の持ち主だったのだ。
南海は巨人などの人気チームと派手な選手の争奪戦を繰り広げたが、親会社の南海電鉄は大阪の一私鉄だ。資金的には限界がある。立大の長嶋茂雄、法政二高の柴田勲など、一度は南海に入団を約束しながら巨人に上前をはねられた選手もいる。エリート主義だけでは万全の補強ができなかったのだ。鶴岡が無名の人材を発掘したのは、南海の台所事情もあったのだ。
「100万ドルの内野陣」から「400フィート打線」への陣容の転換、エリートとノンブランドの人材の併用。鶴岡一人にはつねに明確な「方針」があり、それに基づいてチームの改革を断行していった。
従来の監督は、いわゆる人間力でチームを牽引したが、鶴岡はマネジメントの才があった。早くからMLBの戦術やトレーニングを取り入れた。また、新聞記者上がりの尾張久次を先乗りスコアラーとして起用するなど、情報戦の先駆けでもあった。その著書を読めば方針はつねに明確で理論的な人物だったことがわかる。
鶴岡は球団から絶大な信頼があり、監督だけでなく今で言う「GM」に近い権限を与えられていた。大阪で試合が終わってから夜行列車で東京に向かい、早朝に目当ての大学野球の選手の家を訪問することさえあった。抱えたボストンバッグには札束がうなっていたという。
野村はこの鶴岡のもとで、スタッフが集めたデータを分析する役割を果たしていた。のちの「ID野球」につながる野村の「野球脳」は、鶴岡監督のもとで養われたのだ。
鶴岡は、監督として史上最多の1773勝を挙げている。勝率.609も史上1位だ。NPB史上最高の監督と言ってよいだろう。
野村克也は、その鶴岡一人が生んだ最高傑作だといってよい。
戦後初の三冠王、MVP5回、本塁打王9回、打点王7回、首位打者1回、ベストナイン19回に輝く。セ・リーグの王貞治とならぶパ・リーグの最強打者だ。しかも野村は野手で最も激職とされる捕手を26年間続けながら、この記録を打ち立てたのだ。まさに空前絶後と言えるだろう。
ただし、鶴岡一人は野村を直接の後継者とは見なしていなかったようだ。
鶴岡は1965年オフに蔭山和夫に監督の座を譲ると発表したが、発表の4日後に蔭山が急死。やむなく鶴岡はさらに3年監督を続け、退任した。後任は野村ではなく「100万ドルの内野陣」の中心選手だった飯田徳治だった。しかし飯田は監督としては成功せず、1970年に35歳の野村克也がプレイングマネジャーに就任した。
野村克也は後年、監督としても偉大な実績を上げるが、南海の監督としては成功したとは言いがたい。野村の野球理論は、鶴岡の理論を下敷きにし、それを精緻化したものだが、南海時代はそれを十分に生かすことができなかった。
野村に鶴岡ほどの人望がなかったという見方もあるが、それよりも1965年にドラフト制度が導入されたことが大きいだろう。
これによって巨人や南海など、金に飽かせて選手を獲得してきた有力球団の人材確保は厳しくなった。長池徳二は徳島、撫養高校時代に鶴岡に入団を約束し、鶴岡の母校である法政大に進んだが、ドラフトでライバルの阪急に指名されて入団し、阪急黄金時代の主力打者になった。人材獲得がままならない時代に入ったのだ。