その主張はノミネーション発表以後、批評家や業界関係者の間でたびたび聞かれてきた。最も積極的に発言したのは、先にも出たロサンゼルス・タイムズのチャンだ。彼は本投票真っ最中だった先週末、「パラサイトがオスカーを必要とするよりもっと、オスカーがパラサイトを必要としている」という見出しの長いコラム記事を書いている。
「パラサイトは、作品賞を取るべき映画。だがパラサイトは作品賞を取れない」という文で始まるその記事で、チャンは「海外の映画通は米アカデミーが自分たちの庭しか見ないとわかっている」と、シニカルに指摘。大多数のアカデミー会員はそれを変えたいと思ってもいないとも述べた。
続いて彼は、「オスカー作品賞を取ることでパラサイトがさらに優れた映画になるわけではない。また、取らなかったからといって劣る映画になるわけでもない」と、冷静な観点からアカデミー賞の意味や存在について考察。
最後は、「パラサイトには、もうこれ以上何かを証明する必要はない。アカデミーには、その必要がある」と、説得力を持つ言葉で締めくくっている。
彼や同様の意見をもつ業界関係者の言葉にどれほど影響力があったのか、正確にはかることはできない。だが、そもそも『パラサイト』がつまらないなら、どう言われたって人は投票しない。同作が支持を集めたのは、素直にこれは良い映画だと思ったからだ。
それが、理由その2。『パラサイト』は、多くの人が純粋に「おもしろい」と感じる映画だったのである。そこは昨年アカデミー賞作品賞にノミネートした『ROMA』との違いでもある。
2019年のアカデミー賞で『ROMA』がギリギリまで『グリーンブック』と争いつつも敗れた背景には、外国語映画であることのほかに、Netflixに作品賞をあげることへの強い抵抗が挙げられた。しかし、それ以前にあの映画を「心から」好きだった人は実のところ、それほど多くなかったのではないか。映画館で見た人はともかく、自宅で見た人からは、あの延々と続く冒頭のシーンですでに飽きてしまったという声も聞いた。
もちろん「何も起こらない」ことこそあの映画のポイントだ。辛抱強く最後まで見れば、「優れた映画だった」という評価になる。
一方で『パラサイト』は、最初からテンポが良く、飽きさせることがない。そして最後には、良い意味で、最初に想像していたものと全然違う映画だったのだとわかる。その意外性と衝撃が、強く心に残るのだ。格差や不平等というタイムリーな要素をもちながら決して説教くさくならないのも強みだといえるだろう。
だからといって、アカデミー会員の大多数がこれを1番気に入ったということは、意味しない。作品部門に関してのみ、アカデミーは候補作全部に順番をつける投票方式を採用している。1番に入れた人が最も少ない候補作を排除し、排除された作品を1番に入れた人の票は、次のラウンドで2番目を1番に繰り上げるというのを繰り返す。これは、「最高」と言う人と同じくらい「あれのどこが良いのか」と言う人もいる作品には、不利なやり方である。
つまり『パラサイト』は、今回の候補作9本の中で、最も多くの人が「あれは、まあ良かったよね」と思った映画だったのである。受賞の理由は、何をおいてもまず、作品の力のおかげなのだ。
しかし、賞は作品の力だけで取れるものではなく、タイミング、ほかの候補作など、「運」の要素も必要となる。今回はそれらがすべて揃い、さらに、もうひとつの要素「努力」も兼ね備えていた。ハリウッド映画ほどキャンペーンにお金をかけられない中、ポン・ジュノはこのアワードシーズン、せっせと投票者向けの試写会などにも顔を出している。また、ゴールデン・グローブや映画俳優組合(SAG)賞など授賞式では、心に残るスピーチをして人々を惹きつけ続けた。それら全部が、実を結んだのだ。
そんな一大事業を終えたポン・ジュノは、昨夜の受賞スピーチで、「朝まで飲むぞ」と語っている。目が覚めた後、彼はあらためて自分の達成したことの大きさを実感したのではないか。同じようにアカデミーも、自分たちのやったことのすばらしさに満足しているに違いない。チャンが言ったように、彼らはポン・ジュノ以上にこの賞を必要としていたのだ。歴史を良い方向に変えてくれたこの両者に対し、映画ファンとしても心から祝福を送りたいと思う。