天才の多くは熱中できる趣味を持っており、仕事と同じくらい究めようとする。アインシュタインはモーツァルトの専門家で、複雑で精微に組み立てられたその音楽を愛していた。ナポレオンはチェスの愛好家だったし、キュリー夫人は自転車で遠出をしては研究中の課題についてあれこれ考えた。
世界の見方も、天才とわれわれ常人とでは異なる。非凡な知性を持つ人々が、超越的なひらめきでだれもが無理と思った問題を解決してしまうのは、彼らがわれわれより高い視座からものごとを捉えているからだ。
天才は常人に見えないものを見て、常人の仮説を疑う。新たなつながりを作り、言葉に新たな意味を加える。
天才は規範を破り、現状をかき乱す。天才といると多くの人が居心地の悪さを感じるのは、天才の社交性に難があるからだけでなく、彼らがこちらの視点や立ち位置を揺さぶるからだろう。
要するに天才は、世の中の「こうあるべき」をひっくり返すのだ。彼らは、普通の人が常識だと思っていることを打ち砕き、より真実に近いビジョンに置き換える。
天才は問題を解決できるまで、寝ても覚めてもそのことばかり考える。最高に集中しているときの天才は、問題という架空の国を探検しているような状態になる。それほど没頭していると、他人の視点に立って考えたり、世界を別の観点から見たりするのは難しい。コミュニケーションは共通の視点があって成立する。だから、天才と会話しているといらいらさせられるのだ。
3、経験を盲信しない
過去の天才の例を見ていると、天才の思考プロセスには、分野にかかわらず共通する特徴があることに気づく。天才の思考は、いくつもの領域やアイデアをジグザグ状に横断する。多様な角度から問題にアプローチする。ある点から別の点へとわかりやすい軌跡をたどることもない。
コーネル大学出身の物理学者アレックス・コーウィンは、ノーベル物理学賞を受賞したリチャード・ファインマンの講義を受けたことがあるという。
コーウィンの話によれば、ファインマンの大発見はどれも偶然から生まれたそうだ。今ではごく単純に見えるそれらは、ファインマンが証明するまで誰も予想できなかった。証明そのものは明快で美しいが、存在が明らかではなかったのだ。ファインマンでなくてはその解にたどり着けなかったはずだ。「ファインマン先生には、誰にも見えないものが見えたんです」とコーウィンは言った。
イノベーションの詳細について初めて聞かされると、専門家はたいてい額を打って、「ああ、そのとおりですね!」と言う。でも、そのつながりを見抜くのは天才だけだ。存在が明らかになるのは、それが説明された後にすぎない。天才の発見は、単純であるという意味では美しいが、単純だから明らかとは言えないのである。
「どんな愚か者でも、物事を大きく複雑にはできる」と、経済学者のエルンスト・シューマッハーは言った。「だが小さく単純にするには、天才の力が必要だ」
物理学者のマレー・ゲル=マンは、それがただ「美しいから」という理由で、先に発表されていた実験結果と矛盾しているのを知りつつ、ある数式を発表した。ところが、先の実験のほうが間違っていたとわかり、その数式でゲル=マンはノーベル賞を受賞した。
アインシュタインも、自分の数式は正しいから美しいのか、それとも美しいから正しいのかをよく考えた。数式の美しさに惑わされて、正しくないものを正しいと思わないようにしていた。問題に直面すると、大半の人は過去に学んだことを思い返し、今起きている問題と似たものがないかを探す。関連する経験を探り出して、それをガイドに問題を解決しようとする。