【相次ぐ人員削減・ストライキ】AIで脚本家も俳優も不要に?クリエイティブな領域にも入り込む生成AI 【連載第2回】『生成AI社会』より本文公開

2024.09.30 Wedge ONLINE

 もっとも有名なのは第一次産業革命のときにイギリスで起きたラッダイト運動です。多くの労働者が紡績機によって職を失うことに不安を覚え、機械や工場を打ち壊したり労働環境の改善を求めたりしました。

 日本でも同様のことはあります。1954年に郵政省が事務機械を導入しようとしたところ、人員整理がはじまるかもしれないという不安が強まり、座り込みの反対闘争が行われました(科学技術庁 2013: 57)。結果として郵政省は事務機械の導入を見送っています。

 今後さらにコンピュータが高度化・ネットワーク化・遍在化していき、生成AIのレベルも向上していくことを考えると、「これからは創造性が大切である」といったとしても、そう簡単なことではありません。コンピュータは、もはや単なる定型的なタスクを行うだけではないからです。

 もしこれから創造性が大切になるなら、創造性とはいったいなにか、これから重視するべき創造性とはいったいなにかについて、正面から深く考えていく必要があるでしょう。

 正直にいいますと、このテーマは、私自身にとっても本当に大切です。研究者は、創造性の一要素である「新しさ」のあることをしないと評価されないからです。そのため自分なりの創造性を作り出していかなければなりません。

 また教育者として未来を担う学生を育てる立場からも創造性に向かいあわなければなりません。すでに大学では2000年代に生まれている若者が圧倒的多数です。人生100年時代が本当なら、そういった人たちは2100年の社会を目にします。

 プラグマティズムを展開したジョン・デューイは、「教育者は他のどのような職業人よりも、遠い将来を見定めることにかかわっている」(デューイ 2004: 121)といいました。不確実性が増しているなかで、遠い将来を見通すことはきわめて困難になっていますが、それでも教育者は未来と向かいあうことが求められています。

 創造性が求められているいま、創造性をどのようなものと考え、どのようにして学生の創造性を育めばよいのでしょうか。

 

これからの社会に求められる「倫理的創造性」

 創造性と同時に、コンピュータ技術にかかわる倫理についても考えなければなりません。というのもコンピュータを含めた技術の社会的影響があまりにも大きくなってきており、単に作りたいものを好き勝手に作ることが許されなくなってきているからです。コンピュータについても、コンピュータ技術を介して社会をよくする倫理が欠かせなくなっています。

 倫理は、人々の間にある秩序や歩む道、習わしのことをいいます。「倫理」という漢字は、「倫」と「理」からできています。「倫」は、「なかま、秩序」を意味します。「理」は、「ことわり、すじ道」のことで秩序の意味を強めています。このことから、倫理を考えることは、私たちの秩序をどのように形成していくかを考えることだといえるでしょう。

 私たちは、たった一人で生きているわけではありません。他者と交わらずに、たった一人で生活や仕事をしているわけではありません。そしてテクノロジーと無縁でいることも難しいといえます。

 どのように他者と接するか、どのようにテクノロジーを社会のなかに位置づけ社会生活を営んでいくか。こうしたことを考えつづけることこそが倫理的な行為であり倫理的なプロセスなのです。

 よく情報モラルという言葉が使われます。日本の教育現場では、40年ほど前から「情報倫理」ではなく「情報モラル」教育が展開されてきました。

 「SNSで友だちの顔写真を勝手に発信してはならない」「スマホを使いすぎてはならない」などと「……してはならない」ことばかり強調してきました。ネットいじめや犯罪被害など、負の側面ばかり強調してきました。生活指導の一環として、しばしば体育館や講堂に児童・生徒を集め、外部の講師が講演します(坂本ほか 2020)。