「会社の人間関係が苦手だ」「誰かといると、それだけで疲れてしまう」「面倒な人に関わりたくない」「会社に頼らず、一人で稼ぎたい」――そう考えつつもずっと我慢し続けている、いわゆる「コミュ障」さんは少なくありません。そうした方々に向けて、コミュ障でもぼっちでも、無理せず一人でも稼げるようになる技術「ぼっち仕事術」を指南します。
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褒められると嬉しいですよね。
人は「嬉しい」って快楽をまた得ようとして行動してしまうものです。褒められたいから頑張る、褒められたいから我慢する、というのはとても自然なことだと思います。
しかし、褒められるために頑張ったり我慢したりするのを続けていると、ある種の依存症みたいになることがあります。それでも普通はほどほどで止められるのですが、中にはブレーキがぶっ壊れている人がいます。
どういう人かというと、劣等感がめちゃくちゃ強い人です。
劣等感が強いと、自分で自分の存在を認めてあげることができないので、存在し続ける(生きる)ために、つい人から認めてもらうことを求めてしまうのです。
劣等感が人一倍強いわたしなりにこのつらさをたとえてみると、劣等感が強い人というのは、ずっと水中にいて「苦しい苦しい……」ってなっているんだと思います。それで息が吸えるのは、褒められたときだけ。だからこそ褒められたときに「やっと息が吸えた」みたいな安心感があるんだと思います。
劣等感が強い人は、褒められないと生きていけないので必死です。褒められることでしか「息継ぎ」ができないのですから、自然と褒められるための熱量も違ってきます。
褒められるために自分の睡眠時間も、食事も、やりたい遊びも全部我慢して、他の何もかもを犠牲にして、我慢して我慢して頑張って頑張って、「さあできたぞ! 全力で褒めてくれー!」となってしまうんですね。
これを続けていると、どうなってくるか想像してみてください。頑張った分だけ「褒め」も増えていってくれればいいのですが、皆さんご存知の通り、現実世界はそういうふうにできていません。
必ずこういうタイミングがやってきます。
「こんなに頑張ったのに、あんまり褒めてもらえなかった……」
「あんなに我慢して休日も潰してサービスしたのに、ありがと~の一言で済まされた……」
頑張りが大きければ大きいほど、不満も大きくなります。すると「そもそも指示がわかりにくいのが悪い」とか「あの人は現場のことが全然わかってない」とか「こっちの苦労も知らないで好き勝手言いやがって」と、自分のことは棚に上げて相手を責める気持ちが生まれてきます。
また、自分と同じように頑張っていない人に対しても不満が出てきます。「なんで自分ばっかりこんなに頑張らなきゃいけないんだ」「チームプレイなんだから、他の人も同じように頑張ってくれないといい成果は出ない」「みんな全然本気出してないよね。真面目にやる気あんの?」みたいに。
そしてこれを放っておくと、一人でどんどん攻撃的な方向に行ってしまいます。やがて、わたしがずっとそうだったように、いわゆる「孤立」という状態になります。
こうなると、周囲の人にも何かしら伝わってしまい、人間関係が悪化し、結果、そこにいられなくなり、もっと孤立する。「やっぱり自分はどこへ行ってもダメ、誰にも受け入れてもらえないダメ人間なんだ」と、さらに劣等感を強化させてしまう。こんな感じで、アリ地獄に吸い込まれるみたいにズルズルとどこまでも落ちていってしまいます。
わたしは、人から褒めてもらう、認めてもらうことを目標にしてきたことで、今までいろいろとやらかしてきました。
例えば、高校の頃、わたしは先生に褒めてもらいたすぎて頭がおかしかった時期があります。
全国の高校では、内申点を決めるために年4回、学校内で定期試験が行われます。この定期試験が、わたしにとってのいわゆる「息継ぎ」でした。題して、テストで良い点とって褒められる作戦。年に4回しか息を吸えるチャンスがないので必死です。
わたしの高校はいわゆる進学校で、勉強に重きを置いた校風でした。
成績によってクラス分けを行い、定期試験の点数順に席替えされるので、成績の良い悪いが座っている位置で一目瞭然、みたいな。
要するに、成績がすべて。成績優良者が正義でした。とりあえずどんな奴でも成績さえ良ければイジメられることはない、という環境だったのです。裏を返せば、わたしレベルのコミュ障ともなると、良い成績を取れなければ即イジメられという危険と常に隣合わせなのです。
各科目の授業ごとにテストを返却する時、優良点の人の名前をみんなの前で発表するのも通例になっていました。発表直前、先生が意地悪にためる事もあり、自分の名前が呼ばれる期待と呼ばれない不安でもう失神しそうなくらい心拍数が上がっていたのを覚えています。
ここで、「一位は◯◯点、末岐さんです」とか「80点以上は一人しかいませんでした。末岐さんです」みたいにって先生がみんなの前で発表してくれる瞬間が、わたしの 「息継ぎ」 タイミングだったのです。
そんなわけで、英語を除く主要教科ではほぼ一位総なめで独走状態でした(英語はいまだに全然ダメ)。
無事一位が取れた科目では「間違えた問題に関する質問」という名目で、職員室まで担当の先生に会いに行ってました。なんでそんなキモイことしてたかというと、先生が必ず褒めてくれたからです。「どの教科もがんばっててえらいね」「優秀だね」「末岐さんは先生の間でも有名人だよ」。
もうこの「がんばっててえらいね」の一言が、欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて、たまらなかったのを覚えています。
普通はテスト前日に徹夜して、終わった日は爆睡すると思いますが、わたしは逆で、テストが終わってから返却されるまでの日に寝つけなくなりました。「一位じゃなかったら褒めてもらえないかも……」と「一位で褒めてもらえて、みんなからすごーいって拍手されるかも!」の間を行ったり来たりで、一人で不安になったり興奮しまくったりしてるうちに朝になる、というのを繰り返していました。
当時の、友達もいなくて、部活でも孤立していて、家でも褒められることがまったくと言っていいほどなかったわたしにとって、「生きていて良い」「存在していて良い」と自分を肯定できる唯一の方法が、定期テストでいい点をとって先生に褒めてもらい、みんなからまばらな拍手をもらうことでした。
ちなみに家では、良い成績表を持って帰っても「一番だった!」って見せても「油断してたらすぐ他の子に抜かれるよ」とか「一位って言ってもクラスの中ででしょ」とかなんとか。
両親のそういった反応とは違い、先生はこれでもかってくらい褒めちぎってくれるので、なんかもうほとんど酩酊状態みたいな、やばい感じになってました。
先生には褒められるけど、クラスメイトからは孤立する。イジメられはしないけど、みんなから遠巻きにされる。自分には勉強しかない。そんな感じで青春を棒に振りました。
これは社会人になってからも変わりませんでした。
学生の頃は良い成績だけとっていればなんとかイジメられずに済みましたが、会社は学校と違って成績のようにわかりやすい評価指標はありません。
結果、わたしは大変な目に遭いました。
会社では、Aさんに褒めてもらおうと頑張った結果、Bさんに怒られる、ということが起こります。仕事の重要度や緊急度は、「科目」と違って均一ではないからです。
例えば、エラい人から任された仕事に全力を注ごうとすると、同ランクの人から頼まれた仕事は後回しにせざるをえません。
結果、エラい人には褒められるけど同ランクの人さんからは嫌われる。自分の昇進に直結するエラい人を優先すると、他の人たちから嫌われる、ということになっていきます。
当時、出世することが「息継ぎ」になっていたわたしにとっては、エラい人に褒められること以外はすべて「どうでもいい」ことでした。結果、エラい人には評価してもらえるけど、やっぱりチームの中で孤立していきました。
先生からは褒められるけど、クラスメイトからは嫌われる。学生のときとまったく同じパターンです。
会社でも、「仕事ができる末岐さん」以外に拠り所がありませんでした。ひとつ違っていたのは、学生の頃は頑張ればなんとかなっていたのが、会社では通用しなかったこと。やればやった分だけ評価されるわけじゃないからです。そんなわけでわたしは、自分が「仕事ができていない末岐さん」であることに耐えられなくなり、会社に行けなくなりました。