2017シーズンまさかの「96敗」から、昨シーズンセリーグ2位という快進撃を見せたヤクルトスワローズ。ドン底のチームを見事立て直した小川監督は今年、「KEEP ON RISING~躍進~」をスローガンに掲げ、さらなる飛躍を目指す。本連載では2018年シーズンに続き、インタビュアーにスポーツライター長谷川晶一氏を迎え、「躍進」を成せる強いチームをつくるにはどのような采配と決断が必要なのか――小川監督へのタイムリーなインタビューを通じて組織づくりの裏側に迫っていく。
(インタビュアー:長谷川晶一)
――すでに今シーズン限りでの監督辞任が決定しています。いつ頃決意をして、どのような経緯で退任にいたったのでしょうか?
小川 最初に(退任について)考えたのは(5月中旬からの)16連敗の頃ですね。セ・リーグワーストの不名誉な記録を作ってしまえば歴史に残ってしまいますから。もちろん、連敗の最中は「何とかしなくちゃいけない」という思いが第一で、セ・リーグワーストタイ記録で連敗が止まった時点で借金は10ぐらいでした。当然、「まだ巻き返すことはできる」「何とか立て直そう」という思いはありました。でも、交流戦、その後のペナントレースと進んでいっても、なかなか勝ち星が積み上がらない。そんな状況が続きました。
――4月終了時点では首位・巨人と0.5ゲーム差の2位で貯金は5つありました。しかし、5月12日、東京ドームでの巨人戦に勝利後、16連敗を喫しました。この時期には具体的にどんなことを考えていたのですか?
小川 まずはディフェンス面ですよね。守備の乱れから負けが続いて、同じパターンで16連敗となってしまったので、「何とか守備から立て直そう」と思ったんですけども、そう簡単にはいかず、結果的に交流戦も1勝2敗というペースで、そこでも借金を作ってしまいました。ディフェンス面がなかなか改善されなかったのが原因で、さらに厳しい状態となり、その頃にはすでに「すべて自分の責任だ」と感じていました。
――この時期に退任が頭をよぎったものの、まだペナントレースも中盤に差しかかる前でしたから、「まずは巻き返しを」の思いが強かった。では、現実的に退任を意識し始めるのはいつ頃のことですか?
小川 現実的に考え始めたのは交流戦が終わって、ペナントが再開されて、それでも勝ち星がつかなかった辺り、6月下旬……、7月上旬でしょうか。
――成績不振を理由に監督が交代するときは、「①シーズン途中での休養」「②最後まで任期を全うして退任」というパターンがありますが、この選択に関して、小川監督はどう考えていたのですか?
小川 もちろん、16連敗の最中に「何とか手を打たなければ」ということで、球団とも話し合いをしました。僕もフロント経験があるので、それは重々理解した上で話し合いに臨みました。現状を打開するための起爆剤としては、監督交代もあれば、コーチを代えるということもあれば、戦力補強という考えもあります。僕自身も2010年に高田繁監督からシーズン途中で監督職を引き継ぎました。あのときは、選手たちが頑張ってくれたり、シーズン途中で獲得したホワイトセルの活躍もあって、チーム成績が上がったので、僕が翌年から正式に監督になりました。監督が代わることは一つの起爆剤だと思います。
――チームの起爆剤となるために、「自ら身を引こう」と考えていたのですか?
小川 会社がそう判断すれば、もちろんそれに従うつもりでした。でも、会社からの指示でもないのに、「自ら身を引こう」とは思っていませんでしたし、それは絶対にしたくないと思っていました。とにかく、どういう状況になろうとも、最後までやり抜くというのは、自分の責任だと考えていたからです。負けが込んだことでいろいろ言われて苦しい思いもあったけど、「最後までしっかりやり続けなければいけない」という思いはずっと持っていました。