「相手を怒らせてしまわないか」という恐怖心や不安が、仕事の成果を妨げてしまうことというのはよくあります。
「このまま相手の感情がこじれて、交渉が決裂したらどうしよう」という不安のために、不利な条件で契約してしまった。あるいは、上司の説明がよく理解できなかったのに、「あまりしつこく確認して、上司の機嫌を損ねてしまったらどうしよう」と考えて確認を怠り、後になって大きな問題になってしまった、などなど。
誰しも、似たような経験があるのではないでしょうか。本当だったら、相手を怒らせてしまうかもしれないリスクがあったとしても、ギリギリのところまで一歩踏み込んで交渉したり、よく話し合って条件をすり合わせたりしたほうがいいのに、「相手を怒らせたらどうしよう」という不安が先に立ってしまい、うやむやにしてしまう。
こうした、仕事の内実よりも、相手との情緒的なやりとりに重きを置く傾向は、日本人独特の文化的背景があると私は考えています。
打ち合わせの途中で相手の表情が曇ったり、こちらの問いかけに、相手が腕組みをして沈黙したりすると、私たちはほとんど自動的に、相手の感情を推し量ろうとします。「知らないうちに、自分が空気を読まない言動をしてしまったのではないか」「相手の気に障ることを口にしてしまったのではないか」と相手の感情の動きを想像して、不安が頭をもたげます。
これは、私たち日本人にとってはかなり一般的なコミュニケーションのあり方ですが、おそらく、欧米のビジネスマンの視線から見れば、奇妙なものに映ることでしょう。というのも、打ち合わせの目的は「条件交渉」であって、相手と情緒的に「仲良くする」ことではないからです。
昔、病院の勤務医をしていた頃、そういう日本的コミュニケーションを十分に理解していなかった僕は、製薬会社のMRさんがなぜ、毎日のように医局に通ってきて、インスタントコーヒーを差し入れておられるのかが不思議で仕方ありませんでした。「この人はいったい、何をしにきているのだろう? そんなにコーヒーが好きなのかな?」と思っていたのです(笑)。
いうまでもないことですが、製薬会社のMRさんは、医者である僕に、薬を買ってもらう「営業」のために日参されていたわけです。インスタントコーヒーを差し入れるのも、雑談をするのも、そのためです。でも、当時の僕は、それが「営業」だということがなかなか理解できなかった。なぜなら「こういう薬が新しくできて、こういうときに使えて、おいくらで」という具体的な話をほとんどされなかったからです。
互いに要求を出し合ってすり合わせるだけであれば、内容だけなら10分もあれば済む話なのに、私たちは残りの50分を使って、互いの腹の探り合いをしたり、情緒的なやりとりをしようとする。
ビジネスの場において少し過剰なぐらい、相手の感情を推し測り、情緒レベルでコミュニケーションしようとする。こうしたコミュニケーションの背景にあるのは、日本人の「上下」を中心とした人間関係の文化だと私は考えています。
ビジネスの交渉の場で相手が怒り始めると、私たちは動揺します。おそらく、プライベートの場面で友人が怒っているときよりも、うろたえ、冷静に対応できなくなる人が多いのではないかと思います。それはなぜかといえば、ビジネスの現場における人間関係の多くが、「上下」の関係にあるからです。
もしも「上下」ではなく「対等」の関係性であれば、相手が怒ったとしても、そう慌てる必要はありません。相手の言い分に耳を傾け、こちらに非があれば謝り、必要があれば穴埋めをする。しかし、ビジネスの現場で相手が怒り始めたときには、私たちはなかなか、そんなふうに冷静に対応することができません。そこには無意識のうちに心の中に根付いた上下関係が影響しています。
日本の企業社会において特に顕著なことですが、会社の中であれ、会社同士の付き合いであれ、私たちは非常に強い「上下」の関係性のなかでコミュニケーションをしています。上司と部下の関係性は言うまでもなく、本来であれば対等であってもおかしくないはずの「店員」と「お客さん」の関係性も多くの場合、無意識のうちに「上下」の関係性になりがちです。
ではなぜ、上下の関係のなかにいると、相手を怒らせることへの恐怖心が高まるのか。それは、上下の関係というのは、往々にして「長期的な関係性」だからです。
学生時代の部活動で先輩=後輩の関係にあった人は、大人になってもその関係性を引きずることが多いようです。ビジネスの現場においても、私たちは(実際はどうあれ)目の前の相手との関係性(上下関係)が、これから先もずっと続くということを無意識のうちに感じ取っている。相手の怒りを買い、嫌われてしまうと将来までその悪影響が続くという固い信念が出来上がっているのです。だからこそ、私たちは「目上の人」の怒りを買うことを恐れるのです。