「企業の成功に対する計画の重要性は5%、残りの95%は実行である」と日産のカルロス・ゴーン会長は言っている。
人は論理によって頭では説得されても、心で納得をしていなければ行動を起こさない。「腑に落ちる」とか「腹落ちする」のが納得である。人を動かすためには、まず相手の心を動かさなくてはならない。
前回は、「目標の力」について述べた。目標はすべからく「ストレッチ納得目標」でなければならない。これが正しい目標の原理原則である。納得目標とは、部下と上司の話し合いの結果生まれる。頭で理解して心で納得した目標を「納得目標」という。上司が精魂込めて目標の重要さを説明し部下が理解した段階では、まだ「説得目標」なのである。そこにもうひと押しが加わって、心が動く「ストレッチ納得目標」が生まれる。
では、そのひと押しとは何か。それが「理念の力」だ。
前回「夢なき者に成功なし」という吉田松陰の言葉を紹介した。夢に時限設定と行動計画がつくと、それが目標となる。夢は目標の素であり、原動力である。人は夢があるから目標に向かって進むことができるのだ。夢のない目標は単なるノルマに過ぎない。夢は英語で“Dream”である。理念に一番近い英語は“Vision(ビジョン)”である。「我が社は今はそうではないが、将来はこういう会社になりたい」という「あらまほしき姿」である。どういう会社を目指すのかという「あらまほしき姿」は、まさに理念によって描かれる。
人が人としてあるためには、心を持っていなければならない。理念なきトップはトップとは言えず、理念を語れないトップはトップとしての役割を果たせない。理念とは目標、戦略、戦術、すべての根源なのである。
人が行動するときには動機が必要である。カネや地位も動機を高めるための根源となり得るが、残念なことに持続力がない。人は大義“Cause”や誇り“Pride”を動機としたときやる気が高まる。大きなことを信じた時に人は大きな仕事をする。大義や誇りに比べればカネや処遇が人の動機づけに及ぼす影響ははるかに小さい。
こういう逸話がある。古代エジプトでピラミッドを築くために大勢の人間が石を運んでいた。ひとりの旅人が労働者に「あなたは何をしているのか」と尋ねた。労働者は「見たらわかるだろう。石を運んでいるんだ」と答えた。旅人は同じことを2人目の労働者に尋ねた。労働者は「あそこに建築途中の建物があるだろう。あの材料の石を運んでいるんだ」と答えた。旅人はさらに3人目の労働者に尋ねた。すると彼は「私はいまエジプト文明を築くための仕事をしているのだ」と誇らしげに答えた。これが理念の力である。自分たちの仕事や目的は何ためにあるのか。その目的が偉大であればあるほど人は頑張れる。大義があれば、つらい仕事も大儀でなくなるのだ。
トランプ大統領から遡ること29代前のアメリカ大統領、エイブラハム・リンカーンは、南北戦争の最中、戦争の原因でもあった奴隷解放を実現するための憲法修正に取り組んでいた。議会は奴隷解放に賛成が半分、反対が半分だった。与党である共和党にも、穏健派と急進派がいて憲法修正の決議は見通しがつかなかった。議会の期限が迫る中、リンカーンは反対派と急進派の説得にかかった。鍵は急進派が握っている。急進派は奴隷解放のみならず、一気に市民権を与えることを主張していた。いまから思えばごく当たり前のことに見えるが、当時の白人アメリカ市民は奴隷に参政権を与え、彼らが政権を握れば自分たちに報復があるのではないかと本気で心配していた。
そこに急進派が市民権を与えるという主張をすれば、奴隷解放までなら賛成する議員も恐れをなして反対派に回る。すなわち急進派が穏健路線に転換すれば、リンカーンに勝ち目が出るのだ。このときリンカーンは急進派の幹部に対してこう言った。「自分たちは同じゴールを目指している、理念は同じだ、しかしまっすぐにゴールに向かえば途中にある川に沈み、崖から転落するかもしれない。そうなっては誰もゴールにたどり着けない。たとえ回り道であっても、我々は確実にゴールに辿り着く道を選ぶべきだ」。
理念は同じなのだ。戦術には違いがあるかもしれない。しかし、理念を実現するためには、今ここで小さくても確実に一歩を進めないと、次に進むことはできない。そう言って急進派を穏健路線に賛同させたのである。これが理念の力だ。リンカーンが使ったのは説得力ではなく「理念力」である。