トヨタ自動車は2030年に自動車の生産台数のうち、半数を電気自動車(EV)にするべく、電池の共同開発でパナソニックと提携をすると発表した。2030年までには、わずか13年しかないが、それまでに電気自動車を市場に送り出すためには、短期的に乗り越えなければいけない課題が山ほどある。
長時間走れる電池の開発とモーターの開発、これは社内の課題だ。しかし、課題は社内だけにあるのではない。電気自動車を市場に送り出すためには、電気自動車の市場ができあがっている必要がある。これは、いかに世界のトヨタといえども、社内だけではどうにもならない。日本の社会全体が動かなければ、市場は形成されないからだ。
だが、トヨタには実績がある。トヨタ自動車の創業者、豊田喜一郎が国産の自動車をつくることを目指したときには、トヨタには十分な品質の自動車を生産する技術はなかったし、また日本にはまだ自動車市場もなかった。それでもトヨタはスタートした。トヨタにあったのは長期の「夢」だけである。
トヨタはまず自動車をつくる技術を獲得した。しかし、自動車市場のできていない当時の日本では、自動車は売れない。そこでフォードと同様に普通の人々が乗る自動車づくりを目指していた喜一郎であったが、喜一郎は自動車市場が育つまで会社を支え続けるために、軍用の自動車、トラックづくりを始める。今日の電気自動車も、トヨタ創業当時に自動車が置かれていた状況に近いと言えよう。
企業を継続的に繁栄させるためには、長期の計画が必要だが、短期できちんと売上と利益を確保できなければ、長期の「夢」は実現できない。トヨタの電気自動車生産宣言は、単なる夢の発表ではなく、着実な長期的見通しに基づいたものと見るべきである。
経営の要諦はバランスにある。それもエッジ(尖がり)の利いたバランスがよい。絶妙なバランス感覚で企業の舵取りができる人を「名経営者」という。一方、トップがバランス感覚に欠けていれば、企業や組織は必ず迷走する。バランス感覚のない経営者は「迷経営者」ということになる。トップのバランス感覚は企業の死命を制するのだ。
東芝問題のそもそもの発端は、ウエススティングハウスの買収の(結果論としての)失敗にあるが、その後トップが見かけ上の目標達成を求めるあまり、現場が目標数字に「チャレンジ」して辻褄合わせのために不正な会計処理を行ったことにある。目標達成はとことん追求すべきことだが、不正を招くほど強引に達成を求めるのは邪道であり、禁じ手である。東芝の経営者は、バランス感覚を欠いていたがゆえに、今日の東芝の苦境を自ら招いたのだ。
一般に製品の品質・性能を追求すればコスト高となり、利益を圧迫する。そのため利益を追求すれば、製品の品質・性能を犠牲にせざるを得ないと考える人がいる。両者は対立するという考え方だ。東芝、三菱自動車、神戸製鋼所やスバルは、こうした考え方にとりつかれていたのだろう。
こうした考え方をトレード・オフ“Trade Off”という。トレード・オフとは「あちらを立てれば、こちらが立たず」という二律背反的思考で、いずれかを犠牲にすることだ。トレード・オフでは、何かを得るためには何かを犠牲にするしかない。成果は何らかの犠牲の上に成り立つということになる。
この考え方は一見もっともなように聞こえるが、実は怪しいところがある。その怪しさは東芝、三菱自動車、神戸製鋼、スバルを見れば明らかだ。安全性を支える品質を犠牲にして、利益を上げるという選択は経営の正道からはあり得ない。邪道の経営である。安全性を支える品質は、間違ってもトレード・オフで犠牲にされるべきことではなく、どんなに利益を確保しなければならないときでも「トレード・オン“Trade On”」でなければならない。
トレード・オンとは、「あちらを立てれば、こちらが立たず」という状況を「あちらも立てて、こちらも立てる」という状況にすることだ。トレード・オンこそが、バランスの力の要諦である。トレード・オンを実行・実現できるトップが「バランスの力」を持った経営者といえる。「あちらを立てれば、こちらが立たず」という状況を、相対的な比重のかけ程度の差はあるが、「あちらも立てて、こちらも立てる」という状況に昇華するのがトップの力である。
はじめから犠牲は仕方がないとあきらめるようでは、正しいバランスの力は永遠に身につかないと心得るべきだ。利益の確保が至上命題である場合でも、安全性を確保したうえで利益を出すことは、モノづくりの基本中の基本である。利益を出すために品質検査を怠るなどという企業は、どこかで邪道に迷い込んだとしか思えない。
トップのバランスをとる力とは、一見対立するものを両立させる力である。しかし、日本企業においてはバランスとは、もっぱら隣の会社と歩調を合わせることを意味しているように見える。隣の会社とは、同業、同規模の他社のことである。
平成時代の初期、バブルのピークに一時的に流行し、バブル崩壊とともにあっという間に消えていった企業メセナ(企業の文化活動)など、その一例だろう。バブル期の企業メセナとは、経営哲学的背景のまったくない、隣の会社がやっているから我が社もやるという、一過性の風潮に終わった活動だった。ヨソがやるからウチもやろうという村社会的なバランス発想は、ここでいうバランスの力とは何ら関係のない、いわば悪しき日本企業の旧弊の一つである。
しかし、この旧弊は構造改革によっても改められず、日本の多くの大企業にいまだに残っている文化だ。繰り返しなるが、トップに求められるバランスの力とは、対立したものを両立させる力である。
しかし、絶妙のバランスをとるというのは非常に難しい。また、経営のバランスとは、必ずしも両者の中間点に位置するというものでもない。社内事情や外部環境によっては、バランスの位置が変わることもある。では、経営者の心得としては、最適なバランスの位置取りというものをどう考えればよいのだろうか。
過ぎたるはなお及ばざるがごとしという。過ぎたるも、及ばざるも、バランスという面ではどちらも合格点ではないということだが、明治維新の英傑のひとりで、維新政府の中心であった大久保利通はこう言っている。
「過ぎたるはなお及ばざるがごとしと言うが、自分は過ぎたるはなお及ばざるにしかずと言いたい」
大久保利通によれば、徳川家康も大久保と同じことを言っていたそうだ。大久保が、及ばざるのほうが過ぎたるに優るとする理由は「やり過ぎるのはやり足りぬより悪い。やり過ぎてしまったら、後はもう取り返しがつかぬけれども、やり足りぬうちは熟慮してやる(やり直す)余裕がある」からだということである。
したがって、「過ぎたるはなお及ばざるにしかず」という大久保説となる。変化の激しい環境での企業経営には常にリスクが伴う。リスクを無視した強気一辺倒の経営では、よほど幸運に恵まれない限り経営は安定しない。最悪の場合は倒産である。
一方、リスクを過度に恐れ、リスクを取らない経営も成り立たない。「最大のリスクとは、リスクを取らないことである」という言葉もあるくらいだ。リスクは取っても、取り過ぎないバランス感覚が大事なのである。そのため、経営者には豪放磊落(ごうほうらいらく)型よりも小心翼翼(しょうしんよくよく)型がよいといえる。なぜなら豪放磊落型は積極的にリスクと取る反面、ときにリスクを無視する傾向もある。やり過ぎるのが豪放磊落型の欠点だ。
その点、小心翼翼型の経営者のほうは、やり過ぎに対する警戒を常に怠らない。やり過ぎる「リスク」が小さく、リスクが顕在化したときに無視せず、速やかに対応するから、経営者の心得としては、小心翼翼型のバランス感覚がよいと言える。
次回に続く