平成29年も押し詰まってきた。来年は平成30年である。だが、平成は31年で終わることとなっている。平成31年の5月からは元号が改まる。昭和は64年まであったので、平成はその半分に満たない年数で終わることとなる。
平成という元号はバブル経済のピークから始まった。しかし、バブルは瞬く間に崩壊し、以後、平成の日本経済は数10年にわたって低迷を続けることになる。そして日本経済はついにバブル崩壊以前の状態に回復することはなく、過去の日本の経済とは異なる位相へと構造が変わった。
バブル崩壊後、日本の経済界は立ち直りのためにさまざまな試みを行ってきた。BPR(ビジネス・プロセス・リエンジニアリング)、流通改革、金融ビッグバン、ムダどり、オフバランス、成果主義人事制度、この他にも大小さまざまな改革が試みられた。しかし、いずれの改革も短期的な効果はあったものの、日本経済全体を浮揚させるには至らなかった。
『ジャパン アズ ナンバーワン: アメリカへの教訓』(エズラ F. ヴォーゲル 著 広中和歌子、木本彰子 訳 TBSブリタニカ)という1979年に発行された、日本的経営を賛美したベストセラーに再び注目が集まったのも、このバブルの時代だったが、平成という時代を俯瞰(ふかん)してみれば、日本的経営が終わっていった過程でもある。
日本的経営が終焉していった過程を称して、我々は構造改革と呼んでいた。構造改革によって、昭和から続いていた過去の日本的システムは「制度疲労」が顕在化したとして、古い制度は次々と改められた。改められたものの中には、たしかに旧弊であったものもあれば、改めた結果、かえって悪くなったことも少なくない。たとえば、流通改革は価格破壊を招いたが、価格破壊は今日から見ればデフレの序章であった。
私は日頃から「不易流行(ふえきりゅうこう)」という言葉を口にすることが多い。不易流行とは、俳聖・松尾芭蕉の「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」という言葉が原典といわれる。
平成という時代の90%は、バブル崩壊で落ち込んだ日本経済をなんとか立ち直らせようと、企業が処方箋を求めて「流行」を追いかけ続けた時代であった。ところが、流行ばかりを追い続けるあまり、肝心の「不易」、すなわち不変の原理原則が見落とされがちだったことも指摘しておきたい。
経営というのは、つまるところバランスである。不易を忘れて、流行だけを追いかけても足元をすくわれることになる。その代表的な例が東芝であり、神戸製鋼であり、三菱自動車だったといえよう。旧聞に属するが「耐震偽装」などもそのひとつの現れだ。
日本の製造業を代表する大企業の不祥事が、平成の終わりになって立て続けに表面化したのは、けっして偶然ではないように思える。不易を忘れて流行だけを追う経営では、どこまで行っても対症療法にしか過ぎず、その場しのぎで、長期的な見通しのない刹那的な措置に終わることとなる。アスピリン療法、バンドエイド療法であり、その場限りの一時的手段である。平成とは、そうした短期の改善にもがき続けた時代だったように見える。
前方を見ていないまま歩けば道を誤り、また目の前に近づくまで大きな障害物に気がつかないこともある。一方、足元を見ていなければ、小さな石ころにさえつまずいてしまう。前方を見ながら、足元の注意もおろそかにしない、これが道を歩く時の基本だ。
しかし、我々は悪路を歩いているときには、ついつい足元ばかりに目が行ってしまう。経営環境の激変する現代は、悪路そのものである。悪路でありながら、今日の企業経営にはスピードも求められている。何とか転倒(倒産)しないようにと、足元ばかりに注意が向かってしまうのは無理からぬところだ。
だが、前方を見ない、すなわち長期の見通しを持っていなければ、正しい方向へ進んでいるのかわからないし、会社がどこに向かって進んでいるのかさえおぼつかないこととなる。行き先がわからないようでは、社長の後に従っている社員は不安を覚える。といって足元の小石や穴に足を取られては、いかに長期の見通しを持っていたとしても、道半ばで頓挫してしまうことになる。夢も希望もあったものではない。したがって短期も大事、短期的に経営が成り立っていなければ、長期的経営は成り立たない。
“走れる前には歩けなければならない”というイギリスの諺があるが、歩ける前には自分の足で立てなければいけない。会社が自分の足で立つためには、短期の利益を出すことが肝心だ。短期あっての長期なのである。
その一方で、短期の自立の励みになるのが長期の見通しであり、将来の夢であり、目指すべき理想である。すなわち、長期の見通しが短期の経営に命を吹き込む未来からの風なのだ。したがって、長期と短期はバランスよく両立していなければならない。