「ビールに味を! 人生に幸せを!」――従来ビールをあまり飲まないとされていた層へ向け、年齢、地域、仕事、趣味趣向を明確に設定し、新市場を開拓した“我流ビールづくり”で、業界の常識をも覆してきた株式会社ヤッホーブルーイング。ビールづくりをエンターテイメント事業と位置づけ、その舵取り役として同社を率いるのが、代表の井手直行さん。美味しいビールはもとより、社員とファンをつなぎ、「幸せ」を届けるチームを築くまでを、「自分の道」を探し続けた井手さんの試行錯誤の歩みとともに伺ってきました。
(インタビュー・文/沖中幸太郎)
井手直行(いで・なおゆき) 株式会社ヤッホーブルーイング代表取締役社長 よなよなエール愛の伝道師 1967年、福岡県生まれ。国立久留米工業高等専門学校卒業後、電気機器メーカー、広告代理店などを経て、97年、株式会社ヤッホーブルーイングに創業メンバーとして入社。地ビールブームの衰退とともに落ちた売り上げを、ネット通販業務の推進により立て直し、奇跡的なV字回復を達成。08年、同社代表取締役社長に就任。11年連続の増収増益をあげ、全国200社以上のクラフトビールメーカーのトップシェアに。業界のエンターテイメント企業として新しいビールの楽しみ方を提案している。 |
――今回も、また驚きのビールが好評です。
井手直行氏(以下、井手氏):ちょうど先日、ご要望にお応えして、アメリカ市場向けに開発したクラフトビール「SORRY UMAMI IPA(ソーリー ウマミ アイピーエー)」の日本国内限定発売が始まり、その準備などで慌ただしくしていたのですが、無事に皆さまにお届けすることができて、ほっとしているところです。
看板製品である「よなよなエール」や「水曜日のネコ」も、多くの企業が行うような「なるべく市場規模の大きなものを攻めていく」こととは真逆を進みました。大手ビール会社のターゲット層が、40~50代の男性であるのに対し、従来あまりビールを飲まないとされていた女性層、しかも年齢、地域、職業、趣味趣向などを明確化し、決して万人受けしない、細かなターゲット層を設定。そうして、小規模だからこそできることをやり続けた結果、売れない時期を乗越えて少しずつお客さまに受け入れられてきました。
ビール会社として美味しいビールをつくり、皆さまにお届けするのは当然のことですが、ぼくたちの役割は、ビールを通したエンターテイメント事業です。ビールを通じて幸せを感じて欲しい。そうした想いから、スローガンも「ビールに味を! 人生に幸せを!」と謳っています。
この「幸せ」は、飲んでいただくお客さまだけでなく、それを届ける社員にも向けられています。ヤッホーブルーイングは会社組織ですが、上意下達ではなく、それぞれがチームとなって、みずからやろうとしていることに対して、みんなで決めて動いていく体制です。社内では上下の垣根をなくし風通しをよくするため、お互いをニックネームで呼び合っていて、社長アシスタントは和太鼓をやっていることから「どんちゃん」。広報に相当する「よなよなエール広め隊」の「まりりん」は、名前から。ぼくは「よなよなエール」の通販サイト時代からの名残で「てんちょ(=店長)」と呼ばれています。
――「てんちょ」である井手さんの立ち位置は、どんな感じなんでしょう。
井手氏:ぼくの立ち位置は、全体の方向を指し示すリーダーで、主役はあくまで社員ひとりひとりです。新製品開発でも、ぼくが推した案が不採用となることは、多々あります。「社長」の推す案だと、なかなか反対意見はあげにくいかもしれませんが、「てんちょ」だと、容赦なく反対意見が飛び交いますから(笑)。
大手や普通の会社ではできないことをやることこそが、自分たちの強みであり、原動力になっています。おかげさまで、今ではこうして“ファン”の皆さまや社員たちと幸せを分かち合えていますが、ここに至るまでには、会社も、そしてぼく自身も多くの試行錯誤を繰り返してきました。
井手氏:ぼくは福岡県の久留米市出身で、男3人兄弟の真ん中、好き勝手な次男坊として育ちました。親の言うことも聞かず、勉強はからっきしダメで、通知表でまともに見られるのは、体育ぐらいでした(それも素行が悪いから、満点は貰えず4)。親や先生には、しょっちゅう怒られていましたよ。
人から言われたことをなぞるのが苦手で、人と同じことをするのも嫌いでした。また、他人の行動を見て「自分だったら、こうするのに」と、いつも自分に置き換えて考えるような性格でしたね。進路も、まわりは普通の高校に進むのですが、ぼくはまた大学入学のために受験をするのはうんざりだと、試験は難しかったのですが5年制の国立工業高等専門学校(高専)にチャレンジしました。洋楽が好きだったので、将来はオーディオ関連の仕事に就きたいと、電気工学科に進みました。
高専は半分大学のような場所で、生徒の自主性が重んじられ、普通の高校より自由度が高いのが特徴です。最初のころは、サッカー部に入って普通の高校生と同じように生活していましたが、3年生になってからは、自由きままな性格が出てきたのか、卒業するまで学費、食事代、免許の取得費用にバイク代、社会人になるまでの当座のお金をすべて稼ぐほど、アルバイト三昧(ざんまい)の日々でした。
――どうして、そんなに頑張っていたんでしょう。
井手氏:両親ともに働いていましたが、実はそんなに裕福な家庭ではありませんでした。子どもから見ても生活が楽ではないことは明らかでしたから、早く自立しなければと思っていたんです。母は、健康飲料の配達員をやっていたのですが、一軒あたりのわずかな報酬を得るため、毎日自転車のかごに大量の商品を入れて配って回っていました。年末年始は数も多く、ぼくも商品を持って後ろからついて手伝いましたが、一軒一軒、朝から晩まで、ふらふらと自転車をこぐ母の姿を見て、自立への想いは一層強まりましたね。
後ろからついていくのが、スクーターから車に変わっても、母のその仕事ぶりは変わりませんでした。ある時、ケンカの最中に「くそばばあ」と言ったら、大根持って追っかけてくるようなパワフルな母でしたが、今はそんなことばかり思い出されます(笑)。
アルバイトは、自分の道を歩むためのお金を稼ぐ目的もありましたが、いろいろな社会経験が積めるのも魅力的でした。ファミリーレストランでの皿洗いから始まって、ちゃんぽん屋さん、イベントの着ぐるみ、家庭教師、焼き肉屋さん、数ヶ月、半年ごとに職を変え、時には掛け持ちしながら興味のある仕事は、どんどんやる。ただ悪いクセも覚えてしまって……。貯金が溜まったらパチンコにつぎ込むようなこともしていましたね。