上 下
32 / 64
第二章

7.俺の事情

しおりを挟む
 『おい、そこのボウズ! 終点だぞ、降りてくれ』
 『……いやだ』

  俺には家族がいなかった。
  家に帰れば、父と母、それに兄がいる。もっと小さい頃は祖父と祖母もいたけれど、その二人はもうこの世にいない。
 「大和」の名前をくれた祖母だけが、唯一家族と呼べる存在だった。その他は、ただの同居人だ。
  おはようの挨拶もしない。おかえり、いってらっしゃいと言ってくれるのは使用人だけだった。
  当然そんな家に帰りたくなるはずもなく、小学三年生のある日、俺は家出するつもりでバスに乗った。

 『おいおい、降りてくれねぇとオジサン困るんだけどなぁ。つーかその制服、紅梅町のお坊ちゃん学校のじゃねーか。なんだ、ボウズの家は金持ちか?』
 『知らない。家に、帰りたくないんだ』
 『はぁ、困ったな……ボウズ、名前は?』
 『……大和』

  人に名前を聞かれて「平原大和」と答えると、大抵「ああ、あの会社の」と言われる。それが嫌だった。
  俺はあの会社の人間じゃない。「平原大和」なんだ。でも、平原の家抜きで俺を見てくれる人はいなかった。
  そのうち、俺は苗字を言わなくなった。ただの「大和」として、普通の家族のように、おかえり、ただいまを言い合える家族が欲しかった。

 『おい、大和。お前は何で家に帰りたくねぇんだ。母ちゃんに怒られたか? 父ちゃんに殴られたか?』
 『……その方がまだましだよ。父さんも母さんも、おれに全然興味がないんだ。だったら産んでくれなきゃよかったのにさ』

  両親に怒られた記憶も、殴られた記憶もない。
  あるのはただ、『勉強しろ』『恥ずかしい行動はするな』『大人しくしていろ』と言われた記憶だけ。たまにテストで良い点を取っても、徒競走で一位になっても、膝をすりむいて帰ってきても、両親は何も言わなかった。
  友達の家のように運動会に来て応援してくれることも、授業参観に来てくれることもなかった。教師との面談だけは顔を出してくれたけれど、『とりあえず成績が伸びればそれでいい』と言ってろくな話はしていなかった。

 『なんだ、そんな悲しいこと言うなよ。お前の母ちゃんは腹痛めてお前を産んだんだぞ』
 『頼んでないよ。いっそ、捨ててくれたらいいのに……一応、将来のためにおれがいるんだって』
 『はぁ……こりゃ何言っても駄目だな』

  兄の隼人は、この異様な家族を受け入れている。両親や周囲に四六時中「お前は社長になるんだ」と言われ続けて、もはや洗脳されているとしか思えない。
  その分、俺はまだましだ。「お前は予備だ」と言われているのだ。予備ならば、まだ逃げ出せる可能性がある。反抗心もある。兄のように、両親の言いなりになるのだけは嫌だった。
  そんな俺を兄は見下し、俺もまたそんな兄を憐みの目で見ていた。

 『……よし。分かった。大和、ここ座れ』
 『え?』
 『お前がどうしても降りないなら、お望み通り連れまわしてやる。いいか、内緒だぞ。知られたらオジサンの首が飛ぶからな』

  家出するつもりで乗ったバスの運転手は、白髪交じりの「オジサン」だった。無駄に声が大きくて、ずけずけと俺の領域に土足で踏み込んでこられているような気がする。でもそのお節介は、どこか心地よかった。

  一番後ろの席にぽつんと座っていた俺を運転席の真後ろの席に座らせて、運転手はもう一度運転席に座った。終点まで来てしまったはずだが、どうするつもりなのだろう。

 『それでは発車しまぁす。行先は特に決めておりませーん』
 『え……』
 『家出した大和くんのための、特別バスツアーでございまぁす』

  運転手はふざけた口調でそう言うと、車庫に入るはずだったバスを再び走らせる。
  驚きながらも、どんどん移り変わっていく窓の外を見て、俺はこれから冒険に出るような昂揚感を覚えた。こんな気持ちは、生まれて初めてだった。

 『なあ大和、お前の将来の夢はなんだ?』

  ハンドルを握りながら、運転手が大声で俺に尋ねる。

  将来の夢。
  学校の宿題でも、将来の夢を絵に描いてきましょう、なんてのがあったけど、俺は何も思い浮かばなかった。
  兄のように、父と同じ社長になりたいわけでもない。むしろ父のようには絶対になりたくなかった。
  でも俺が触れたことのある大人は、父と母ぐらいしかいなかった。

 『……分かんない』
 『そんなことねぇだろ。あのな、将来の夢っつってもなりたい職業を言えってわけじゃねぇんだ。あるだろ、夢。なんでもいいんだよ、空を飛びたいとか、宇宙に行きたいとか、百万円欲しいとか』

  なりたい職業ではなく、夢。
  それなら俺にもあった。でもそれは、絶対に叶わない夢だ。

 『……家族が、ほしい』
 『は?』
 『おれ、家族がほしい。ただいまって言ったら、おかえりって返してくれて、遊園地に行ったり、水族館に行ったり、一緒に楽しいことができる、家族がほしい……』

  それは紛れもない本心だった。でも、誰かに話すのは初めてだった。
  家族にはもちろん言えるわけがない。同級生にこんな話をしたら、きっと変な目で見られる。最悪、平原さんの家は家庭に問題がある、なんて噂話になりかねない。
  でも、この偶然出会っただけの運転手になら言えた。俺のささやかで大きな夢を、初めて口にできた。

 『なんだ、それなら簡単だ。早く大人になって、良い嫁さん見つけることだな』
 『え……?』
 『今の家族とは分かり合えねぇんだろ? だったら無理に分かり合おうとしなくていいさ。世の中全ての家族が仲良く暮らせるなんて、そんなおとぎ話みてぇなことがあるはずねぇからな』
 『でも、きっとおれのお嫁さんも父さんが決めるよ。そういう家だから』
 『そんなモン知ったこっちゃねえ、って言え! 嫁さんくらい自分で決められなくてどうすんだ』

  知ったこっちゃねえ。初めて聞く言葉だった。
  でも、妙に耳触りが良くて、つい口に出してみたくなる言葉だ。

 『……知ったこっちゃねえ』
 『ああ、そうだ! お前が好きになった女と結婚して、新しい家族を作ればいいじゃねぇか。それで子どもも産まれたら最高だな』
 『子ども……』
 『オジサンも良い嫁さんは見つかったがな、あいにく子どもは産まれなかった。まあそれでも十分幸せだが、子どもが産まれたら、それはそれで幸せだろ。お前が親父さんにしてほしかったこと、お前が子どもにしてやればいいんだ』
 『でも、それっておれも楽しいのかな? 幸せになれる?』
 『当たり前だろ! お前が今の家に産まれた事実はもう変えられねえが、この先はいくらでも変えられるぞ。大和、お前が変えようと思えばな』

  バスが赤信号で停まると、運転手はポケットから煙草を取り出して吸い始めた。これも内緒な、と言われて、俺はその煙の匂いにむせながら頷いた。

  どうあがいても、変えられないものはある。
  だったら、変えられるものを変えようとすればいいだけだ。
  その単純で明快な答えは、幼かった俺の心に深く刻み込まれた。





 「大和様。ご準備は整いましたか」
 「……ああ」

  未だに着慣れないスーツを着て、紺のネクタイを首に締める。このまま死ねるほど締められたらいいのに。それができないのは、己の弱さだ。

  平原の家に戻って、もう一年以上経つ。それは同時に、倫と離れて一年以上経ったということだ。

  倫。元気にしているだろうか。
  倫に連絡を取ることは許されていない。もし連絡をとったら、あの写真を倫の地元にばらまくと脅されている。
  目立つことが嫌いな倫が、そんなことをされたらもうあの街にはいられなくなる。あれだけ頑張って受かった大学に、倫が通えなくなるかもしれないと思うだけで胸が苦しかった。やっと家族と打ち解けて、家に帰るのが苦痛でなくなったのだと笑っていたのに。
  あの笑顔が消えるくらいなら、俺はどうなっても構わないと思った。全てを投げ打ってでも、倫の笑顔だけは守りたかった。

  倫の合格発表があったあの日、俺はあの街を去った。最後にもう一度倫に会いたいと言ったが、許されなかった。
  兄にスマートフォンを奪われる寸前、倫から届いたメールに「受かりました。だから返事ください」と書いてあるのを見て、心底ほっとした。
  もう何もいらないと思った。倫が幸せだったら、俺は何もいらない。

  しかし倫と離れて数日もしたら、そう考えた自分が信じられないほど倫に会いたくなった。
  何もいらない。倫の他には何もいらない。倫と二人で、どこか遠く、誰の目も届かないような場所へ逃げてしまいたかった。

  何度も倫の元へ戻ろうと思った。あの写真をばらまかれたとしても、倫がいればそれでいい。ただ倫が俺に笑いかけてくれたら、他の誰かにどう思われようが関係ないとさえ考えた。

  そんな俺を押し止めたのは、やっぱり倫だった。
  家族との距離が縮まって、倫はよく笑うようになった。もう険しい顔をしてバスに乗ることもなくなった。
  最初は「七海と遊びに行った」とか、友達として名前が上がるのは上田さんくらいだったのに、そのうち他にも親しい友達が出来たと言っていた。男子の名前も時々あがって、俺は大人気なく嫉妬したりもした。もちろん、倫には言わなかったけれど。

  今という時間を楽しんでいる倫を、この街から離してはいけない。倫の幸せを、俺が奪ってはいけない。俺のために倫が全てを失うなんて、考えただけで恐ろしくなった。

  倫が幸せなら、俺は何もいらない。結局、その考えに落ち着いた。
  今回の見合いも、本当ならふざけるなと言って叩き返したかった。なぜ会ったこともない女と家族にならなければいけないのか。まっぴらごめんだと思った。
  しかし、兄は例のごとくあの写真を持ち出してこう言った。

 『大学生なら、今度は就職活動だね? 邪魔が入らないといいんだが……』

  望みは捨てきれずにいたが、今となっては諦めの方が大きかった。
  俺は結局、この忌まわしい家族の人間たちに、何もかも吸い尽くされるために産まれてきたのだ。そんな人間が、愛されて育った倫と幸せになりたいだなんて、おこがましい望みだった。

  でも、もういい。
  名前も知らないどこかの娘と見合いをさせられようが、興味もない会社を継がされようが、この気持ちが揺らぐことはない。
  何をしたところで、俺の心は変わらない。いつか倫と誓ったときと、何も変わっていない。

  結婚して、子どもも作って、いっぱい愛してあげよう。
  倫のすべてがほしい。

  恥ずかしげに頷いてくれた倫の姿が、今でも目に焼き付いている。
  目を閉じて浮かんでくるのは、いつだって倫の笑顔だった。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

筆頭騎士様の夜伽係

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:31,631pt お気に入り:1,790

愛と呼ぶには歪過ぎる

恋愛 / 完結 24h.ポイント:14pt お気に入り:61

【R18】タルタロスの姫は魔族の騎士に溺愛される

恋愛 / 完結 24h.ポイント:127pt お気に入り:170

オネェな王弟はおっとり悪役令嬢を溺愛する

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:29,872pt お気に入り:2,942

【完結】【R18】伯爵夫人の務めだと、甘い夜に堕とされています。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:589pt お気に入り:583

【R18】恋を知らない令嬢と死を望む化物のはなし

恋愛 / 完結 24h.ポイント:14pt お気に入り:175

竜の手綱を握るには 〜不遇の姫が冷酷無情の竜王陛下の寵妃となるまで〜

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:4,438pt お気に入り:399

【完結】子授け鳥の気まぐれ〜ハッピーエンドのその後は〜【R18】

恋愛 / 完結 24h.ポイント:127pt お気に入り:869

【R18・完結】わたしの大事な旦那様

恋愛 / 完結 24h.ポイント:440pt お気に入り:1,211

【完結】騙されて結婚したけど溺愛されてます。【R18】

恋愛 / 完結 24h.ポイント:170pt お気に入り:201

処理中です...