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第二章

8.私は彼の婚約者

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 真夏の刺すような日差しも少し弱まってきた頃。
 私と七海、それに坂木くんの三人は、昨日社長に教えられた料亭に来ていた。これから、この中で平原さんのお見合いが行われるのだ。

  もちろん、私たち部外者はその場には入れない。一見さんお断りのお高い料亭だから、中に入ることさえもできない。それでも私たちは、その料亭の入り口で平原さんが来るのを待った。

 「あっ……もしかしてあの車じゃない?」

 七海が指差した先には、ゆっくりとこちらへ向かってくる黒塗りの高級車が見えた。いかにもお偉いさんが乗っていそうな車である。

「そうっぽいね。それじゃあ、行きますか」
「お見合いぶち壊し大作戦ね!」

 三人でぐっと親指を立てる。
 大学生三人が集まったところで、あの社長相手では何もできないかもしれない。でも、そんな無謀な作戦に七海も坂木くんも付き合ってくれるのだ。
 私が弱気になっては駄目だ。私はただ、平原さんと会うことだけを考えるんだ。

 案の定、黒のセダンは料亭の前で停まった。三人が同時に固唾を飲む。
 しかし、その中から出てきたのは平原さんではなく、昨日と同じようにスーツに身を包んだ社長だった。

「……おや。本当に来たんですね」
「あ、当たり前です! 私、絶対に諦めませんから!」
「フッ、だと思いましたよ。あなたのように若い人は、自分の目で確かめなければ理解できないでしょう。今日はお友達も一緒かな? どうぞ、一緒に入るといい」
「えっ……」

 てっきり追い返されるとばかり思っていたのに、社長は私たち三人を料亭の中に招き入れた。でも、きっとこれは優しさや善意からの行動ではない。私たちにはどうせ何もできないと、タカをくくっているのだろう。

「大屋さん、行こう」
「う……うん」

 今日のお見合いぶち壊し作戦の発案者である坂木くんが、ぽんと私の背を叩いてから先頭に立って料亭に入っていった。
 ──いけない。二人に頼ってばかりでは駄目だ。
 社長と数人の男性たちのあとに付いて、私たち三人は料亭に足を踏み入れた。





「さすがに見合いの席にいてもらっては困るからね。隣の部屋を取っておいたから、ここで聞いているといい」
「……はい」
「くくっ、どうして僕がきみたちにここまでしてやるのか、解せないといった顔だね? 無理もない」
「……分かってます。私たちには何もできないから、ここに入れたところで何の問題もないんでしょう?」
「はははっ、その通りだ! 案外理解力のあるお嬢さんで助かったよ。それじゃあ、僕はもう行くよ。そろそろ大和の奴も、お相手の方も到着する頃だからね」

 そう言い捨てて、社長は部屋を出て行った。だだっ広い和室に、私たち三人だけが取り残される。
 ここから襖一枚隔てた先で、これから平原さんのお見合いが行われると思うと、どうしようもなく悲しくなった。でも、今は悲しんでいる場合じゃない。

「ほんっとあの嫌味社長、頭に来る! あいつの香水全部カメムシの匂いに変えてやりたい!!」
「七海、怒ってるとこ悪いけど準備しよう。予定外だったけど、室内に入れたらこっちには好都合だ」
「これを、こっちに置けばいいのよね?」
「うん。ほら、七海も早く」
「わっ……分かってるよ! もう、あんたたち冷静すぎない……!?」

 七海はまだぷりぷり怒っていたが、落ち着いた坂木くんの指示に従って動いてくれる。
 そして、三人でばたばたと準備を進めていると、少ししてから隣の部屋に誰かが入ってくる音がした。咄嗟に人差し指を口に当てて、二人に合図をする。お見合いぶち壊し作戦の開始だ。

『この度は貴重なお時間を割いていただき、ありがとうございます。父と母は不在なものですから、兄である私が親代わりということで同席させて頂きます』
『ああ、もちろん構わないよ。それでは早速紹介しよう、こちら、私の一人娘の玲奈だ』

 社長ともう一人、年配の男性の声が聞こえてくる。きっと見合い相手の父親だろう。その会話を聞きながら三人で息をひそめていると、今度は若い女性の声が響いた。

『初めまして。玲奈と申します。今年で二十四歳になります』
『初めまして、玲奈さん。いやあ、お写真で拝見したよりずっとお綺麗だ! なあ、大和。ああ、こちらも紹介しないといけませんね。こちら、私の弟の大和です』
『……初めまして。平原大和です』

 平原さん。

 紛れもない、平原さんの声だ。
 ずっと待っていた、探していた平原さんが今、襖一枚隔てたこの先にいる。

 そう思ったら、今すぐにでもこの襖をぶち破って彼に会いたい衝動に駆られた。
 そんな私に気付いてか、七海がさっと私の目の前にスマートフォンの画面を突き付ける。

 ──まだ待って

 液晶画面に表示されたその短い文を見て、はっと我に返る。
 そうだ。今飛び出したら駄目だ。もう少し待たないと。機会を待って、そして堂々と平原さんに会うのだ。

『大和には、来月にでも社長に就任してもらおうと思っているんです。今日顔を合わせてみて、玲奈さんが構わないようでしたら同時に婚約発表をすれば良いかと』
『ほう、それはいいね。どうだい、玲奈』
『そんな、お父様。今まだお会いしたばかりですのに……』
『ははは、それもそうだな!』
『でも……お写真を拝見したときから、素敵な方だと思っていました。今日こうして直接お会いしても、やっぱり物静かで素敵な方だと……』

 耳を塞ぎたくなった。平原さんが今どんな顔をしているかは分からないけれど、この玲奈という社長令嬢の表情だけは手に取るように分かってしまう。ぽっと頬を赤らめて、熱の籠もった視線を平原さんに送っているはずだ。
 平原さんは、物静かな人なんかじゃない。話好きで、いつも色んな話をして私を楽しませてくれる。それに、私の言った些細なことで大笑いしてくれる、明るくて優しい人だ。

 そう反論したい気持ちを呑みこみながら、私がぎりぎりと歯を食いしばって耐えていると、今度は坂木くんがスマートフォンの画面を見せてきた。

 ──準備完了。いつでもどうぞ

 その一文を確認して、私は頷いた。ついに私の出番だ。
 しかし、勢いよく立ち上がって襖を開けようと手をかけたその瞬間、隣の部屋から平原さんの少し低くてよく通る声が聞こえてきた。

 『すみません。わざわざご足労頂いておいて申し訳ありませんが、この縁談は無かったことにしてください』
 『なっ……!?』

 きっと、この場にいる全員の声が揃っただろう。それくらい、平原さんの言葉は誰にとっても予想外だった。

『や……大和? 何を言ってるんだ?』
『俺は何度も言ったはずだよ、兄さん。縁談は受けないと何度言っても聞いてくれないから、お相手の方に俺から直接断ろうと思って』
『かっ、勝手なことをするなぁっ! お前だけの問題じゃないんだ! こうしてもう玲奈さんにも来てもらっておいて、一体どれだけの人に迷惑がかかると思ってる!!』

 平原さんの落ち着いた声と、社長の怒号が部屋に響いた。予想もしていなかった展開に、私も他の二人も目を丸くするばかりだ。

『……分かってる。だから俺は、俺と兄さんの問題で済むうちに断ろうとしたんだよ。それなのに、こうして人を巻き込んだのは兄さんだ』
『お、お前ぇっ……!!』
『もう一度言うよ。俺は、倫以外の誰とも結婚するつもりはない。倫と結婚できないんだったら、一生独りでいい。……俺が一緒にいたいのは、倫だけだ』

 私の後ろで、坂木くんと七海が「どうする!?」「どうしよう!?」と小声でささやき合っていている。平原さん自身が縁談を断るというのは、想定外だったからだ。
 でも私は、平原さんのその言葉に今すぐ返事がしたくて立ち上がった。

「平原さんっ!!」

 勢いよく襖を開けると同時に、私は大声で彼の名前を呼んだ。
 彼に会えない間も、何度も何度も呼んだ。答えが無くても、切なくなるだけだったけれど呼び続けた。その平原さんが今、こうして私の目の前にいる。

「え……り、ん……?」

 襖を開けると同時に私の目に飛び込んできたのは、ずっと待ち焦がれていた平原さんの姿だった。
 他には目もくれず、驚きのあまりまだ状況が飲み込めていない彼に駆け寄って、力いっぱい抱き着く。見慣れないスーツなんか着ているけれど、その温もりは確かに平原さんだ。私の大好きな、平原さんのままだった。

「りん……? 本当に、本物の倫……?」
「そうですっ! 平原さんの婚約者の、大屋倫です!!」

 涙目でそう叫んでから笑うと、平原さんは一瞬目を見開いてからぎゅうっと私を抱き締め返してくれた。息ができないくらいきつい抱擁に、私も同じくらい強い力で返す。

 嬉しい。平原さんが、変わらないでいてくれたことが嬉しい。
 こんな状況でも、前と変わらずに私の名前を呼んでくれたことが、信じられないほど嬉しかった。

「ひ、平原君……これは、どういうことだね?」

 この場で今の状況を飲み込めていないのは、お見合い相手の社長とその娘さんだけだった。厳粛な雰囲気の銀行社長は、怒りとも戸惑いともとれる目で社長──平原隼人を見つめている。

「いえっ、これはそのっ……! そ、それより、このガキどもは何だ!! 部外者じゃないか、出て行け!!」
「はあ!? 何言ってんのよ、あんたが呼んだんでしょ! 嫌味社長!」
「なんだと……!?」
「ちょうどいいか。そちらの社長さんと娘さんにも、こちらを見て頂ければ分かるんじゃないかな」

 私の後に続いて、七海と坂木くんも部屋に入ってきた。そして坂木くんが、先ほど準備していた小型投影機にスマートフォンを接続する。さらに、開け払ってあった襖を閉じて簡易スクリーンにしてから、スマートフォンを操作してそのスクリーンに映像を流し始めた。

 そこに映し出されたのは、昨日の私と、平原隼人のやり取りだった。


『はははは!! 納得するはずがないだろう! 平原の家が嫌で嫌で仕方なくて、あいつは逃げ出したんだ!!』

『しかし、よく効いたよ。それまで頑として首を縦に振らなかったくせに、君の名前を出した途端にみっともなく追いすがって……俺は言うことを聞く、だから倫には何もしないでくれ──だとさ。あの大和が、僕に向かって頭を下げたんだ! ははっ、あれは傑作だったな』

『単なる身内のいざこざに、君を少し巻き込んだだけさ。警察もそれだけじゃあ動かない。それに、君の言うことなんて誰も信用しないよ。仮にも僕は、この会社の社長だからね』


 映像が流れ始めた途端、サングラスをかけたままでも分かるほど社長の顔が青ざめた。音声だけでなく、こうして映像を見てしまえば何も言い逃れは出来ないだろう。

「……ずっと、撮っていたんです。バッグの中に細工して、カメラを仕込んで」
「ぐっ……!」
「お、お父様っ、帰りましょう! なんだか怖いわ!」
「ああ、そうだな……平原くん、君の会社との取引は少し考えさせてもらうよ。もちろん、この縁談も白紙だ。こちらも巻き込まれたんじゃたまらないからね」
「まっ、待ってください! これは違うっ!! このガキどもがっ……!」
「信じたくはないが、これを見てしまってはね……それでは失礼するよ」

 それだけ言ったかと思うと、娘さんを連れてそそくさと帰って行ってしまった。社長は必死の形相で引き止めたが、この顔で引き止められても恐ろしいだけだろう。
 そして、部屋には茫然と立ち尽くす社長と、私と平原さん、そしてまだ映像を流し続けている七海と坂木くんだけが残った。

「……ははっ。よくもまぁ、やってくれましたね」
「全部、あなたがしたことへの報いです。もう、今後一切、平原さんには関わらないでください」
「フッ……お嬢さん、忘れてはいないだろうね? あの写真はまだ僕の手元にあるんだ。これを使えば、いくらでも……!」
「好きにしてください。その写真をばらまくなり、どこかに送りつけるなり、何でもしたらいいじゃないですか」

 社長の脅しに、私は無表情でそう言い放った。これは自棄になったわけでも、はったりでもない。
 もし本当にあの写真をばらまかれたとしても、そんなことはどうでもよかった。平原さんがあの街に戻ってきてくれるなら、誰かに後ろ指を指されても構わない。
 それに、私は一人じゃない。今の私には大切な家族や、信頼できる友だちがいる。その程度で離れていくような薄情な関係ではないと、自信を持って思えたのだ。

「な、なんだと……!?」
「その代わり、こちらはこの映像を警察に持って行きます。警察だけじゃ足りないようでしたら、マスコミにでも」

 淡々と言うと、社長は憤怒の表情で私に掴みかかろうとした。その威圧感に思わず一歩後ずさったけれど、その手は平原さんによって難なく抑えられる。

「お前、自分が何言ってるのか分かってるのか!? お前と大和が堂々とキスしてるこの写真を、町中にばらまいてやる!! お前はあの街にいられなくなるぞ!!」
「好きにすればいいじゃないですか。別に、悪いことはしてませんから」

 昨日社長が私に向かって言った言葉を、そっくりそのまま返してやった。そんな私を社長が汚いものでも見るように睨みつけているけれど、今となってはちっとも怖くなかった。

「くっ……はははは! 見事だね、お嬢さんたち! さすがの僕も、ここまでしてくれるとは思わなかったよ」
「……何がおかしいんですか?」
「この映像を見て、警察が動くと思うか? 警察は身内の揉め事には手を出したがらない。こんなものを見せたところで、何も……!」
「いや、そうでもないと思いますよ?」

 高笑いする社長の言葉を遮ったのは、坂木くんだった。意外な人物の介入に、社長もぽかんとしている。そんな社長に構わず、坂木くんは話を続けた。

「まず、平原さんに対する脅迫罪、強要罪。これはかなりの確立で成立すると思います。今は家庭内での犯罪が多いですから、警察も黙って見過ごすことはないでしょう」
「なっ……!?」
「それから、大屋さんに対しても脅迫していますよね。あと、頑張ればプライバシーの侵害なんかでも訴えられそうですし」
「だっ、黙れ! お前みたいなガキに何が分かる!!」
「はあ、確かにまだ勉強中の身ですが……でも、警察に行ってみれば分かります。どちらが正しいのか」

 坂木くんがそう言い切ると、社長は絶望したように目を見開いた。
 平原さんに庇われながら、こんな状況でもすらすらと落ち着いて話ができる坂木くんに尊敬の眼差しを向ける。坂木くんが七海の彼氏でよかった。

 異変を察した部下の男たちがぞろぞろと部屋に入ってきても、社長は放心したように立ち尽くしているだけだった。私たちのような子どもに鼻を明かされたことが信じられない、といった顔だ。

 そんな社長に向かって、ずっと複雑な表情をしていた平原さんが静かに歩み寄る。

「兄さん。俺はやっぱり、平原の家にはいられないし、社長にもなれない。あの街に帰るよ」
「……フッ。あれだけ怯えて僕の言いなりになっていたくせに、随分と気が変わるのが早いんだな」

 嘲笑を浮かべる社長から目を逸らして、平原さんは私たちの方を見た。

「倫が……倫と、この子たちが来てくれたから。倫が兄さんの脅しに屈しないって言うなら、俺がここにいる意味は無い。倫の元に帰る」
「薄情な奴だな。仮にも血の繋がった家族が憂き目に遭っているというのに、見捨てるのか」

 社長の白々しい言葉に、かっと怒りが込み上げてくる。今まで散々平原さんを苦しめておきながら、こんな時だけ都合よく「家族」という言葉を持ち出すなんて。
 でも、平原さんは怒りも悲しみもせず、ただ事実を述べるように淡々と言い放った。

「……知ったこっちゃねえ、かな」
「はっ……!?」
「兄さんにとっての家族は、ただ血の繋がっている人間同士のことでしょう? でも、俺にとっては違う。お互いを愛し、助け合って、心配し合って……それでも何の見返りも求めない、それが俺にとっての家族だ」

 そう言って平原さんは、私の方を見てにっこり笑った。

「俺は、その家族になりたい人を見つけたんだ。だからもう平原の家には戻らないし、何があっても頼らない。だから兄さんも、俺と倫に関わらないでほしい」

 平原さんがぴしゃりと言い切ると、社長はもはや返す言葉もないようだった。
 行こう、と言って平原さんが私たち三人を連れて部屋を出る。社長も、その部下たちも、もう追いかけてはこなかった。
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