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第二章

6.彼の本心

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 「それじゃ、行ってくる」
 「倫、本当に気を付けてよ。何かあったらすぐ連絡してね」
 「うん、分かった」

  次の日、私は約束の時間に再びヘイゲンの本社に来ていた。
  七海と坂木くんも入り口までついてきてくれたし、私が社長と会っている間はビルの向かいにあるカフェで待っていてくれると言う。一人だと少し心細いと思っていたけれど、二人がすぐ近くにいてくれると思えば大丈夫だ。

  そして、私は一人ビルに入った。昨日と同じ受付のお姉さんに社長と会う約束をしていると言うと、畏まりました、と言ってどこかに電話をかけた。
  少しして、昨日あの社長の傍に付いていた男性の一人が、案内をすると言ってエレベーターを指した。どうやら社長室に案内してくれるらしい。

  エレベーターの中で、私はぎゅっと拳を握った。
  うまくいくだろうか。平原さんに、会えるだろうか。
  目をつぶると、やっぱり平原さんの笑顔がすぐに浮かんでくる。優しい声で、倫、と呼んでくれる。こんな可愛げのない私に可愛いとささやいてくれる、女の趣味は悪いけれど誰よりも優しい平原さん。彼に会うためだったら、私は何でもする。
  一人きりで閉じこもっていた私の世界を開けてくれた、大好きな人に会うためなのだ。何も怖いことはない。

  そう思って、私は開いたエレベーターの先にある社長室に入る。そこには、今日もサングラスをかけた社長が椅子に座って私を待ち構えていた。

 「やあ、いらっしゃい。よく来てくれたね。……ああ、君は下がっていいよ」
 「はっ」

  案内してくれた男性を退室させて、無駄に広い社長室には私と社長の二人きりになる。
  黒塗りの大きな仕事机の上は綺麗に整頓されていて、電話とペン立て、それに少しの書類しか載っていない。

 「そこに座って。ああ、お茶でも淹れさせようか」
 「結構です。平原さんの居場所さえ聞けたら、私は帰ります」
 「フッ、つれないな。まあいい。時間はそんなに取れないから、早速お話しよう」

  背もたれの大きな椅子に座ったまま、社長は腕を組んで話し始めた。

 「まず、僕のことから話そうか。昨日も話したように、僕は大和の兄だ。父の義人は三年前に社長の座を僕に譲って、今は会長の職に就いている。父は最近体調が悪くて入院しているから、母はその看病でつきっきりさ」

  それはネットでも出てきた情報だ。このヘイゲンという会社は代々世襲で社長を決めていて、今の社長は三代目だ。
  それよりも私は早く平原さんのことを聞きたくて、椅子に座りながら睨み付けるように社長を見つめていた。

 「三年前社長になったときは、特に問題は無かったんだ。僕は小さい頃から社長になるために生きてきたようなものだったし、周りも歓迎してくれたさ。ヘイゲンの将来は安泰だ、ってね」

  社長はそう言いながら、サングラスにそっと触れる。その隙間から見えたのは、平原さんと同じ琥珀色の瞳だった。

 「しかし、僕はその直後に病に罹ってしまってね。それで急激に視力が低下してしまったんだよ。今後回復する見込みもないし、悪くなる一方さ。全く見えなくなる可能性だってある。……驚いたかい?」
 「……いいえ」
 「そうか。くくっ、冷静なお嬢さんだ」
 「それより、続きを」
 「分かってるよ。……まあ、命に別状はなかったんだが、社長としては死活問題さ。今はまだ辛うじて一人で生活できるし、仕事だってできる。でも、周りはそうは思わなかった」

  社長が整った顔を歪める。
  そうだ。平原さんと違うのは、この憎悪の顔だ。平原さんもむっとした顔をすることはあったけれど、こんなにも憎しみの籠もった顔をすることは無かった。

 「目が見えない奴に社長なんて務まるのか。いつか全部見えなくなったらどうするのか。他の奴に社長職を譲った方がいいんじゃないか。……弟の、大和の方に継がせれば良かったんじゃないか。本当に、いろいろ言われたよ」
 「…………!」
 「しかし、僕は今までずっと社長になるための教育を受けてきたんだ。大学も行かずに家を飛び出して、呑気にバスの運転手なんかやってた大和に社長の仕事が務まるわけがない」

  そう言って社長は、憎悪に満ちた顔で笑った。その顔を見て鳥肌が立つ。

 「……だったら、こうしよう。大和は、僕の目の代わりに……お飾りの社長に据えればいい。そして僕は僕で、これまで通りの仕事をする。もう一人の社長としてね。文句を言っていた奴らはそれで満足するし、僕も社長でいられるし満足だ」
 「二人で、社長を……?」
 「そうだ。君には難しいかもしれんが、珍しくは無い。経験の浅い大和をフォローするとでも言えば、異論は出ないだろう」

  何でもないことのように社長は言う。確かにそう言えば会社は成り立つし、社長の望みも叶うのだろう。
  しかし、社長の話には大事なものが抜け落ちていた。

 「……平原さんの、意志はどうなんですか」
 「なんだって?」
 「平原さんは、それに納得したんですか? あんなに運転手の仕事に誇りを持ってた平原さんが、いくら家族のためとはいえ、あっさり仕事を辞めるなんて……私には、考えられません」

  いつか屋代さんの言っていた言葉を思い出しながら、私は絞り出すように言った。
  平原さんは、乗っている人全員の命を預かっていることを忘れないように常に仕事に向かうのだと言っていた。きっと仕事で嫌なこともあるだろうに、バスを運転する平原さんはいつも笑顔だった。

  その姿を思い出して、鼻の奥がツンとした。
  駄目だ。絶対泣かない。この社長の前で泣いても、舐められて終わるだけだ。

  しかしそんな私の想いを踏みにじるかのように、社長は高らかに笑い出した。

 「はははは!! 納得するはずがないだろう! 平原の家が嫌で嫌で仕方なくて、あいつは逃げ出したんだ!! そりゃあそうだ、小さい頃からあいつは僕の予備でしかなかった! 父も母も出来の良い僕を優先したし、大した取り柄もないあいつには興味もなかったさ!!」
 「なっ……!」
 「僕が大和の居場所を突き止めて、社長になれと言いに行ったら……あいつは考えもせずに断ったよ。自分は今の仕事が好きだし、この街を離れるわけにはいかないから関わらないでくれ、ってね」
 「え……だったら、どうして!?」

  やっぱり、平原さんは自分の意志で私の前を去ったのではなかった。共に過ごしたあの街に留まるつもりでいたのだ。それなのに、どうして。
  私が声を張ると、社長は口元をにいっと不気味に吊り上げた。

 「僕が何の考えもなく、大和に会いにいくと思うかい? 事前に、入念に下調べをしたよ。……それで出てきたのが、君の存在だ。大屋倫さん」
 「えっ……!?」
 「どうしても僕には大和が必要だったんだ。だから僕は、指示に従わない大和にこう言った」


  ―――そうか、断るか……

 ―――そういえば大和、可愛らしい恋人がいるみたいじゃないか。
  大屋倫さん。まだ高校三年生なんだってね?
  高三だったら、受験生か……
  この大事な時期に、大きな騒ぎは起こしたくないだろうね。

 ―――そうだ。先日、面白いものを見かけてね。
  うまく写真に撮れたから、お前にも見せてやろう。

  ―――なあ、良く撮れてるだろう?
  あんまり良く撮れてるから、この街のみなさんにも見てもらったらどうかと思うんだ。
  彼女、地元の大学を目指してるんだってね?
  この写真が広まったら、一躍有名人になれるだろうね……


「しゃ、しん……?」
 「ああ。僕も未だに持ち歩いてるんだ、君にも見せてあげよう」

  社長がぞんざいに投げた一枚の写真が、床に落ちた。
  震える手で、恐る恐るその写真を手に取る。

 「こ、れっ……」

  そこには、公園のベンチでキスを交わしている、私と平原さんの姿が写っていた。

 「いい写真だろう? 君がしっかり高校の制服を着ているのがまたいい。これ一枚で、色んな場所に脅しが効く」

  社長の声が、どこか遠くで聞こえるような気がした。
  全身を冷や汗が流れる。嫌な汗だ。心臓がばくばく言ってうるさい。どうして震えが止まらないんだろう。

  どうして私を置いていなくなってしまったんだ。
  ずっと待っていたのに、ずっと探していたのに。
  平原さんなんか大嫌いだ。私を一人にして、どこへ行ってしまったんだ。
  そう思っていた。でも。

 「わた、しの……私の、せい……?」
 「そうとも言えるな。しかし、よく効いたよ。それまで頑として首を縦に振らなかったくせに、君の名前を出した途端にみっともなく追いすがって……」
 「平原さん、が……」
 「俺は言うことを聞く、だから倫には何もしないでくれ――だとさ。あの大和が、僕に向かって頭を下げたんだ! ははっ、あれは傑作だったな」

  社長が笑いながら、震える私の手から写真を抜き去った。それを奪い返す気にもなれず、私はがくんと膝から崩れ落ちる。

  私のせいだった。
  平原さんが何も言わずにいなくなったのも、大好きな仕事を突然辞めたのも、大事な人に連絡一つしなかったのも、全部私のせいだったのだ。

  泣くまいと思ったのに、ぼろぼろと涙が溢れて止まらなかった。そんな私を、社長はやはり嘲るように見下している。

  悔しい。憎い。この人が、こいつさえいなければ、平原さんは今でもずっと私の隣にいてくれたのに。
  殺してやりたいほど憎かった。この人の望みのために、そんなもののために、私と平原さんは引き離されたのだ。

 「くくっ……そう怖い顔をしないでほしいね。僕は別に悪いことはしていないよ」
 「なにをっ……!」
 「これで君が警察か何かに駆けこんだところで、どうにもならないってことさ。僕は罪を犯したわけではないからね」
 「その写真を使って、平原さんを脅したのもっ……、犯罪じゃないって言うんですか」

  震える声で、それでも必死に自分を抑えながら言う。
  ここで社長に私が殴りかかったら、それこそ思う壺だ。一生平原さんに近づくことができなくなる。
  それに、昨日七海と坂木くんと考えた策まで台無しになってしまう。
  私にできることは、今この場を耐えて、そして二人の元へ帰ることだ。

 「単なる身内のいざこざに、君を少し巻き込んだだけさ。警察もそれだけじゃあ動かない。それに、君の言うことなんか誰も信用しないよ。仮にも僕はこの会社の社長だからね」
 「一年以上連絡も取れないような環境に平原さんを閉じ込めておいて、それでも罪じゃないって言うんですか!?」
 「閉じ込めただなんて人聞きが悪いな。僕がしたのは、大和の使っていたスマートフォンを解約して、住んでいた部屋を引き払った。それだけだよ。どこかに監禁しているわけでもない。まあ、君が枷になってくれたおかげで、あいつも妙な行動は起こさなかったがね」

  握りしめた拳が震える。爪が食い込んで痛い。
  でも、こうしていなければ自分を抑えられなかった。それほどまでに目の前のこの男が憎くて、そして平原さんの想いを疑った自分が情けなかった。

  私が何も言えずにいると、社長は勝ち誇ったようにふっと笑う。

 「これで君も諦めがついたかな? それにね、今君が大和に会ったところでもう手遅れなんだよ」
 「ど、どういう……」
 「実はね、大和に見合い話が来てるんだ。お相手は取引先銀行の社長令嬢だ。会社のためになる、素晴らしい縁談だと思わないかい?」
 「なっ……そ、それも平原さんを脅して……!?」
 「当たり前だ。大和は随分嫌がったがね。お相手の方が乗り気なものだから、もう準備も進んでるんだ……ああ、確か見合いは明日だったかな」
 「あし、た……っ」
 「ああ。まあ、もう君には何もできまい。場所を教えてあげるから、自分以外の女と結婚する大和の間抜け面を最後に拝みに行くといいさ」

  そう言って、社長は一枚の紙片を私に差し出した。何も言わずにそれを受け取ると、社長は満足そうに頷いて部屋を出て行った。





 「あっ……倫! やっと出てきた!」
 「なな、み……」
 「大屋さん、大丈夫? 顔色が悪いよ」

  あの社長室から、どうやってここまで戻って来たか分からない。
  魂が抜けてしまったような状態でビルから出てきた私に、七海と坂木くんが駆け寄ってきた。

 「どう? うまくいったの?」
 「……分かんない。けど、明日、お見合い……」
 「お見合い?」
 「平原さん……お見合い、するって……」
 「なっ……! わっ、ちょっと倫!? しっかりして!!」

  足元がふらついて、私は七海に倒れ掛かってしまう。七海と坂木くんの二人に支えてもらいながら、何とか近くにあったバス停のベンチに座った。

  涙を零しながら、私は七海と坂木くんに社長の話を掻い摘んで伝えた。
  話をしている間、七海がずっと私の背中を擦ってくれる。その手が温かくて、安心したのかまた新しい涙が溢れてくるようだった。

  そして全てを話し終えても、二人とも何も言わなかった。言わなかったというより、まだ涙の止まらない私に掛ける言葉が見つからないと言った様子だ。

 「全部……私のせいだった。私と付き合わなければ、平原さんはっ……」
 「倫……」
 「どうしよう、七海……私、平原さんに会いたい。会いたい、けどっ……こんな私が、平原さんに会っていいのか、分かんなくなっちゃった……私がいなければ、私なんかいなかったら、平原さんはこんな目に遭わなくて済んだのにっ……!」
 「倫っ!!」

  泣きながら自分を責める私の両頬を、七海がぐいっとつねった。その少しの痛みで、私は叫ぶのを止めて七海の顔を見つめる。
  いつも明るい七海が、目に涙を溜めている。そして私の頬をつねりながら叫んだ。

 「倫のせいじゃない! 『私がいなくなれば』なんて、簡単に言うなっ! 倫のことを大事に思ってる人が、一体どれだけいると思ってんの!?」
 「で、もっ……」
 「でもじゃない! どうして分かんないの!? 平原さんが全部投げ出してでも守りたかったのは、あんたのことでしょ!? そのあんたが、私なんかいなくなればいいなんて言ったら、平原さんの気持ちを踏みにじってるのと同じだよ!!」
 「え……」
 「そうやって倫はいつも『私なんか』とか、『こんな私が』って言うけど、あたしたちはそんな倫が好きで、一緒にいたいからいるの! 倫が好きなあたしたちの気持ちまで否定しないで!!」
 「なな、みっ……」

  七海にこんなに怒られたのは初めてだ。
  小学校の頃からずっと一緒で、何をするのも一緒だった。別々の大学に行ってからは会える回数も少なくなっていたけれど、それでも七海はいつだって私を気にかけてくれていたのだ。
  こんな風に叱ってくれる友達は、きっと七海しかいない。その七海を、私は自分を否定することで無意識のうちに傷つけていたのだ。

 「ごめ、んっ……七海、ごめんっ……!」
 「バカ倫! うっ、もうっ、なんで倫がこんな目に遭うのよぉっ……!」

  いつの間にか七海も号泣していて、私たちはバス停のベンチで二人抱き合って泣いていた。通りすがる人たちが不審そうに私たちを見るけれど、今は気にしている余裕は無かった。

  しばらく抱き合って泣いたら、私も七海も少し落ち着いた。落ち着いてみたら恥ずかしくなって、七海と顔を見合わせて少し笑う。本当に、七海がいてくれてよかった。

 「あのー……そろそろいい?」
 「もう、何よトモヤ」
 「そのお見合い、明日なんだろ? ご丁寧に場所まで教えてくれたんだから、そこで何とかしないと」
 「何とかって?」
 「……ぶち壊す、ってことね」

  坂木くんの意図を読み取ってそう言うと、彼はにっこり笑った。おっとりしているけど、頼もしい人だ。

 「大屋さん、アレはどうだった?」
 「え? あ、たぶん大丈夫だったと思うけど……」
 「じゃあ、今から七海の家に行って確認しよう。それで第二回作戦会議だ」
 「了解!」

  きっと私と七海の二人だったら、もうしばらく泣いていたと思う。坂木くんがいてくれたおかげで、気持ちを切り替えることができた。

  明日こそ、絶対に平原さんに会う。何が何でも会ってやる。
  私の知らないところで、全てを犠牲にして私を守ってくれた平原さんを、今度は私が守る番だ。
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