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死ノ肆事⑵・第参章《合わせ鏡渡り錆刀・上方惨党狩り始めの事(あわせかがみわたりさびがたな・かみがたざんとうがりはじめのこと)》

捌之罰「新谷淫獄編」ー外道達の狂宴ー

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  果てしなく続く合わせ鏡の異空間の中を、新谷は果てしなく背中全体が後ろへ後ろへと引きずられて行くのを感じていた。
  ーーひどく懐かしい、この形容しがたい感覚。
 (……あぁ、こいば……)
  長崎にいた幼い頃、妹のお縫と弟の定次郎のふたりと連れだって、海に食料を調達に行った。
  ーー幼い時分から海が大好きで、夏ともなれば毎日海に通い、泳ぎを得意としていたお縫は、八つの頃の寝巻きの、白地に赤とんぼ柄の浴衣風の寝巻きを、十歳になっても、わずかばかりにしか伸びていない華奢で細身で小柄なその身にまとい、海女でもないのに何の苦もなく熨斗刀を口に横咥えにして素潜りし、海中深くの岩にへばりついた鮑や岩牡蠣を引き剥がし、岩海苔を集める。
  定次郎は前かけ一枚で、浜辺で両腕に抱えられるだけの桶を持ち、潮干狩りだ。
  新谷は褌一丁になって銛を持ち、名も知らぬ小魚を突いては、少しでも鮮度が保つようその場で活け締めにし。
  そうしてその日の夕餉には、新谷が釣った魚は刺身になり、残りはお縫と母がふたりで干物にして、夕餉に食した。
  定次郎が潮干狩りで採ったアサリの砂を吐かせ切るため、殻が開ききり、潮がぴゅうぴゅう噴くまで待って味噌汁にし、酒蒸しにもした。
  アサリの小さな貝柱を取ろうと、まだ幼い縫と定次郎がムキになっていたのを、よく手伝ってやったものだ。
  海から直接汲んだ海水をたっぷり湛えた桶を前後に吊るした天秤棒を肩に担いで、その中に放り込んだ、お縫が採った岩海苔やワカメとともに、自身の採った鮑や岩牡蠣を売りまわりーー。
  寄せては返すを繰り返す波打ち際に立つと、波が引くとき、足の裏側が海に引きずられて行くような、あの奇妙な感覚を、体全体で感じているのだ。
  縫はそれを気味悪がって嫌がっては悲鳴を上げては飛び上がり、定次郎はその感覚と、姉の反応を両方とも面白がり。
  新谷は浜辺で、その対照的な妹弟の反応を見て笑っていたーー。
 (……懐かしか……)
  が、どこか優しい気持ちになったのは、ほんの一瞬。
  視界に映り重なる滅黯の姿と歌声に、はっと我に返った。
 《♪……通りゃんせ 通りゃんせ……》
  胡座ではなく、結跏趺坐の滅黯が歌いながらお手玉を左まわしに操っているのが見える。
  しかし、滅黯の左右の掌の上で往き来するお手玉の数が、明らかにおかしい。
  仏間にいたときは、ふたつだったはずだがーー。
  伍、伍、伍、伍、伍、伍、伍、伍、伍と、お手玉伍つ、十周。
 《♪ここはどこの細道じゃ 天神さまの細道じゃ……》
  捌、捌、捌、捌、捌。お手玉捌(八)つ、伍周。
 《♪ちっと通してくだしゃんせ 御用のない者通しゃせぬ》
  無、無、無、無、無、無、無、無、無ーー突然消えたお手玉の動作を繰り返すこと、玖(九)周。
 《♪この子の漆つの御祝いに 御札を納めに参ります》
  玖、玖、玖、玖、玖、玖、玖、玖、玖、玖、玖。
  無から玖に唐突に数を増やし、玖つのお手玉を拾壱回も周った。
 《♪行きはよいよい 帰りはこわい》        
   無、無、無の参周りからの、捌、無、捌、無の、両眼で追い数えるのも難しい、捌と無の二回交代。
  《♪怖いながらも 通りゃんせ 通りゃんせーー……》
(……さん、新谷さん……)
(黯ったいな? 何ね?)
(もうちっとで、着きやす。お覚悟はよござんすね?)
( 滅、何ばふーけたこつぬかしとっとか。おいば『錆刀』ばい。天誅殺師【上野喰代サの肆番】が参の、錆刀やけんな)
  新谷の耳に、ふふっ、と微かに。滅黯の忍び笑いが聞こえたような気がした。
 (新谷さん、あっしの唄ぁずっとお聞きになってたでやしょう? 聞いてるだけじゃ、わかりやせんがーー)
  新谷と滅黯。互いに、ほんのわずかの無言の間が空いた。
(『行きはよいよい帰りはこわい』と『怖いながらも通りゃんせ』の『こわい』と『怖い』は、意味が違いまさぁ)
(はぁ?)
(大……丈……夫(でぇじょうぶ)……で……さ……ぁ。あ……ん、た……様……にゃ……)
 いよいよ仏間の合わせ鏡との距離が遠ざかり、目的地の側の鏡台に近づいて来たらしい。
  滅黯の声が、次第に小さくなり、遠ざかって行く。
(お味方……たぁ……ちぃと違げぇ……やすが……腹ん中から……る、雪と……蘭の大鎌……三匹の……犬ン風……が……来やす……から……)
 ブツッ、と音無き音を立てて、滅黯の声は、その瞬間、完全に途絶え、途切れた。
(黯!? 黯!? 黯 ……っあ~、やっぐらかしかが、しょうんなか、しょうんなかばい!)
 ーー腹ん中がなんとかの雪と、蘭の大鎌?
 ーー三匹の犬の風?
 滅黯が最後に伝えた言葉は、さっぱり意味がわからなかった。
 しかし、あの滅黯の言うことだ。
 必ず何か意味があるーー。
「ーー!?」
 新谷の体が勝手に前向きにねじられるや否や、その六尺越えの身に凄まじい衝撃が走り、さしもの新谷も顔をしかめ固く両眼を閉じ、苦悶の声を上げた。
「いぎ、ぐっ!」
 それと同時に、目の前に大きな蜘蛛の巣によく似たひびが幾つも幾つも視界に映り、そして全身を切り裂かれるような鋭い痛みが、新谷を襲った。
 そしてーー。
ーーーーーーーーーーーーーーー
 ギシ、
 ギシ、
 ギシ。
 いつ底が抜けてもおかしくなさそうな軋みを立てて、古い階段を昇る全身黒づくめの人影がある。
 ここは京都洛外、亀岡の地ーー。
 つい先ほどまで、一隻の猪牙舟がここから嵐山渡月橋までの肆里を流れる保津川を、船を漕ぐ船頭役の者を含めて、五人の黒装束の者達が乗っていた。
 その猪牙舟は今、岸辺の岩に纜代わりの毛羽立った荒縄で括りつけられている。
 ーーそもそもは、慶長十一年(一六〇六年)に京の豪商、角倉了以が丹波から京の都へ木材、新炭を運搬するために開削された運河であるが、春夏秋冬の桜の白がかった薄紅、緑、楓の紅、雪化粧の白と四季ごとの鮮烈な色鮮やかな景色が広がるが、この船に乗る者達に、そのように優美な光景とはまるで無縁のようだ。
 ボロボロの茅葺き屋根の、あばら家だ。
 一階には囲炉裏があるが、そこに火は焚かれておらず、囲炉裏の中に置かれた鍋は蓋が外れ、灰の上にはそこで煮炊きされていたと思しき茸と山菜入りの雑炊の名残りが、カビにまみれた凄まじい腐臭を放ちながら、完全に異形のものと化している。
 囲炉裏のかたわらでは、空の産着を抱いた、頭蓋骨にまばらに生え残った、ひどく腰の曲がった小柄な人骨が、うつぶせになっており。
 土間では、首のない胴体が上がり框にもたれかかり、粗末な着物をまとった白骨死体と化し、今では完全に骨だけになったその身のかたわらに、猟銃が立てかけられている。
 その二体の白骨死体は、かつては生後数ヶ月の赤子を老いた身を呈して守ろうとした祖母であり。
 首なし死体は妻子と岳母を守ろうとした猟師であることなど、誰も知らない。
「………だ……れ……ゃ……」
 二階は、養う者などとうにいなくなった養蚕の場だった。
 山のような桑の葉は枯れ果て、白い眉は黄ばんでもはや絹糸として紡がれる価値など、とうにない。
「どえらい落ちぶれたもんやなぁ、尾平(おびら)の頭(かしら)。いや違ゃうわ、今は《惨討目録》のーー……」
「其の参拾八。あと残りは順に参拾九、肆拾やで、ちい哥ィ」
  若い娘の声が発せられると同時に、暗闇にぽうっと光が灯った。
 本来なら盆の送り迎えに使われる、灰梅色に、大輪の緋牡丹が描かれた女ものの提灯の中に立てられた蝋燭に、火が点されたのだ。
 そうして照らし出され、映し出されたのは、併せて三人の男女の姿だった。
 男ふたりは、還暦を過ぎた壮年の男ひとりと、四十路半ばほどの中年の男。
 ほとんど藍褸と化した着物を、かろうじて原形を留めている帯で身にまとい、足袋も穿かず、両手両足とも、爪が伸び放題の素足。
 全身垢じみ、爪と同じく髪も、男は髭も伸び放題だ。
  三人目の、三十路前半程度の年増女に至っては、壁に寄りかかって大股を開き、虚空を見て、ぶつぶつと蚊の鳴くような音量で、唇をわずかに動かせて、聞き取れない独り言をつぶやいていた。
 剥き出しの股間には、黒い渦の如く蝿がたかり肛門から直に蛆が湧いている。
 股間全体に大小便が乾きこびりつき、そしてまた新たに垂れ流してを繰り返しながら、糞尿を垂れ流しているのに加えーー。
 何ヶ月間も月のものの手当ても出来ず、下腹から垂れ流しの経血が、着物の前後に黒ずんで染み込んでさえいる。
 それだけでなく、顔と股間は白濁の液体にまみれ、それがいったん溶けて固まった蝋燭のようになってこびりつき、さらに悪臭を悪化させている。
 口端からは、唾液に混じった液状のそれが滴り落ちている。
 ーー乞食同然の姿の、男ふたり分の精液だ。
 腰に巻かれた帯だけはしっかりと原形を留めているが、両方の袖が肩口から引き裂かれ、剥き出しになった裸の上半身は左右の乳房を含めて、きつく吸われた内出血の跡に、びっしりと埋めつくされていた。
 三人は少しばかり前までは、ともに正絹の着物をまとい。
 壮年の男は、深川鼠色の着物に樺茶色の帯を。
 中年の男は赤墨色の着物に鉄紺地に白藤色の縞模様の帯。
 年増女は、髪は潰し島田に結って柘植の櫛を差し、鼈甲の簪を飾り、着物は枝花文様。
 帯も、いつも水引きに結った帯締めも霞色という、上方の呉服屋あたりの大店の主と番頭、年増女は主よりやや歳の離れた妻女のようにしか見えない者達だったとは、誰も思わないだろう。
 男ふたりは床に這いつくばり、先頭を立って階段を昇り切ったのは、まだ十八ほどの若い男を目だけで見上げた。
  暗闇に、盆の送り迎え用の提灯の中の蝋燭に火の灯りを点したのは、十六程度の若い娘だった。
 そこから数秒の間を置いて、階段を昇った三人目ーー。
 六尺三寸強はありそうな大男が、気だるげに頭を屈めて入って来た。
 齢二十三、二十四ぐらいだろうか。
 人並み外れた大柄な身の丈の割りに体格は中肉、そして、ひどく姿勢が崩れた猫背のせいか、目を見張るような強烈な印象は受けない。
 続けて、ふたりの男。
男ーーと言っても、こちらはようやく齢十五の少年という感じだが、ふたりは恐らく双子なのだろう、まったく同じ顔をしている。
 まだ成長過程だ、背丈は双子らしく、お揃いで見立て五尺四寸ほどか。
 ギン! と、先頭の男の両眼が光った。
 この時代の人間達は知る由もない、車のヘッドライトの如く遠くを照らすに連れて、幅の広がる長い光を遙か先まで伸ばしてーー。
「何や自分ら、【鬼来迎】の商いだけやなしに、人間まで辞めよったんかいな」
 ーー先頭に立った男が、ぺっ、と床に唾を吐いた。
「……お、おぉ、鬼眼(おにめ)ぇ……鬼眼やないか……それに何やいな、その恰好……自分ら、上の者(もん)らに向こうて、何抜かしと……」
 尾平、と呼ばれた頭らしき壮年の男が、息も絶え絶えに言葉を発した。
 しかし、
「ごぎょ!!」
 寸分の間も置かず、鬼眼と呼ばれた若い男の右足の爪先が、腕組みしたまま尾平の下顎と喉仏の間を蹴り上げた。
「なぁ、なぁて、拝邏(おがむら)のおっさん」
 若い娘が、にまにましながら、大股開きでふたり目ーー拝邏なる中年の男の顎を、右手の人差し指と親指でつかみ、くいと持ち上げた。
その十指の先の爪は、すべて若紫色に塗り潰されている。
「なんして、ウチらがあんたらがここにおるのわかったか、わかれへんよなぁ?  そりゃあんたらがどないに考えてもわかられへんようになっとるさかい、言わんとくな」
 娘の背中から、長く太い、鞣されていない荒縄が手繰り寄せられた。
 ーー娘の両掌は、そんな荒々しく禍々しいものを扱うにはまるで似つかわしくない、柳葉のようなか細い指と、見るからに柔らかな白い肌だが、その掌中は両方とも、無数の棘が生えた、常磐色の鋭い葉に囲まれた、中紅色の鮮やかな薊の花四輪の刺青が咲いていた。
 そして両掌の月丘には、弁財天の梵字が深緋色で彫られていた。
「じ、自分ら……何や、そない……な、けったいななり……しよ、て……まさか、兄妹弟(きょうだい)揃いも揃ぉ……て、儂らに盾突こ、ちゅ……う、ん、か……!?」
「然(しかり)!」
「鬼眼!」
「百助(ももすけ)!」
「錠(じょう)!」
「蜷(にな)!」
 尾平と拝邏が、交互に声の限りを尽くして、裏切り者の配下兄妹弟達の名を叫んだ。だが、
「はぁン? 盾突くぅ? そぉれが、どないやっちゅーねん。こんボケカスがぁ!!」
 蜷、なる娘が怒鳴り声を上げるや否や、拝邏の首に瞬時に荒縄で作った輪を巻きつけた。
 恐ろしく手練の素早い手つきで、拝邏の衰弱した全身を亀甲縛りにし、養蚕部屋の床板に蹴り転がした。
「【鬼来迎】先代屍ノ御前の『弐拾七代目ぇ決めるんは、どないに汚い手ぇ使うてもーー』てぇカマかけにも気づかんと、上方中の死男(しおん)と殺女(あやめ)見習いのガキども騙くらかしよって、阿片の煙草使こてキチガイにして狂い死にさせよった上に、輪姦強姦犯(や)りたい放題しよったんは誰や思てんねん!」 
 ーー我が子ほども年下の蜷の怒号に、拝邏の全身がガクガクと瘧のように震えた。
「~~はぁ、そないなわけで、な?」
 年頃の娘らしからぬ、妹のあまりの柄の悪い物言いに、長兄らしい然なる大男があきれたように頭を掻きながらつぶやくと、
「おっさん、おばはん」
「往生しいや」
 続けて、双子の少年達が兄の百助、弟の錠の順に言うと、
「《惨党目録》の参拾八、九、肆拾。三人まとめて目録ん書かれた名前に、わしが自分らの死の証の体液で縦線入れて、消させてもらうさけーー」
 次兄なのだろうが、兄妹弟を率いているらしき鬼眼が、妹の蜷に軽く顎をしゃくった。
 蜷が手綱のように握っていた荒縄の元を軽く引くと、それと同時に、荒縄の中から隙間なく五寸釘の先端が飛び出した。
 頭頂から爪先まで、全身これ逆さ針山になった拝邏の身は首を初め、両眼両足の五体が裂けて床板に血飛沫を上げながら。
 床板にどすん、と重い音を立てて落ちた。
その光景を見ながら、尾平は枯れ果てた声で絶叫しーー。
 目の当たりにした壮絶かつ衝撃的な光景に心の臓が耐えられず、その場で文字通り、息の根が止まった。
 そこに、巨躯を揺らしてのそのそと然が歩み寄った。 
 うつぶせになって右顔を床につけ、長く伸びた左右の爪で、床板を猫の爪研ぎ跡のようにかきむしった跡を残して逝ったかつての頭(かしら)の左耳の上に、長い足を、左足を高々と持ち上げるとーー。
  固い頭蓋に守られた頭部が然の足裏に踏み砕かれ、血と脳漿が辺り一面、天井の梁にまで飛散し。
 恐怖に、限界まで見開かれた両の眼球が、視神経の肉糸を引いて、飛び出した。
「これでようやっと、【泉北堺櫓見衆(せんほくさかいやぐらみしゅう)】は仕舞いやな、大哥(おおあに)ィ」
 鬼眼が懐から取り出した半紙に、鬼眼はそこにあらかじめ筆と墨で記されていた頭の尾平、副長の拝邏、そして尾平の愛人にして、三番手のお墨の名前の上に、尾平は脳漿混じりの血、拝邏の血、そしてお墨の名の上には、彼女の口端から垂れ流しの、唾液の混ざった精液で縦線を引いた。
 続けて、尾平の眼球と拝邏の陰茎、お墨の股が鬼眼の振るう剃刀で切られ、抉られ、幾重にも重ねた油紙に包まれ、凧糸で俵結びに括られた。
 その瞬間、闇夜に白く輝く物体が突如としてその場に出現した。
「「「「「!?」」」」」
 ーーそれは電光石火の勢いで、鬼眼の手から半紙と肉体の一部を包んだ油紙の荷を奪い取り、瞬く間に空へ飛び立って行った。
 五人の眼には、揃ってそれが西陣織の衣装をまとい、頭にかぶった紗の薄衣とともに、艶黒の髪をなびかせた市松人形の姿形をした、齢十ほどの愛らしい童女とわかった。
 だが何故か、童女の鼻の上から顎までが、芝居の黒子が顔に着けるのに似た黒布に覆われていた。
 童女は養蚕部屋の壁を壊すことなく、当たり前のように壁をするりと突き抜けて、空高く舞い上がるや否や、夜の空中に浮かび上がり、彼ら五人兄姉弟達に向け、ほんのわずかに横顔を見せると、すぐさま夜空に姿を消した。
 ーーそれは羽衣をまとった、天女の如く。
 「ーーなんや、もう来よったんか? 弐拾七代目の【御記書御渡(おしるしがきおわたし)役】はんは、えっろぉ仕事の早い御方やのぉ~」
 鬼眼はその来客に純粋に関心し、感嘆した。
 ひらり、と。
 一枚の半紙が、たまたま偶然、蜷の右足の上に落ちた。
「なんやいなこれ、もぉ~」
 蜷が気だるげにそれを拾い上げると、鬼眼はそれを素早く手に取った。
 そこにはたおやかな細い文字が、墨でしたためられていた。
「あっ、これ瑞之江屋の娒々代姉(ねえ)やんから……やない、屍ノ御前(しのごぜ)様からやで!」
 蜷に言われるまでもなく、鬼眼は既に全文に目を通していた。

 『弐拾七代目屍ノ御前 御側仕 
   惨討狩リ死留メ之証 聢承候  
   御記書御渡役 
   兎口(とぐち)ノ於苑(おその)   月のを参ル   弐拾七代目 屍ノ御前  拝』
ーーーーーーーーーーーーーーー
「えぇか、耳の穴かっぽじって、わいが今から言うことよう聞かんかい。百助、錠、蜷」
 長兄らしく、身の丈に反して恐ろしく低いが、その分実によく耳に響く声で、妹弟達に命じた。
「ーーもうワシらは【櫓見衆】なんぞやあれへん。あいつらがどアホな真似しくさったおかげで、下っ端のワシらまで周りから十把一絡げに見られよって、黒犬のケツやったらなかったが……」
「【櫓見衆】なんちゅう名も組も無(の)うなる。今からわいら五人だけで、北泉堺のーー」
次の瞬間、鬼眼は自身の腕力だけで、足元に転がっていた拝邏の左手首をつかみ、腕を難なくねじ切ると、そのひじの断面から滴り落ちる大量の血で、壁に血文字で記した。
 ーー【鬼蒜月】と。
「『きさんげつ』や。彼岸花、知っとるやろ? あれの別名や。ほいで満月に近づいてく三日月は、弓張月ちゅうんや」
「ーー真っ赤な毒花が、夜にお月さんと組んで標的に向こうて、弓矢を番(つが)えとるんやで。どないや? 」
「おっほ、めっちゃかっこええやん」
 百助が素直に誉め、錠がヒュウっと口笛を吹いた。
「ワシゃ面倒なことは勘弁やさかい、これからよう頼むでぇ、大将」
「な、な、ちい哥ィがウチらの新しい大将なんやろ? せやったら、大哥ィが副将になるんやんな? せやったら、ウチは参番手ぇ?」
 ひょいっ、と然の左腕に両腕を絡めた棗が、無邪気に問うた。
「ま、順番で言うたらそやけど。せやかてニナ、自分、まだ飛び抜けたこと何も出来とらんで」
「ウチには、五寸釘仕込みの荒縄緊縛術があるわ!」
「言うても、自分まだ亀甲縛りしか出来ひんやないか。もっとようさん他の縛りが出来ひんようんならんと違ゃうんか? な、大哥ィ」
 然は両腕を組んでうんうんとうなずき、鬼眼の言い分に賛同した。
 むー、と。蜷は露骨に口を尖らせた。
 ーー満月の夜である。
 彼ら彼女らは、誰ひとりとして髷を結っていなかった。
 百助、錠は長過ぎず短か過ぎずの立て髪だ。
 双子でもって、地毛の黒髪を特殊な染料で、敢えて奇抜な色に染め抜いている。
 百助と錠は、上から順に腰紐でずれないようにした鎖帷子を肌着のように身につけ、その上から筒袖でひざ丈の胴衣をまとい、忍と同じく輪帯を使用している。
 足元は裏に綿入りの、小鉤の付いた短い忍び足袋。
 手甲を左右の両手の甲に装着しているが、頭巾もかぶらず脚絆も履いていない、やや簡素な忍び装束だ。
 しかしふたりの外見の違いは、実に極端だった。
 ーー百助は背中に、たすき掛けにした一畳の畳を背中に括りつけ。
 ーー錠は両掌の手甲の上から、鋭い銅製の鉤爪で覆っている。
 百助の髪色は、明るめの新橋色。
 錠の髪色は、勿忘草色と青藤色が交互に色を変えている。
 そして、蜷。
 胴衣は着ず、弟達よりずっと網目の細かい鎖帷子を乳房の部分にだけ巻き、へその左ふちに、銀色の輪の金具を貫通させている。
 両眼の目元にはそれぞれ三つずつ金の小さな鋲が穿たれ、月光に煌めいていた。
 左右の耳たぶに開けられた孔からは、先端が返しのない釣り針のようになった、左右対称に螺旋状にねじった針金が貫通し、カチャカチャと小さく音を鳴らして垂れ下がっている。
 下半身は、戀夏の股引よりもずっと丈が短く、腰骨が見えるほど股上が浅い。
 さらにその生地は太ももの付け根までしかないほど、履き込みが浅かった。
 その短い股引の中から左右に飛び出し、細くくびれた腰にかかっている、縄のようにねじられた細く黒い紐は、恐らく股引の下に履いた、女武芸者が履く褌だろう。
 現代で言えば、スポーツ用のTバック兼見せパンのようなものだ。
 足元は、本体も鼻緒も真っ黒に塗り潰した、堂島のこっぽり下駄を履き、本来なら足首までしかない忍び足袋をひざ頭の下まで伸ばし小鉤を付け、上部を巫女装束の袖と同様に黒の太い紐を通し、右足は右向きに、左足は左向きに、足の外側で蝶結びにきつく締めていた。
 背中まで伸びた艶黒の豊かな髪を無造作に流し、髪飾りひとつつけていないが、櫛通りの良さそうな、艶やか烏羽玉色である。
 次は、然。
 彼もまた髪を染めておらず、黒い地毛のままで、先天的にやや波打った髪を前髪ごと後ろに流して、肩甲骨が隠れるほど長く伸ばし、首の後ろで無造作に束ね、額からも両耳の脇からも、頭のあちこからほつれた髪が何本も垂れている。
 左右のもみあげから口を囲むようにして、鼻の下から顎に、薄く無精髭を生やしている。
 その口には、体に見合わぬ小ぶりの刀豆型の煙管が咥えられていた。
 頭巾をかぶっていない以外は、五人の中でもっとも忍び装束らしい身なりだ。
 足元は裏に綿入りの、小鉤のない短い忍び足袋。
 上半身の素肌を護る、ずれ防止の為の腰紐つきの鎖帷子。
  筒袖で、輪帯を使用した太ももを覆い隠す丈の胴衣。
 現代なら、弾力性のある靴下に該当する脚絆を両足に履き、指貫の括り袴をきっちり裾の部分で緖でくくり、男仕様の一文字結びにしている。
 最後に、鬼眼。
 彼もまた長兄の然と同じく、頭巾をしていない以外は正統派の忍び装束姿である。
  だが百助と錠の双子の髪色は特殊な染料で染めた紛いものの色であるのとは違い、鬼眼は五人の中で、瞳と髪の色も生まれつき黒ではない。
 ーー髪は白練、双眸は赤橙。
 白子(アルビノ)という異形の容貌ながら、彼は恐ろしく端正な顔立ちをしていた。
 異形の色の身の生き物は、総じて美しい。
 ーーそれは深緋の瞳の、白蛇の如く。
 そして双子の弟達、百助と錠の、女からの庇護欲をかき立てられるような愛らしさと、その反面、若い獣のような猛々しさ。
 さらに妹の蜷の、粗暴な言動やその腕に備えた残酷な術を駆使する、その外見と対称的な、均整の取れた肉体と、いかにも気の強そうな、眼力のある顔立ちの美しさ。
 加えて、長兄の然の、どんな女も魅了されずにはいられないだろう野性味と、女が本能的に魅かれざるを得ないだろう男の色香と逞しさに満ち溢れた、圧倒的な『雄』としての存在感。
 だがそんな者達の中においても、鬼眼の容貌はひときわ飛び抜けていた。
 ーー復讐代行商人・鬼来迎、泉北堺は【鬼蒜月】が大将、鬼眼が真っ先に、ふくらはぎの真ん中まである漆黒の羽織に袖を通した。
「ほな、行くで!」
 厳しく凛とした表情で鬼眼が言い放ち、四人に背を向けて歩き出した。
 四人は鬼眼の一言に同時に強くうなずき、各自手にしていた、丈の長い黒の羽織に、同時に袖を通す。
 その背中には、上からまず、
【鬼来迎 泉北堺】
 上記の文字が横向きに刺繍され、その下に、境界線のような白い線がこちらも刺繍糸で引かれ、さらにその下には。
 三日月の中に包まれた、根に毒を含んだ、黒地に映える彼岸花なる妖花が一輪、緋色の刺繍が鮮やかに縫われていた。
 ーー白い三日月と緋色の妖花の下には、
【鬼蒜月 第壱期】
 その三文字の白い刺繍が、縦に大きく縫われ、各々の羽織の袖には、まず右袖に
【泉北堺 鬼蒜月】
 左袖には、
【大将 鬼眼】
【副将 然】
【参 斬込 蜷】
【肆 特攻 百助】
【伍 大副将親衛 錠】
 ーーと、刺繍が施されていた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
「この羽織、めっちゃかっこええけど、えっろぉ袖も裾も長っがいわぁ」
 成長を見込んで、あえて長めに仕立てた羽織の袖をたくし上げながら、末っ子の錠が無邪気にはしゃぎまわる。
「ーーなぁ大哥ィ、あのおばはん、あのままでえぇんか?」
 鬼眼、蜷、百助、錠、然の順に慎重に階段を降りたところで、百助が振り返り、然に訊ねた
「百、おなごはなぁ、おめこに珍棒突っ込まれて気ィやり過ぎてよがりっぱなしになると、ど頭(たま)がイカれて、アホになることもあるんやで?」
「うわ、キッツ」
「うわキッツて、まだ女も知らんくせに何ナマ抜かしとんねん、アホ。それ以前にあの連中、とうに人間辞めとったさかいな」
「は? そりゃ確かに尾平と拝邏のあほんだらは飢え死に手前の癩みたいになっとったけど、人間辞めたて、どないなこっちゃ」
「……鬼眼、蜷、百、錠、走らんか。今すぐ」
「おぅ。そろそろかい、大哥ィ」
「な、なんやの、急に?」
 蜷を筆頭に、三人の妹弟達が同音異口に問うた。
「四の五の抜かさんと、えぇから早よ走らんかい! 死ぬで!」
 然の怒声に、三人は駆け出した。
 鬼眼はもう既に、三人と九尺近く間を開けている。
「ちぃ哥ィ、ニナ姉、百ーー! 待ってぇ、待ってぇなぁーー!」
 畳を背負っている錠が、どうしても遅れる。
 その瞬間、錠の体がふわりと浮かび上がった。
 追いついて来た然が錠の背中から畳を引きずり出し、右肩に錠を乗せ、左脇に畳を抱えて走っている。
「大哥ィ~~!!」
 錠が思わず叫んだその瞬間、彼らの背後で凄まじい爆発音が、保津川の岸辺に響き渡った。
 一階に赤子とその祖母と父親の白骨化した死骸、そして二階の養蚕小屋に置き去りにされた尾平と拝邏の死体、そして半死半生の、全身汚物にまみれ、蝿にたかられ蛆の生き餌と化し、明らかに精神に異常を来たしたお墨を孕んだ茅葺き屋根のあばら家がーー。
 爆発して火種を四方八方に飛散させ、一気に燃え上がった。
「お、おぉぉ、大哥ィ!? 何じゃい、ありゃ!!」
 錠が然の肩に担がれたまま顔だけ振り返り、驚愕した。
 保津川の岸辺に停めていた猪牙舟の緣に両手でしがみつき、立て膝をついて両眼を見開いている百助と、その隣りにへたり込み、両ひざの間に左右の掌をついて、さながら打ち上げ花火でも見物するかのように、その光景に見入っている蜷の姿があった。
「行灯の油をぎょうさん染み込ませよった障子紙で包んだ、火薬の筒をなぁ、尾平のジジイの脳味噌と目玉ぁ飛び出した頭の耳ン穴と、拝邏のおっさんのケツの穴、それとお墨のおばはんの蛆まみれの腐れおめこに突っ込んどいたんや。三本に導火線繋げて、ニナの持っとった提灯の蝋燭で、火ィ付けてやったさけ」
 炎上するあばら家を見つめながら、然は不敵な笑みを浮かべ、蜷の持っていた、あの灰梅色地に大輪の緋牡丹が描かれた、あの盆の送り迎え用の提灯を、後ろ手に手渡した。
 蜷が半ば上の空で、それを受け取る。
「おぅコラ、しゃっきりせんかい! ニナ、百ォ! あと錠、自分ちんまいけど、もうええ加減重いねん! 早ぅ降りんとしばくぞボケぇ!」
「ーーいつまで大哥ィに自分と畳担がせとるつもりや、錠」
 長兄の胴間声と、次兄の冷静な言葉に、妹弟達はようやく我に返った。
ーーーーーーーーーーーーーーー
 行きとは違い、帰りの船頭は蜷に任された。
 この五人兄姉弟は、紅一点の姉であり妹である蜷が月のものの最中であるとき以外は、良い意味で男女の区別はせず、むしろ蜷こそそれを望んでいる。
 船板の上で腕組みし胡座をかいた鬼眼と、船のへりに腰かけて、両ひざの上に左右のひじを乗せ。
 両手の指を組み、その上に顎を乗せた然は、互いに神妙な面持ちで会話を交わしていた。
「なぁ大哥ィ、あと七日もしよったら、尾平と拝邏にお墨のあほんだらども、地獄で壱番目の十王様の秦広王様の前で、首の後ろに緑の輪の苔ぇ光らせとるんかいなぁ?」
「知らんがな」
「……もちっと愛想良う返事出来ひんのかいな。ホンマにそっけあれへんなぁ、大哥ィは」
「そっけないん違ゃうわ。見たこともあれへんあの世の話なんぞ、どないせぇっちゅうねん」
 (首の後ろで光りよる輪の苔て、何やねんな、それ)
  満月の夜とはいえ、夜、提灯の中の蝋燭一本の灯りだけを頼りに、舟足の速い猪牙舟を必死に漕ぐ蜷には、ふたりの会話の意味がまったくわからなかった。
 呑気にも、百助と錠はいちばん後ろの船板の上で、熟睡している。
 だが、ややあってから、蜷は尾平達三人の残党の潜伏先であったあの家赤子の母の不在の理由に、ようやく気がついた。
 それはここまで来て鬼眼と然しか気づかぬことであったが、尾平と拝邏、お墨の三人は、赤子の母の全身を喰らい尽くしていたのだ、と。
 飢えのあまり正気を失い、あのあばら家を急襲し。
 我が子を育てるため、全身に蓄
えた脂肪たっぷりの肉体を。
 我が子にたっぷり、文字どおり授けるために、尽きることのない母乳を溜めた乳房から溢れ出る母乳まで吸い尽くした。
 ーーそれも、生きたまま。
 意外に喰いちぎれない生きた生肉に歯を立てられ引き裂かれ、狂ったように泣き叫ぶ妻を守ろうとした猟師は、尾平の暗器である諸刃の円形状の鎌が先端に付いた刺股で、首を落とされた。
 妻は途中で失神し、そこから先は家にあった包丁で屠殺同然に解体された。
 残された猟師の岳母は、とっさに孫をかばってうずくまったが、拝邏の術【皮剥之術】により、着物とともに全身の皮膚を剥ぎ取られ、剥き出しの肉を空気に晒されたあまりの激痛と衝撃とで、心の臓が止まったのだろう。
 お墨が祖母の腕の中から引きずり出し、激しく泣き喚いた。
 まだ座ってもいない首は、さほどの腕力のないお墨でも、上の前歯の横についた、縫い針ほど細く短い牙から噴き出す毒の墨など使う必要もなく、何の術も持たぬ両掌で、その柔らかい骨ごと折った。
 生まれて間もない赤ん坊の肉は実に柔らかく、濁りのない血は甘く、骨は歯を立てるだけで、口の中でほろりと崩れた。
 その名残りが、あの囲炉裏に残された、中身の腐った鍋だったのだ。
 おぞけを覚えるや否や、それと同時に全身がぞくぞくと震え、蜷の乳首が固く尖ってピンと勃ち、
失禁したかのように、股が激しく潤んだのがわかった。
「ひ、ひと、人、喰らいよったんかいな、あの爺におっさんに、あのババア。生、生き、生きたまま……」
 蜷の左右の眦から、涙がこぼれ落ちる寸前まで双眸が潤み、両頬どころか顔全体が、真っ赤に染まった。
 だが蜷は自力で必死に理性を保つため、右の下唇の端近くに歯を立てた。
 そこから顎をつたい、首の中ほどまで垂れた鮮血にも気づかぬほど、体の奥底から湧き上がる肉欲を抑え込んだーー。
 然と鬼眼。
 ふたりの兄達はそ知らぬ振りをしながら、性的倒錯に欲情したした妹のその様子を横目にしっかり見とがめ、見つめていた。
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 そして、同じ頃。
 江戸は根岸の寮では、京の亀岡とは趣きを異(こと)にする惨事が起こっていた。
 何しろ拾陸畳もある部屋の片隅に置かれた鏡台の内側から鏡が粉々に砕け散って、そこから六尺越えの大男が、弾かれるように全身から鮮血を放ちながら飛び出して来たのだからーー。

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★参考資料★
「カタカムナ氣功療法」
 著:待山栄一
 現代書林刊

 


 
 

 
 
 
 

 
 
 

 
 
 

 






  


  


  




  

  

  



  
  
  



  
  
  
  

  


  

  

  




  

  


  
  

     
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