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惨劇ノ参事⑵・第肆章《破瓜紅(はかべに)と射精白(はく)の褥と花焔牛車》
玖之罰「新谷淫獄変」ー外道達の狂宴ー
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(あぁ嫌や、嫌やーー《色欲》の極みやわ、こんなん嫌や、見とうない、見とうないーー)
ーー歓喜の叫びを上げて、数えで齢九つのその童女は、腹を縦に裂かれて、息絶えた。
真っ白な畳一畳よりひとまわり小さく薄い褥の上で、破瓜の血を、失禁したかのように、股間から内もも、内ももから両ひざ、両ひざからくるぶし、左右の足の親指の先まで滴り落として。
その二尺弱前の畳の上で前かがみになり、顔を繰り返し繰り返し上げ下げし、両眼をその光景と紙の上を行ったり来たりさせては、畳一畳ほどの紙に『ぺんする』で細部まで明確に描き抜くべく、躍起になっている。
紙の隅々に、清書するにあたっての、色と線の太さ細さを執拗なまでにひらがなだけのつたない文章で細かく指定して。
ぐぶぅ、と生々しい音を立てて膣内にどっぷり射精された極太の陰茎が引き抜かれると、汗と唾液がいくつもの染みを作り、じっとり湿ったで褥の破瓜の血紅に精液の白濁が混ざり合い始める。
体位は、卍崩しだった。
まず、横向きに寝た女の背後から、正座をした男が挿入するところから始めてーー。
本来なら、そこから女が自身の左足を持ち上げ、ひざから爪先で乳房を隠すように持ち上げ、右足はふたつに重ね合わせたまま【御開帳】状態を自力で保たなくてはならないのだが、その必要はなかった。
何故なら持ち上げられた左足首と童女の右手首は緊縛され、さらに右足の太ももと右足首もまた、緊縛されているからだ。
ついでに右ひざの上と真下も、左足首と右手首同様、全体が毛羽立った、鞣されてもいない細い荒縄で、幾重にも固定されている。
童女の顔が赤らんでいるのは、いわゆる縄酔いからではない。
まして、無理くり酒を呑まされたのでもない。
ーー少しばかり、奇怪な術者に頭を弄られたのだ。
正確には、脳を、だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ーー下谷竜泉寺町。
富裕層の大店の商人と、吉原の見世の寮(別荘)が軒を連ねる閑静な町であり、下は部屋持から、座敷持、本間と来て、上はお職の格上の遊女のみが、体調不良の際は特別にこの地の寮で休養を取る特権を与えられていた。
江戸時代における、上級国民とでもいうのだろうかーー?
寮は家屋の左右と裏庭を、厳重な目隠しのために竹を敷きつめる形式の建仁寺垣で覆い。
寮の入り口のみ、丸太を支柱にし、横に竹を何段か組み、その間に細い竹を立てて棕櫚縄でくくりつけた、清水垣で囲まれている。
ここ、十六畳の絵描きの間に連れて来られた童女達は、まず真っ先に身ぐるみを剥がされ、全裸にさせられる。
そして、両足を御開帳して股間を前に突き出し、片手の指で未熟な陰部を左右に開いての、強制的な自己紹介。
この童女は、
「な、名前は、お、おぉ、お君、かぞ、数えで、こ、ここ、ここの·····九·····つ、で·····す·····」
裸にされた時点で既に号泣し、一糸まとわぬ我と我が身を抱いて嗚咽をもらし、父母の名を呼ぶばかりで、一言も発せなくなる者がほとんどだが、そのように年相応の反応をした者には、脅しが与えられる。
ただ目の前に立って、鞘から抜いた白刃の切っ先を、喉元に髪の毛一本ほどの間を空けて突きつければよい。
しばしば恐怖のあまり失禁する者もいるが、そうした者はあらかじめ木桶に座らせておくため、十六畳もの広間を尿(ゆばり)で染み汚す問題はない。
まだ貝の口のように固く閉じた、恥毛の産毛すら芽吹いていない陰部。
破瓜の字は、瓜の字をふたつに縦に破って、八と八。
八と八を足して十六の歳が平均的な処女喪失の齢と言われているのに、今、
あらかじめ、剃刀で会陰に切れ目を入れておいたとはいえ、そのような施術はほとんど意味を成さないが、依頼主の手前、それらしくやって見せねば商いとして成り立たないのが、商人の弱みだ。
「おぅ源(げん)、自分どんだけ自慢のいぼ魔羅使うて、アマっ娘潰す気や。このようわからん江戸ん中で、貧乏人のアマっ娘探して上手いこと丸め込んで来んの、結構難儀なもんなんやで? ワシの苦労も知らんと!」
ーー舟盛りの鯛の活け造り。
その右隣りに、にんにく醤油をたっぷりかけた牛の肝臓の乗った大皿。
その手前に、
鱧の梅肉和え。
鰻巻き。
里芋の湯葉あんかけ。
以上の品を盛った、六角形の三つの小鉢を置き、手酌で猪口に冷酒をちびちび口にしながらあちこちに箸を伸ばしている奇矯な装いの若い男が、呆れたように呟いた。
歳のほどは、二十歳前後か。
五辨の葵の花模様に満たされた、肌が透けて見える濃藍色の絽(シースルーのような生地)の薄衣を素肌にまとい、その上から襟、袖口、裾が赤色で、生地は紅に春画柄という着物をずるりと着崩し。
帯は濃紅、葡萄色、真紅の縮緬帯を細腰に三重に重ね、腹の前で牡丹のように重ね合わせ、右を短く左を長く、三本の縮緬帯の先端を垂らした、さながら戦国時代の傾奇者のような身なりをした、実に端正な顔立ちの男だった。
長い黒髪を頭の上で団子状にまとめ上げ、両耳の脇から、胸元まで長い髪を垂らしており、遠目に見ると、女と見まごう容貌である。
だが、どこか下卑た感は否めない。
彼の名は梅弥(ばいや)。
ーー通称、ころがし梅弥。
そして彼が源と呼び、童女を犯し貫き殺した男の名は、是之源(ぜのげん)という。
「上方の言葉は通じひんし、せやかて江戸ん言葉はようしゃべられへんし【お人形(にんぎょ)さん捕まえて来んのに】えろぉ難儀しとるんやで、ワシゃあ」
梅弥が、にんにく醤油のたっぷりかかった牛の肝臓の刺し身を、一度に四枚まとめて箸にはさみ、口に放り込んだ。
むっしむっしと喰らいながら、梅弥は長年の相方を軽くねめつける。
(意地汚し、陸ーー《暴食》)
「はぁ? なぁに甘ったれたこと抜かしとんのや、それが自分の仕事やろがい、梅弥」
どこか気障りな印象が否めない、庇髪。
身の丈と体格は中肉中背だが、筋骨隆々とした裸体に、精を放ったばかりで既に萎え、通常の大きさに戻ったものの、その陰茎の長さは軽く一尺、竿まわりは二寸はあろう、人並み外れた大きさをしていた。
ーーそこへ、新谷が【花乞吹雪屋】の路地裏で、部数限定の童女姦の春画集を売っていたあの不可解な存在の少年が、大中ふたつの木桶を両手に持って現れた。
赤い縮れた髪に、岩井茶色の鮫小紋の絣の着物。
あちこち擦り切れた仙茶色の帯という、あの日の装いそのままで。
相変わらず、薄汚れた細切れの晒しで前髪を巻き込んで、両眼を視界がふさがらない範囲まで隠しているが、その意図はまったくわからない。
ただし、今はその粗末な着物に、白い前かけをしている。
「おぅ、太夫(だいふ)か。頼むでぇ、清拭」
字にすれば太夫ながら、【たゆう】ではなく【だいふ】と呼ばれた少年は無言でうなずき、袖を肩までまくって一枚目の布巾を大きい方の木桶の湯に浸し、わざと緩めに布巾を絞った。
精液と破瓜の血にまみれた極太の陰茎が、熱湯とぬるま湯の中間のほどよい温かさで、陰嚢全体から肛門、いわゆる蟻の門渡りまで丁寧に清拭されると、太夫は汚れた布巾を開いて大きい方の木桶の湯に戻した。
布巾に付いた精液と破瓜の血が、湯の熱で瞬く間に凝固する。
梅弥の言葉どおり、雁太の真下から付け根まで、竿全体に丸い大豆状の粒が、鬼の金棒の如く埋め込まれていた。
そして何故か、左右の角も禍々しい雄山羊の頭の刺青が、隙間なく施されていた。
太夫が続けて、小さい方の木桶に、もう一枚、新しく布巾を浸した。
ざらつき、荒れた左掌で、そっと。
「真珠はどえらい高価やさかいな、雄の山羊の角ぉちぃとばかりギッて、全部ワシが金鑢(やすり)使うて一粒一粒丸ぅ削って、埋めたんや。どないや太夫、自分もしてみぃひんか? 」
不敵な笑みを浮かべ、是之源は幅広の右足の裏で、太夫の左肩関節にがつん! と蹴りを入れた。
正座の体制が崩れかけ、反射的に左肩を押さえ、あのひどく発音の悪い声で呻いた。
その様を、是之源はひざ上までの白い股引きを履きながら、そっくり返り、天井に向かって呵呵大笑した。
(伍ーー《傲慢》)
(のぅ、さっきっからおはんが数えよるそれ、今いくつまで出とるんや? 全部でいくつなん?)
(まだ、三つ。せやけど、ここにおる者(もん)ら、全部揃うとりはる··········醜いんやない、美しゅうあれへん··········)
その光景を目にしている、何者かがどこかにふたりいる。
ーー精液と血液が染み込んだ一枚目の布巾を拾い上げ、すっかり冷めてしまった湯の汚れた木桶の湯で軽くすすいでからきつく絞ると、童女、お君と是之源の汗、是之源の唾液、精液と血にまみれた全身を、冷たい汚水で拭いた。
そして、是之源への仕上げの清拭に使った二枚目の布巾を絞り、お君の顔の上に乗せた。
その瞬間、太夫の右顔に横から足蹴りが喰らわされた。
「辛気臭い真似すんなや、ボケェ!」
ーー恐ろしく険しい顔で、お君の亡骸の真横に左半身を下に倒れた、太夫を見下げる是之源の仕業だった。
身の丈五尺七寸のすらりとした体躯。灰青の着流しを身にまとい、藤紫と白藤のしじら織の帯を貝の口に結んでいる最中だった。
先ほど太夫の肩を蹴ったときは裸足だったが、今は金の小鉤付きの白足袋を両足に履いている。
相変わらずの洒落者だ。
にまにましながら、梅弥が倒れた太夫の赤い縮れ毛の頭部をつかみ上げ、にんにく醤油と酒臭い息を吹きかけ、太夫が思わず顔を背けた、そのときだった。
「ーーおやめ!!」
ギヤマン製の丸い灰皿が、立て続けに是之源と梅弥の額と顔面をを、真正面から交互に激しく打ちつけた。
ーー薩摩切子風のきらびやかな飾りが彫られた、煙草盆代わりのギヤマンの灰皿はひびひとつ入らなかったが、代わりに是之源と梅弥の額はぱっくり割れ、鼻血が垂れた。
ふたりの顔面からギヤマンの灰皿が離れると、寸分の間も置かず、呻き声を漏らすふたりの口端から何かがこぼれ落ちた。
顔面が額と鼻から滴り落ちる血にまみれ、足元に血溜まりが出来ると、その上に、黄色がかった白い大粒の砂利に似た破片が浮いた。
ーーギヤマンの灰皿で殴られた勢いで、半分へし折られた、数本の歯の破片だった。
「大の男ふたりが、寄ってたかって十(とお)と少しの子どもを虐めるのが常なのかえ、上方の男衆は」
ギヤマンの灰皿で男ふたりの額を割り鼻骨を砕き、あげく数本の歯を半分へし折って血まみれにしたのは、まだ若く、中背の女だった。
歳のほどは嫁入り頃の十六、十七ほど。
決して太ってはいないが、丸顔でふっくらとした柔らかな輪郭に、二重まぶたの大きな双眸、小ぶりだがぽってりとして、匂い立つような色香を含んだ唇。
書の達人の筆のように、整えられた蛾眉。
本来なら愛らしいはずの顔立ちであるが、それ以上に冷酷かつ、過剰なまでにきつい、憎悪すら湛えた眼が。
こめかみ近くまで眉尻が吊り上がった蛾眉の下で、是之源と梅弥をねめつけていた。
「び、びぼざば·····」
「ぼ、ぼうじわげありあへん」
前者は梅弥、後者は是之源。
ふたりとも色男っぷりが台無しで、顔面血まみれで、彼らより年下の女に怯え切り、全身を震わせて土下座している。
ともに顔と歯がやられているため発音が不明瞭だが、訳すと、
「澪様」
「申し訳ありまへん」
ーーである。
澪、と呼ばれた女の背後には、壮年の男がひとり、彼女にかしずくように控え、廊下に正座していた。
ーーこの男こそが『花乞吹雪屋』の主《穢花米異垂流(えばな・よねいずる)》である。
本名ではない。
実の名は江花米治郎(えばな・よねじろう)だが、この字面での童女姦春画の秘密裏の販売を生業としている。
そもそもこの裏稼業を始めたのは彼だが、異名の名付けは澪だ。
そしてすべての采配は彼に全権が委ねられているものの、彼を顎で使い、売り上げは九対一の割合で澪の懐に収まる。
ーー憲法色の無地の木綿の着物に、檳椰子染色の角帯を歌留多結びにした、全体的に脂ぎった、でっぷりと太った壮年の男だ。
澪と穢花は親子ほど歳が離れているように見えるが、穢花が澪に向けている卑屈さは、異様だった。
常に手揉みをし、作り笑顔を向けていなければ、いつ何時(なんどき)澪の機嫌を損ねて、折檻を受けてしまうかわからないと、怯えているかのような。
穢花の首に、見えない首輪と頑丈な鎖が着けられ、手綱たる鎖は澪の手に握られている。
少しでも主に逆らえば、手綱でどこかの木の枝から首を吊るされ、縊死させられる。
あるいは、首輪の内側全体に仕込まれた毒針が、その首の内に刺さり、悶死する。
穢花の生殺与奪の権利は、澪の機嫌次第ーー。
それほどまでに強固な主従関係が成り立っているように見えた。
「舐安よ、今宵の画の童女は如何様であった?」
「いつもながら、最高の逸材、素材でごぜぇやした。澪様」
無惨極まりない童女姦の光景の一部始終を、無我夢中に描き続けていた絵師ーー雅号・淫水舐安(いんすい・なめやす)は、深々と、澪に向かって土下座して礼の言葉を述べた。
「やはり破瓜の血の紅と精の白濁が入り混じる色ほど、あっしにって美しい色は他にござんせん。この淫水を絵に使えぬのが、口惜しいことこの上なくーー」
「では早よぅに、その木桶の中の淫水を庭の花々にやらぬかえ!」
「へ、へぇっ!」
慌てて身を起こし、ふたたび土下座してから、絵師、舐安は大きい方の木桶を抱え、破瓜の血と精液が混じった汚水を。
目隠しに最適な建仁寺垣で囲って覆い隠した、裏庭に面した八枚並びの障子を開け放った先にあった、数は少ないが、すべてが艶やかに咲き誇る花々の根元に、出来るだけ均等に注いだ。
「おぅおぅコラ、そこのブタのおっさん! ワレェさっきっから何ぁにボケっとしてけつかんねん、早うワシらの怪我の手当てせんかいな!!」
「は、はいぃっ!」
完全な八つ当たりで、梅弥が穢花に怒声を浴びせた。
穢花は必死の形相かつ、半ば腰を抜かした四つん這いで、血まみれの顔を掌で押さえる梅弥と是之源の怪我の手当てをするべく、晒しに軟膏、綿、酒精綿を作るための焼酎の小瓶を入れた木箱を置いた棚に手を伸ばすべく、自身が作った縦長の台形の箱の上に長方形の足場を置いた、元より足元がガタついている、出来損ないの踏み台に両足を乗せた。
穢花が木箱を両掌に抱えたその瞬間、是之源が横から踏み台を蹴り飛ばした。
穢花は当然そこから転げ落ち、畳の上に全身を激しく打ちつけた。
全身を畳に激しく打ちつけ、穢花は呻くしかなかった。
「ボケコラァ! これやからブタは使えへんっちゅうんや。鈍臭ぁて年柄年中汗臭ぉて。早よせんかいな、こっちゃもぉ、べべにぎょうさん血ぃ付いとんのじゃ!」
「··········はぃ··········」
こちら、是之源もまた穢花に完全な八つ当たりの罵詈雑言を吐き、髷をつかんで、〆にひざ頭で腹に蹴りを入れた。
穢花は蚊の鳴くような声で、怯えながら返答した。
上方の中でも特に荒い言葉が普段使いのふたりに対し、一言返すのが精一杯のようだ。
その様を、澪はぞっとするような妖しいたたずまいで、終始無言で横目に見つめていた。
「太夫や」
「あ、ぁい」
「来やれ」
「···············」
太夫は素直に澪の命に応じ、彼女のもとににじり寄った。
それと同時に、澪の両掌が太夫の両頬を包み込んだ。
寸分の間も置かず澪は太夫の唇にくちづけし、舌先で太夫の口腔に甘酸っぱく、小さな塊をいくつか押し込んだ。
焼酎に大量の氷砂糖を溶かし、一年間暗所で寝かせた、色とりどりのすぐりの粒だった。
「··········」
「美味いかえ?」
うなずき、皮のついたままの果実を歯でぷちぷち噛みながら、太夫は澪の問いに答える。
口移しに与えられた、眼にも鮮やかな赤、透き通るような薄萌葱、乳白、漆黒の果実は甘酸っぱく、わずかな酒匂が鼻腔をかすめた。
澪のたおやかな右掌が、艶のない、太夫の縮れた赤毛の頭を撫でた。
新谷と初めて出会った際、彼が口にしていた洋梨『オーロラ』を与えたのも、実は澪であった。
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「せやけど、澪様は江戸のおなごながら、京女並みの着道楽でおますなぁ」
ようやく血が止まったばかりで、歯も折られたているというのに、平然と酒を呑む梅弥と是之源が酒でさらに饒舌になり。
なれなれしいほど、交互に澪を賞賛する。
「せやせや、この間の白紗地滝松竹梅文様【しろしゃじたきしょうちくばいもんよう】の竹屋町縫打掛(たけやまちぬいうちかけ)にーー」
梅弥の言葉を継ぎ、
「そん下に着はられとった、藍白に瑠璃色の大きな菖蒲(あやめ)の花と、千歳緑の葉がよう映えとりましたわ」
是之源が、くい、とグラスを傾けた。
「おべべだけやあれへん。あん時の鼈甲尽くしの前差し中差し後ろ差しの簪に笄、前櫛丸髷も、えろぉ似合とりましたでぇ」
「まぁ、何せ元がよろしゅうおます。べっぴんさんは何ぁに着はっても、どないな髪に結っても、着こなして見映えるちゅうこっちゃ」
一歩間違えれば、鼻につく物言いになりかねないが、そこは上方者らしく、微妙な加減を心得ている。
ふたりは揃って、頭と鼻に一枚の晒しを、前から見てくの字に巻いた姿で、何と細身のシャンパングラスを手にしている。
それは協息にもたれかかり、しどけなく斜め座りになっている澪の右手にも、柔らかく握られていた。
中身は、先ほど澪が口移しで与えた赤、薄萌葱、乳白、漆黒のすぐりを氷砂糖とともに焼酎で漬けた、果実酒であった。
澪は無言を貫き、冷徹にふたりの上方男がほんのり酔いながら、穢花が新しく持参した大皿に乗せた、氷砂糖と焼酎に漬かっていた、種を抜いた四色のすぐり。
八つ切りのゴルゴンゾーラの巣蜜がけを盛った、白磁のココット皿が三つ乗り。
殻を割ったピスタチオ、カシューナッツ、アーモンド、剥き胡桃。
きっちり一枚一寸ごとに切り分けられた、どす黒い三本の謎の塊。
その皿の上の品々は、品数は少ないもの、さながら西洋の皿鉢料理のごとく。
「ほんで、今宵のお召物(もん)と御髪(おぐし)と来はったらーー」 取り皿も新しい箸も手前に用意されているのに。
行儀悪く指でじかにつまみ上げ、迎え舌で巣蜜が滴り落ちるゴルゴンゾーラを口に収めながら、巣蜂蜜が付いてベタついた右掌を舐め、是之源が、
「前の御髪は吹前髪、後ろは玉結び。茶屋辻の色打掛や。菱川師宣はんの見返り美人まんまやおへんか。いやはや、ごっつう見目麗しゅう」
そこで、ふっ、と。
初めて澪が微かな笑みを浮かべた。
「口ばかり達者な、上方のがさつでやかましい男どもとばかり思うておったが、ただのバカではないようじゃの、ふ、ふ、ふ」
梅弥が上座の澪に向かって、右手の人差し指を立ててわざとらしく左右に振り、
「おぉっと、ワシら上方の者(もん)に向こうてバカはあきまへんで、バカは。そこはアホ言うてもらわんと、きつうてかなわしまへんわ」
「んまぁ、どっちにしたかて、あの神君家康公からお墨付きを頂戴しはった、公儀呉服師の豪商、茶屋四郎次郎様代々が扱こうとる御品やさかいな」
是之源が、わざわざ一枚一寸に切り分けられた赤黒い切り身を元のひとかたまり分、二回にわけて口に運んだ。
それは、血のブーダンノワール。
豚の血、脂、肉で作った、真っ黒な腸詰め(ウインナー)だ。
「まぁそない言うてもワシら、生まれも育ちも京やあらしまへんがな。着倒れより食い倒れの大阪者やさけ」
是之源がナッツ類を掌でわしづかみにして口に放り込み、ばりばりと噛み砕き、ブーダンノワール一本とともに、自身の飲み込む力のみで、嚥下した。
そのかたわらで、絵師・舐安は梅弥が残した牛の肝臓の刺し身のにんにく醤油がけの乗った大皿に口をつけ、箸を使いながらも、半ば吸うようにして口にかき込み、新鮮でなければ生で味わうことの出来ない、獣の肝臓と蒜類特有のきつい匂いのすり身という、血腥くもやや辛みを含んだ味を貪っている。
ーーそれは食事というより、飢えた獣が弱き草食獣の腹を裂き、顔を血まみれにして貪っている姿を思い起こさせた。
対称的に、太夫は正座して背中を丸め、こちらも梅弥の残りものの鱧の梅和え、鰻巻き、里芋の湯葉あんかけをちびちびと、しかし、この贅沢極まりない残り物を誰にも渡すまいとばかりに、舐安と太夫は、握り箸で他人が口をつけたものを食べているのではなく、喰らっている。
ーーまともな箸の持ち方すら知らない、そのような身の上なのだ。
(ーーのぅ、ようわかれへんけど、あれも《暴食》やおへんのか?)
(··········《暴食》なんぞと違ゃう··········あれは、ただ··········ただひたすらに、飢(かつ)えてはるだけや··········)
「牛の肝臓の刺身は美味かったかえ、舐安」
「恐悦至極に、存じますーー」
絵師・舐安は脇息にもたれかかり、気だるげにシャンパングラスを揺らした。
「大蒜を絡めた、血の滴るような牛の生の内臓を喰ろうたのじゃ。さぞ煩悩が燃え盛っておろう。言い忘れておったが、実は今宵はもう一仕事頼みたい。引き受けておくれでないかえ?」
「それはもう、是非にも。こちらからお頼み申したいほどでございます」
「あいわかった。では穢花、これへーー」
澪が声高に名を呼び、二回両掌を打ち鳴らすと、どこかへ姿を消していた穢花が、自身の肥満した肉体の重みが直にかかり、歩くことさえ難儀な身で。
ひとり息を切らし、汗だくになりながら、よたよたとした足取りで、長い轅の付いた軛にでっぷりとした腹を押し当てて牽いて来た、六種類の花々が咲き誇る、手入れの行き届いた裏庭の中央に運ばれて来たのは、なんとーー。
牛車、であった。
何故か、棟のちょうど真ん中に使い古された薄汚い鏡台が置かれている。
鏡台の高さは二尺強、縦横はともに一尺弱。
鏡は縦一尺弱、横八寸程度。
小縦七寸未満、横三寸越え。
だが、棟の中央に鏡台を置いたその意図は、まったくわからない。
(《怠惰》ーー五つ)
(ほぅ、この伏魔殿に朧車でも連れて来よったかいな、あの出っ腹の求肥みとぉなおっさま。それとも中におるんは、文車妖妃かいな)
「残念ながら香炉峰の雪とはならずが、御簾を掲げや、穢花」
ぜぇぜぇと荒く息を吐きながら、間違いなくやっとの思いで鷺足の付いた榻の上に軛を置き、穢花は御簾を掲げ、軒格子と眉が隠れるまで、棟の上に御簾をまくり上げた。
ーー中にいたのは、遙か昔、恋文に込められた情念、怨念が嫉妬に狂った女の具現化たる般若の形相の付喪神ではなく、まだ数えで齢十二の娘であった。
頭(こうべ)を垂れ、項垂れた娘は左前の白く薄い着物一枚に身を包み、腰と背中まで伸びた黒髪を垂らしている。
その身は死装束の上から、斬首刑に処される罪人と同じく、後ろ手に上半身を緊縛されていた。
違うのは顔に面紙(へらがみ)を付けず。
上半身を緊縛しているのは縄ではなく、隙間なく棘の生えた荊の枝であることだ。
「お咲耶(さや)!」
父が自分の名を叫んだ瞬間、お咲耶なる娘はすぐさま顔を上げたが、無言、無表情である。
娘は美しい。
艶黒の髪に、鳥の子色の肌、薄紅色のささやかな乳首、真朱色の小さな唇。
澪が凄艶な笑みをお咲耶に向けるが、彼女はただ無表情を貫いている。
指先がかすかに触れるだけで痛む棘が、白の死装束越しに喰い込んだ上半身から、血が滲み始めていた。
じわりじわりと。
ただひたすらに鈍く痛く。
舐安の顔が、真っ青になった。
「み、澪様、こ、これは」
「ふん。そもそもこの童女姦の『えすきいす』は、そなたがこの娘に着せた赤襦袢の両肩と太ももまで露わにし、その上から緊縛した薄墨の画を、乞食の様な身なりで【花乞吹雪屋】に売り込んで来たのが始まりであろう?」
自ら運んで来た、五段の階段状の踏み台を、向かって左側の車輪(くるまのわ)のすぐ側に、穢花が置いた。
恐る恐る両足を乗せ、穢花がお咲耶が中央に座る牛車の中に上がると、昔話の翁の如く、こちらもひどくつらそうに背中に担いで来た無数の薪で囲み。
おっかなびっくり足元を気遣いながら、踏み台を降りた。
ーーそれと同時に、梅弥と是之源が、奇声を発しながら十六畳の絵描きの間から、履き物も履かずに裏庭へ飛び出した。
その勢いのまま、梅弥は裏庭の花々の根元に隠していた油壺を持ち。
是之源は棘などものともせず、お咲耶の上半身を緊縛する、棘だらけの荊の枝を素手でむしり取ると、死装束まで剥ぎ取った。
父親まで含めた複数の男達の前で全裸にされ、薄い胸にかわらけの下腹が露わになっても、お咲耶は無表情を崩さない。
ーーその瞬間、是之源が両腕を真横に伸ばし、両足をわずかに広げた。
左右の袖口、着物の裾から突如として現れた鉄の鎖が、まるで意思を持った生き物のようにお咲耶の両ひじから両手首までを、隙間なく磔台の横柱の左右にくくりつける。
次にお咲耶の両ひざの真下から両足首まで、こちらも両足を磔台の中央の縦の柱にがんじがらめにし。
墨を何重にも塗り重ねては塗り重ねてを繰り返し、牛車の中に建付けられていた、闇夜に溶け込む不燃性の頑丈な黒金黐(くろがねもち)の太い角材で造られた十字の柱へ、磔にされた。
「ごっつうえぇ塩梅やで、ほな、梅弥。額に鍼ぃーー」
「要りません」
お咲耶は、きっぱり言い放った。
「あたしは身動きの取れないこの状態で、死に際まで苦しんで苦しんで、生身を焼かれる苦痛を感じながら死にたく思います。だから、要りません」
ーーそう。
梅弥の術は、特別製の鍼で脳を直に突くことにより、どれほどの苦痛もすべて快楽と悦楽に変えてしまうものだった。
どんな修練の賜物か、梅弥は特製の鍼で脳内の【側坐核】なる部位を突く。
そこは前頭前野、大脳辺縁系、大脳基底核と密接な神経連絡を取っており。
快感のホルモンドーパミンを放出する箇所だ。
それによって、施術された者は生きながらにして極楽浄土の夢見心地になれる。
年相応ではない破瓜の痛みを悦楽に変え、褥が真っ赤に染まるほどあふれ出す破瓜の血と。
腹が裂けるほどの童女の狭過ぎる膣への、是之源の巨根の挿入と抽挿に耐えられるどころではなく、大人の女並みに喘ぎ、下半身を破壊されながら絶頂の中で逝けるのは、それ故だ。
「ええのんか? もう時間あれへんで」
「はい」
ヒュゥッ、と梅弥は感嘆の口笛を吹いた。
ふたりのやり取りをすぐ側で聞いていた是之源もまた、大きく息を吐き、心底から感嘆した。
「ほな行くで、お嬢ちゃん」
梅弥の声にお咲耶がうなずいたそのときにはもう、是之源は片手に松明を持ち、牛車の中の薪には、梅弥がくまなく壺から注いだ油が染み込んだ。
「い、いおだば、おど、べ、ぐだだ、い!」
澪様、お止めください、と。
太夫が澪の打掛の裾にすがりつき、懇願していた。
しかし、澪は動かない。答えない。
まだ壺に残っていた油が、梅弥の手によってお咲耶の頭から浴びせられ、全身が油に濡れると同時に、是之源の持つ松明が、お咲耶の左肩に触れた。
その瞬間、梅弥と是之源が牛車の中から弾かれるように飛びずさり、それと同時に、
轟! と爆風が噴き上がり、牛車が一気に炎上した。
誰もが耳をふさぎたくなるような断末魔の悲鳴が、辺りに響き渡る寸前、お咲耶が口を開け、思い切り火中の空気を吸い込んだ。
あらかじめ口腔内に仕込んでいた、魚臭の強い、行燈用の油を含んだ綿に火が燃え移り、それがお咲耶の声帯を焼き、食道を滑って胃の腑の中に落ちた。
ーー連獅子の如く激しく頭と髪を振り乱しながら、お咲耶は悶絶した。
頭部以外、瞬時に全身にまとわりついた火炙りの苦痛を逃す部位がないのだ。
その瞬間ーー。
既に火が燃え移っている牛車の棟中央に置かれたあの鏡台が、ばりん! と砕け散り。
あたりに細かな破片が降り注いだ。
有り得べからざることだが、鏡を内側から割って飛び出した者があった。
その破片で、大柄な浪人の姿をした彼の者の顔に無数の切り傷を。
そして剥き出しになった両腕に防御創がついた、六尺越えの浪人が、牛車の眉の上に左足をかけ。
ざりざりと音を立てて、鞘から錆で抜きづらいことこの上ない、あちこち刃こぼれした刀を、常人より長い左右の犬歯を剥き出しにして。
渾身の力で抜き取る。
「『父と子と、精霊の名において』ーー」
( あ、あの御浪人はん、な、何しはる気ぃやの!? あ、危のおますて、指、指ぃ!……誰!? 誰やいな!?)
なまくらそのものの錆刀。
太く骨ばったその右手に、黒い革製の手袋が嵌められた。
その甲には、白い五芒星。
黒革の手袋に護られた人差し指と中指が錆刀を挟み、鯉口から切先まで一気に撫で上げると、錆だらけの刀は、まっさらな、白銀に光輝く刀身に変じた。
(嘘やて、こないなーー)
(はぁあ? どないなっとんねんな、あの刀ぁ!? )
「天誅殺師・上野喰代サの肆番が組子、参『錆刀』ーー『いきすだま』が主(ぬし)に、介錯仕る」
新谷が棟から飛び降り、着地すると同時に。
黒髪ではなく燃え盛る炎を頭から生やしたような惨状になったお咲耶の首が、牛車の前板から左右の轅、軛の間に突如として現れた、土壇場とまったく同じ寸法の四角い穴に油がなみなみと湛えられーー。
その上に、裏庭に咲く六種類の花々が油とともに大量に浮かんだ、美しくもおぞましい穴に落下した。
ーー炎を包んだ牛車の中で、お咲耶の首の断面から、血飛沫がぶしゃあぁぁぁぁと四方八方に噴き上がる。
ーー炎に包まれた長い黒髪が、とうに熱せられていた油で燃え上がる。
あたりにきつく漂う、生きた人の肉が焼けて溶け崩れる異臭。
だというのに、両眼が見開かれたお咲耶の顔は、肌どころか髪も眉も、長いまつ毛も火を宿しながら、燃えて溶け崩れることはない。
お咲耶の首全体が火種となって、可憐な美しいばかりの花々が浮かぶ土壇場がさらに燃え上がり、焔に包まれた艶やかな花々が原型を留めたまま、夜空へ浮かんで行く。
それは、幻想的でありながらあまりにも無惨で。
そして、とてつもなくもなく妖美な光景であった。
(『花焔生首地獄之業火(かえんしょうしゅじごくのごうか)』が術ーー成ったり!)
新谷の耳元でのみ、滅黯の声が聞こえた。
ーー牛車の棟から土壇場もどきの前に飛び降りた背の高い人影が、その場に居合わせたすべての者の眼に、牛車が燃える炎を逆光として映った。
故に、彼らにその顔は見えていない。
降り下ろしたままの刀の柄を両腕で握り締め、右足の爪先とひざを、位置は違えど、完全に平行にして、同じ位置に揃え。
左足を後方に伸ばし、足の裏は完全に地面に張りついている。
ーー切先からから鯉口まで、延々と滴り落ちる血。
それはお咲耶を斬首した人物であり。
言うまでもなく、新谷だった。 普段は着流しの襟の奥にひた隠しにしている血赤珊瑚のロザリオをあらわにして、その場から身じろぎもせずにいるーー。
(お、おい。あの御浪人はんが首から下げとるのんーー)
(わかっとるえ、そんくらいーー落ち着きぃな。あてらの商いに不測の事態が起こるなんぞ、当たり前のこっちゃろ)
「お、だ、や、ざばあぁぁぁぁぁ!!」
火の池と化した土壇場に駆け寄ろうとする太夫の足を、澪が伸ばした爪先で蹴つまづかせた。
「太夫、貴様、貴様ぁ……お咲耶如き下賎の輩に懸想しておったのか!? そうなのかえ!? 真のことを申しやれ!」
言いながら、澪は倒れ伏した太夫をキッとねめつけた。
そうして幾度も太夫の両掌を、背中を踏みつけ、決して起き上がれないようにする。
あまりの惨めさに、悔し涙を滲ませた太夫が、左手の甲を踏まれる寸前、染みひとつない白足袋に包まれた澪の右足の真ん中ーー土踏まずから足の甲をきつく握り、そのまま上に高く持ち上げた。
予想だにしない反撃に、無様に尻餅を突く形で畳の上に仰向けに転倒させられた澪は、呻きながら必死にうつ伏せの恰好になり。
すぐさま両掌をついて、立ち上がった。
そしてすぐさま、左腕のひじから先を畳の上に押しつけ、広げた右掌を畳の上に置いて胸元まで身を起こしかけていた太夫の赤い縮れ毛の頭頂を右掌でわしづかみにし、引きずり上げた。
爪は綺麗に丸く短く切り揃えられ、柳葉のようにしなやかな五指を備えた左掌が、繰り返し太夫の両頬を張り、打ち据える。
「描きや、描きや、描くのぞよ、舐安ぅ! そなたの娘ぇのぉ、赤襦袢など目ではない、全裸のぉ!首から血が噴き上がる様ぁぁをおぉうっふぅぅっ!」
左右の口端から大量の泡立った唾液を垂らし、狂乱しつつ太夫の首を両掌で締め上げながら、澪は舐安に命じた。
舐安は硬直した手で、
『ぺんする』を手に取り。
『画用紙』に。
『えすきいす』を描いた。
既に、舐安は発狂していた。
しかし、彼の絵師としての本能が、自ずと己の手を動かす。
微表情を浮かべた舐安の両眼からは大粒の涙が。
鼻からは大量の鼻水が。
口からは、残りを数えた方が早いほど、あちこち欠けたボロい歯で、噛み切れるはずもない舌を噛み、無意識に娘の後を追おうとして、わずかばかりの血が口元から垂れている。
「ふはっ、尿(ゆばり)を漏らしたかえ、淫水舐安。いや、乞胸仁太夫が膝元の、貧乏人の売れぬ絵師ーー袖吉」
びくっ、と穢花の両肩が跳ね上がり、梅弥と是之源が目敏くそれを見咎めた。
「掃き溜めに鶴とは、正にあのことであったぞ、袖吉。袖とつく名の娘が故に、お振。貧すれば鈍ずる者ばかりではないと、感心したわえ。あのとき『袖振り合うも他生の縁』の父娘にございますーーと申したのぅ、そなたは」
ふたりのやり取りを、梅弥と是之源はにまにましながら見物していたが、
「しかし失禁のみで狂い果てるとは、あまりに心弱い。裸をさらし、生きながら火に焼かれた娘に対し、父として男として、あまりに情けないとは思わぬかえ? 我が大恩ある養父は糞まで漏らしたと言うにーー」
養父とは、誰のことなのか。
その場に居合わせた者らが誰しも疑問に思った途端、澪の口からすぐさま答えが出た。
「故に私が、恩返しとして名付けたのよーー穢花米異垂流。と」
それが澪の従者の穢花であると知らされた瞬間、皆が衝撃を受けた。
「米が異って糞。垂れ流し。故に穢花は菊門の意よ!」
ふぁははは! と、澪は後頭部が腰に着きそうなほどにそっくり返り、天井に向かって、気違いじみたけたたましい笑い声を上げた。
(「『憤怒』『嫉妬』ーー揃うた、揃うたぇ!」)
ーー歓喜の叫びを上げて、数えで齢九つのその童女は、腹を縦に裂かれて、息絶えた。
真っ白な畳一畳よりひとまわり小さく薄い褥の上で、破瓜の血を、失禁したかのように、股間から内もも、内ももから両ひざ、両ひざからくるぶし、左右の足の親指の先まで滴り落として。
その二尺弱前の畳の上で前かがみになり、顔を繰り返し繰り返し上げ下げし、両眼をその光景と紙の上を行ったり来たりさせては、畳一畳ほどの紙に『ぺんする』で細部まで明確に描き抜くべく、躍起になっている。
紙の隅々に、清書するにあたっての、色と線の太さ細さを執拗なまでにひらがなだけのつたない文章で細かく指定して。
ぐぶぅ、と生々しい音を立てて膣内にどっぷり射精された極太の陰茎が引き抜かれると、汗と唾液がいくつもの染みを作り、じっとり湿ったで褥の破瓜の血紅に精液の白濁が混ざり合い始める。
体位は、卍崩しだった。
まず、横向きに寝た女の背後から、正座をした男が挿入するところから始めてーー。
本来なら、そこから女が自身の左足を持ち上げ、ひざから爪先で乳房を隠すように持ち上げ、右足はふたつに重ね合わせたまま【御開帳】状態を自力で保たなくてはならないのだが、その必要はなかった。
何故なら持ち上げられた左足首と童女の右手首は緊縛され、さらに右足の太ももと右足首もまた、緊縛されているからだ。
ついでに右ひざの上と真下も、左足首と右手首同様、全体が毛羽立った、鞣されてもいない細い荒縄で、幾重にも固定されている。
童女の顔が赤らんでいるのは、いわゆる縄酔いからではない。
まして、無理くり酒を呑まされたのでもない。
ーー少しばかり、奇怪な術者に頭を弄られたのだ。
正確には、脳を、だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ーー下谷竜泉寺町。
富裕層の大店の商人と、吉原の見世の寮(別荘)が軒を連ねる閑静な町であり、下は部屋持から、座敷持、本間と来て、上はお職の格上の遊女のみが、体調不良の際は特別にこの地の寮で休養を取る特権を与えられていた。
江戸時代における、上級国民とでもいうのだろうかーー?
寮は家屋の左右と裏庭を、厳重な目隠しのために竹を敷きつめる形式の建仁寺垣で覆い。
寮の入り口のみ、丸太を支柱にし、横に竹を何段か組み、その間に細い竹を立てて棕櫚縄でくくりつけた、清水垣で囲まれている。
ここ、十六畳の絵描きの間に連れて来られた童女達は、まず真っ先に身ぐるみを剥がされ、全裸にさせられる。
そして、両足を御開帳して股間を前に突き出し、片手の指で未熟な陰部を左右に開いての、強制的な自己紹介。
この童女は、
「な、名前は、お、おぉ、お君、かぞ、数えで、こ、ここ、ここの·····九·····つ、で·····す·····」
裸にされた時点で既に号泣し、一糸まとわぬ我と我が身を抱いて嗚咽をもらし、父母の名を呼ぶばかりで、一言も発せなくなる者がほとんどだが、そのように年相応の反応をした者には、脅しが与えられる。
ただ目の前に立って、鞘から抜いた白刃の切っ先を、喉元に髪の毛一本ほどの間を空けて突きつければよい。
しばしば恐怖のあまり失禁する者もいるが、そうした者はあらかじめ木桶に座らせておくため、十六畳もの広間を尿(ゆばり)で染み汚す問題はない。
まだ貝の口のように固く閉じた、恥毛の産毛すら芽吹いていない陰部。
破瓜の字は、瓜の字をふたつに縦に破って、八と八。
八と八を足して十六の歳が平均的な処女喪失の齢と言われているのに、今、
あらかじめ、剃刀で会陰に切れ目を入れておいたとはいえ、そのような施術はほとんど意味を成さないが、依頼主の手前、それらしくやって見せねば商いとして成り立たないのが、商人の弱みだ。
「おぅ源(げん)、自分どんだけ自慢のいぼ魔羅使うて、アマっ娘潰す気や。このようわからん江戸ん中で、貧乏人のアマっ娘探して上手いこと丸め込んで来んの、結構難儀なもんなんやで? ワシの苦労も知らんと!」
ーー舟盛りの鯛の活け造り。
その右隣りに、にんにく醤油をたっぷりかけた牛の肝臓の乗った大皿。
その手前に、
鱧の梅肉和え。
鰻巻き。
里芋の湯葉あんかけ。
以上の品を盛った、六角形の三つの小鉢を置き、手酌で猪口に冷酒をちびちび口にしながらあちこちに箸を伸ばしている奇矯な装いの若い男が、呆れたように呟いた。
歳のほどは、二十歳前後か。
五辨の葵の花模様に満たされた、肌が透けて見える濃藍色の絽(シースルーのような生地)の薄衣を素肌にまとい、その上から襟、袖口、裾が赤色で、生地は紅に春画柄という着物をずるりと着崩し。
帯は濃紅、葡萄色、真紅の縮緬帯を細腰に三重に重ね、腹の前で牡丹のように重ね合わせ、右を短く左を長く、三本の縮緬帯の先端を垂らした、さながら戦国時代の傾奇者のような身なりをした、実に端正な顔立ちの男だった。
長い黒髪を頭の上で団子状にまとめ上げ、両耳の脇から、胸元まで長い髪を垂らしており、遠目に見ると、女と見まごう容貌である。
だが、どこか下卑た感は否めない。
彼の名は梅弥(ばいや)。
ーー通称、ころがし梅弥。
そして彼が源と呼び、童女を犯し貫き殺した男の名は、是之源(ぜのげん)という。
「上方の言葉は通じひんし、せやかて江戸ん言葉はようしゃべられへんし【お人形(にんぎょ)さん捕まえて来んのに】えろぉ難儀しとるんやで、ワシゃあ」
梅弥が、にんにく醤油のたっぷりかかった牛の肝臓の刺し身を、一度に四枚まとめて箸にはさみ、口に放り込んだ。
むっしむっしと喰らいながら、梅弥は長年の相方を軽くねめつける。
(意地汚し、陸ーー《暴食》)
「はぁ? なぁに甘ったれたこと抜かしとんのや、それが自分の仕事やろがい、梅弥」
どこか気障りな印象が否めない、庇髪。
身の丈と体格は中肉中背だが、筋骨隆々とした裸体に、精を放ったばかりで既に萎え、通常の大きさに戻ったものの、その陰茎の長さは軽く一尺、竿まわりは二寸はあろう、人並み外れた大きさをしていた。
ーーそこへ、新谷が【花乞吹雪屋】の路地裏で、部数限定の童女姦の春画集を売っていたあの不可解な存在の少年が、大中ふたつの木桶を両手に持って現れた。
赤い縮れた髪に、岩井茶色の鮫小紋の絣の着物。
あちこち擦り切れた仙茶色の帯という、あの日の装いそのままで。
相変わらず、薄汚れた細切れの晒しで前髪を巻き込んで、両眼を視界がふさがらない範囲まで隠しているが、その意図はまったくわからない。
ただし、今はその粗末な着物に、白い前かけをしている。
「おぅ、太夫(だいふ)か。頼むでぇ、清拭」
字にすれば太夫ながら、【たゆう】ではなく【だいふ】と呼ばれた少年は無言でうなずき、袖を肩までまくって一枚目の布巾を大きい方の木桶の湯に浸し、わざと緩めに布巾を絞った。
精液と破瓜の血にまみれた極太の陰茎が、熱湯とぬるま湯の中間のほどよい温かさで、陰嚢全体から肛門、いわゆる蟻の門渡りまで丁寧に清拭されると、太夫は汚れた布巾を開いて大きい方の木桶の湯に戻した。
布巾に付いた精液と破瓜の血が、湯の熱で瞬く間に凝固する。
梅弥の言葉どおり、雁太の真下から付け根まで、竿全体に丸い大豆状の粒が、鬼の金棒の如く埋め込まれていた。
そして何故か、左右の角も禍々しい雄山羊の頭の刺青が、隙間なく施されていた。
太夫が続けて、小さい方の木桶に、もう一枚、新しく布巾を浸した。
ざらつき、荒れた左掌で、そっと。
「真珠はどえらい高価やさかいな、雄の山羊の角ぉちぃとばかりギッて、全部ワシが金鑢(やすり)使うて一粒一粒丸ぅ削って、埋めたんや。どないや太夫、自分もしてみぃひんか? 」
不敵な笑みを浮かべ、是之源は幅広の右足の裏で、太夫の左肩関節にがつん! と蹴りを入れた。
正座の体制が崩れかけ、反射的に左肩を押さえ、あのひどく発音の悪い声で呻いた。
その様を、是之源はひざ上までの白い股引きを履きながら、そっくり返り、天井に向かって呵呵大笑した。
(伍ーー《傲慢》)
(のぅ、さっきっからおはんが数えよるそれ、今いくつまで出とるんや? 全部でいくつなん?)
(まだ、三つ。せやけど、ここにおる者(もん)ら、全部揃うとりはる··········醜いんやない、美しゅうあれへん··········)
その光景を目にしている、何者かがどこかにふたりいる。
ーー精液と血液が染み込んだ一枚目の布巾を拾い上げ、すっかり冷めてしまった湯の汚れた木桶の湯で軽くすすいでからきつく絞ると、童女、お君と是之源の汗、是之源の唾液、精液と血にまみれた全身を、冷たい汚水で拭いた。
そして、是之源への仕上げの清拭に使った二枚目の布巾を絞り、お君の顔の上に乗せた。
その瞬間、太夫の右顔に横から足蹴りが喰らわされた。
「辛気臭い真似すんなや、ボケェ!」
ーー恐ろしく険しい顔で、お君の亡骸の真横に左半身を下に倒れた、太夫を見下げる是之源の仕業だった。
身の丈五尺七寸のすらりとした体躯。灰青の着流しを身にまとい、藤紫と白藤のしじら織の帯を貝の口に結んでいる最中だった。
先ほど太夫の肩を蹴ったときは裸足だったが、今は金の小鉤付きの白足袋を両足に履いている。
相変わらずの洒落者だ。
にまにましながら、梅弥が倒れた太夫の赤い縮れ毛の頭部をつかみ上げ、にんにく醤油と酒臭い息を吹きかけ、太夫が思わず顔を背けた、そのときだった。
「ーーおやめ!!」
ギヤマン製の丸い灰皿が、立て続けに是之源と梅弥の額と顔面をを、真正面から交互に激しく打ちつけた。
ーー薩摩切子風のきらびやかな飾りが彫られた、煙草盆代わりのギヤマンの灰皿はひびひとつ入らなかったが、代わりに是之源と梅弥の額はぱっくり割れ、鼻血が垂れた。
ふたりの顔面からギヤマンの灰皿が離れると、寸分の間も置かず、呻き声を漏らすふたりの口端から何かがこぼれ落ちた。
顔面が額と鼻から滴り落ちる血にまみれ、足元に血溜まりが出来ると、その上に、黄色がかった白い大粒の砂利に似た破片が浮いた。
ーーギヤマンの灰皿で殴られた勢いで、半分へし折られた、数本の歯の破片だった。
「大の男ふたりが、寄ってたかって十(とお)と少しの子どもを虐めるのが常なのかえ、上方の男衆は」
ギヤマンの灰皿で男ふたりの額を割り鼻骨を砕き、あげく数本の歯を半分へし折って血まみれにしたのは、まだ若く、中背の女だった。
歳のほどは嫁入り頃の十六、十七ほど。
決して太ってはいないが、丸顔でふっくらとした柔らかな輪郭に、二重まぶたの大きな双眸、小ぶりだがぽってりとして、匂い立つような色香を含んだ唇。
書の達人の筆のように、整えられた蛾眉。
本来なら愛らしいはずの顔立ちであるが、それ以上に冷酷かつ、過剰なまでにきつい、憎悪すら湛えた眼が。
こめかみ近くまで眉尻が吊り上がった蛾眉の下で、是之源と梅弥をねめつけていた。
「び、びぼざば·····」
「ぼ、ぼうじわげありあへん」
前者は梅弥、後者は是之源。
ふたりとも色男っぷりが台無しで、顔面血まみれで、彼らより年下の女に怯え切り、全身を震わせて土下座している。
ともに顔と歯がやられているため発音が不明瞭だが、訳すと、
「澪様」
「申し訳ありまへん」
ーーである。
澪、と呼ばれた女の背後には、壮年の男がひとり、彼女にかしずくように控え、廊下に正座していた。
ーーこの男こそが『花乞吹雪屋』の主《穢花米異垂流(えばな・よねいずる)》である。
本名ではない。
実の名は江花米治郎(えばな・よねじろう)だが、この字面での童女姦春画の秘密裏の販売を生業としている。
そもそもこの裏稼業を始めたのは彼だが、異名の名付けは澪だ。
そしてすべての采配は彼に全権が委ねられているものの、彼を顎で使い、売り上げは九対一の割合で澪の懐に収まる。
ーー憲法色の無地の木綿の着物に、檳椰子染色の角帯を歌留多結びにした、全体的に脂ぎった、でっぷりと太った壮年の男だ。
澪と穢花は親子ほど歳が離れているように見えるが、穢花が澪に向けている卑屈さは、異様だった。
常に手揉みをし、作り笑顔を向けていなければ、いつ何時(なんどき)澪の機嫌を損ねて、折檻を受けてしまうかわからないと、怯えているかのような。
穢花の首に、見えない首輪と頑丈な鎖が着けられ、手綱たる鎖は澪の手に握られている。
少しでも主に逆らえば、手綱でどこかの木の枝から首を吊るされ、縊死させられる。
あるいは、首輪の内側全体に仕込まれた毒針が、その首の内に刺さり、悶死する。
穢花の生殺与奪の権利は、澪の機嫌次第ーー。
それほどまでに強固な主従関係が成り立っているように見えた。
「舐安よ、今宵の画の童女は如何様であった?」
「いつもながら、最高の逸材、素材でごぜぇやした。澪様」
無惨極まりない童女姦の光景の一部始終を、無我夢中に描き続けていた絵師ーー雅号・淫水舐安(いんすい・なめやす)は、深々と、澪に向かって土下座して礼の言葉を述べた。
「やはり破瓜の血の紅と精の白濁が入り混じる色ほど、あっしにって美しい色は他にござんせん。この淫水を絵に使えぬのが、口惜しいことこの上なくーー」
「では早よぅに、その木桶の中の淫水を庭の花々にやらぬかえ!」
「へ、へぇっ!」
慌てて身を起こし、ふたたび土下座してから、絵師、舐安は大きい方の木桶を抱え、破瓜の血と精液が混じった汚水を。
目隠しに最適な建仁寺垣で囲って覆い隠した、裏庭に面した八枚並びの障子を開け放った先にあった、数は少ないが、すべてが艶やかに咲き誇る花々の根元に、出来るだけ均等に注いだ。
「おぅおぅコラ、そこのブタのおっさん! ワレェさっきっから何ぁにボケっとしてけつかんねん、早うワシらの怪我の手当てせんかいな!!」
「は、はいぃっ!」
完全な八つ当たりで、梅弥が穢花に怒声を浴びせた。
穢花は必死の形相かつ、半ば腰を抜かした四つん這いで、血まみれの顔を掌で押さえる梅弥と是之源の怪我の手当てをするべく、晒しに軟膏、綿、酒精綿を作るための焼酎の小瓶を入れた木箱を置いた棚に手を伸ばすべく、自身が作った縦長の台形の箱の上に長方形の足場を置いた、元より足元がガタついている、出来損ないの踏み台に両足を乗せた。
穢花が木箱を両掌に抱えたその瞬間、是之源が横から踏み台を蹴り飛ばした。
穢花は当然そこから転げ落ち、畳の上に全身を激しく打ちつけた。
全身を畳に激しく打ちつけ、穢花は呻くしかなかった。
「ボケコラァ! これやからブタは使えへんっちゅうんや。鈍臭ぁて年柄年中汗臭ぉて。早よせんかいな、こっちゃもぉ、べべにぎょうさん血ぃ付いとんのじゃ!」
「··········はぃ··········」
こちら、是之源もまた穢花に完全な八つ当たりの罵詈雑言を吐き、髷をつかんで、〆にひざ頭で腹に蹴りを入れた。
穢花は蚊の鳴くような声で、怯えながら返答した。
上方の中でも特に荒い言葉が普段使いのふたりに対し、一言返すのが精一杯のようだ。
その様を、澪はぞっとするような妖しいたたずまいで、終始無言で横目に見つめていた。
「太夫や」
「あ、ぁい」
「来やれ」
「···············」
太夫は素直に澪の命に応じ、彼女のもとににじり寄った。
それと同時に、澪の両掌が太夫の両頬を包み込んだ。
寸分の間も置かず澪は太夫の唇にくちづけし、舌先で太夫の口腔に甘酸っぱく、小さな塊をいくつか押し込んだ。
焼酎に大量の氷砂糖を溶かし、一年間暗所で寝かせた、色とりどりのすぐりの粒だった。
「··········」
「美味いかえ?」
うなずき、皮のついたままの果実を歯でぷちぷち噛みながら、太夫は澪の問いに答える。
口移しに与えられた、眼にも鮮やかな赤、透き通るような薄萌葱、乳白、漆黒の果実は甘酸っぱく、わずかな酒匂が鼻腔をかすめた。
澪のたおやかな右掌が、艶のない、太夫の縮れた赤毛の頭を撫でた。
新谷と初めて出会った際、彼が口にしていた洋梨『オーロラ』を与えたのも、実は澪であった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「せやけど、澪様は江戸のおなごながら、京女並みの着道楽でおますなぁ」
ようやく血が止まったばかりで、歯も折られたているというのに、平然と酒を呑む梅弥と是之源が酒でさらに饒舌になり。
なれなれしいほど、交互に澪を賞賛する。
「せやせや、この間の白紗地滝松竹梅文様【しろしゃじたきしょうちくばいもんよう】の竹屋町縫打掛(たけやまちぬいうちかけ)にーー」
梅弥の言葉を継ぎ、
「そん下に着はられとった、藍白に瑠璃色の大きな菖蒲(あやめ)の花と、千歳緑の葉がよう映えとりましたわ」
是之源が、くい、とグラスを傾けた。
「おべべだけやあれへん。あん時の鼈甲尽くしの前差し中差し後ろ差しの簪に笄、前櫛丸髷も、えろぉ似合とりましたでぇ」
「まぁ、何せ元がよろしゅうおます。べっぴんさんは何ぁに着はっても、どないな髪に結っても、着こなして見映えるちゅうこっちゃ」
一歩間違えれば、鼻につく物言いになりかねないが、そこは上方者らしく、微妙な加減を心得ている。
ふたりは揃って、頭と鼻に一枚の晒しを、前から見てくの字に巻いた姿で、何と細身のシャンパングラスを手にしている。
それは協息にもたれかかり、しどけなく斜め座りになっている澪の右手にも、柔らかく握られていた。
中身は、先ほど澪が口移しで与えた赤、薄萌葱、乳白、漆黒のすぐりを氷砂糖とともに焼酎で漬けた、果実酒であった。
澪は無言を貫き、冷徹にふたりの上方男がほんのり酔いながら、穢花が新しく持参した大皿に乗せた、氷砂糖と焼酎に漬かっていた、種を抜いた四色のすぐり。
八つ切りのゴルゴンゾーラの巣蜜がけを盛った、白磁のココット皿が三つ乗り。
殻を割ったピスタチオ、カシューナッツ、アーモンド、剥き胡桃。
きっちり一枚一寸ごとに切り分けられた、どす黒い三本の謎の塊。
その皿の上の品々は、品数は少ないもの、さながら西洋の皿鉢料理のごとく。
「ほんで、今宵のお召物(もん)と御髪(おぐし)と来はったらーー」 取り皿も新しい箸も手前に用意されているのに。
行儀悪く指でじかにつまみ上げ、迎え舌で巣蜜が滴り落ちるゴルゴンゾーラを口に収めながら、巣蜂蜜が付いてベタついた右掌を舐め、是之源が、
「前の御髪は吹前髪、後ろは玉結び。茶屋辻の色打掛や。菱川師宣はんの見返り美人まんまやおへんか。いやはや、ごっつう見目麗しゅう」
そこで、ふっ、と。
初めて澪が微かな笑みを浮かべた。
「口ばかり達者な、上方のがさつでやかましい男どもとばかり思うておったが、ただのバカではないようじゃの、ふ、ふ、ふ」
梅弥が上座の澪に向かって、右手の人差し指を立ててわざとらしく左右に振り、
「おぉっと、ワシら上方の者(もん)に向こうてバカはあきまへんで、バカは。そこはアホ言うてもらわんと、きつうてかなわしまへんわ」
「んまぁ、どっちにしたかて、あの神君家康公からお墨付きを頂戴しはった、公儀呉服師の豪商、茶屋四郎次郎様代々が扱こうとる御品やさかいな」
是之源が、わざわざ一枚一寸に切り分けられた赤黒い切り身を元のひとかたまり分、二回にわけて口に運んだ。
それは、血のブーダンノワール。
豚の血、脂、肉で作った、真っ黒な腸詰め(ウインナー)だ。
「まぁそない言うてもワシら、生まれも育ちも京やあらしまへんがな。着倒れより食い倒れの大阪者やさけ」
是之源がナッツ類を掌でわしづかみにして口に放り込み、ばりばりと噛み砕き、ブーダンノワール一本とともに、自身の飲み込む力のみで、嚥下した。
そのかたわらで、絵師・舐安は梅弥が残した牛の肝臓の刺し身のにんにく醤油がけの乗った大皿に口をつけ、箸を使いながらも、半ば吸うようにして口にかき込み、新鮮でなければ生で味わうことの出来ない、獣の肝臓と蒜類特有のきつい匂いのすり身という、血腥くもやや辛みを含んだ味を貪っている。
ーーそれは食事というより、飢えた獣が弱き草食獣の腹を裂き、顔を血まみれにして貪っている姿を思い起こさせた。
対称的に、太夫は正座して背中を丸め、こちらも梅弥の残りものの鱧の梅和え、鰻巻き、里芋の湯葉あんかけをちびちびと、しかし、この贅沢極まりない残り物を誰にも渡すまいとばかりに、舐安と太夫は、握り箸で他人が口をつけたものを食べているのではなく、喰らっている。
ーーまともな箸の持ち方すら知らない、そのような身の上なのだ。
(ーーのぅ、ようわかれへんけど、あれも《暴食》やおへんのか?)
(··········《暴食》なんぞと違ゃう··········あれは、ただ··········ただひたすらに、飢(かつ)えてはるだけや··········)
「牛の肝臓の刺身は美味かったかえ、舐安」
「恐悦至極に、存じますーー」
絵師・舐安は脇息にもたれかかり、気だるげにシャンパングラスを揺らした。
「大蒜を絡めた、血の滴るような牛の生の内臓を喰ろうたのじゃ。さぞ煩悩が燃え盛っておろう。言い忘れておったが、実は今宵はもう一仕事頼みたい。引き受けておくれでないかえ?」
「それはもう、是非にも。こちらからお頼み申したいほどでございます」
「あいわかった。では穢花、これへーー」
澪が声高に名を呼び、二回両掌を打ち鳴らすと、どこかへ姿を消していた穢花が、自身の肥満した肉体の重みが直にかかり、歩くことさえ難儀な身で。
ひとり息を切らし、汗だくになりながら、よたよたとした足取りで、長い轅の付いた軛にでっぷりとした腹を押し当てて牽いて来た、六種類の花々が咲き誇る、手入れの行き届いた裏庭の中央に運ばれて来たのは、なんとーー。
牛車、であった。
何故か、棟のちょうど真ん中に使い古された薄汚い鏡台が置かれている。
鏡台の高さは二尺強、縦横はともに一尺弱。
鏡は縦一尺弱、横八寸程度。
小縦七寸未満、横三寸越え。
だが、棟の中央に鏡台を置いたその意図は、まったくわからない。
(《怠惰》ーー五つ)
(ほぅ、この伏魔殿に朧車でも連れて来よったかいな、あの出っ腹の求肥みとぉなおっさま。それとも中におるんは、文車妖妃かいな)
「残念ながら香炉峰の雪とはならずが、御簾を掲げや、穢花」
ぜぇぜぇと荒く息を吐きながら、間違いなくやっとの思いで鷺足の付いた榻の上に軛を置き、穢花は御簾を掲げ、軒格子と眉が隠れるまで、棟の上に御簾をまくり上げた。
ーー中にいたのは、遙か昔、恋文に込められた情念、怨念が嫉妬に狂った女の具現化たる般若の形相の付喪神ではなく、まだ数えで齢十二の娘であった。
頭(こうべ)を垂れ、項垂れた娘は左前の白く薄い着物一枚に身を包み、腰と背中まで伸びた黒髪を垂らしている。
その身は死装束の上から、斬首刑に処される罪人と同じく、後ろ手に上半身を緊縛されていた。
違うのは顔に面紙(へらがみ)を付けず。
上半身を緊縛しているのは縄ではなく、隙間なく棘の生えた荊の枝であることだ。
「お咲耶(さや)!」
父が自分の名を叫んだ瞬間、お咲耶なる娘はすぐさま顔を上げたが、無言、無表情である。
娘は美しい。
艶黒の髪に、鳥の子色の肌、薄紅色のささやかな乳首、真朱色の小さな唇。
澪が凄艶な笑みをお咲耶に向けるが、彼女はただ無表情を貫いている。
指先がかすかに触れるだけで痛む棘が、白の死装束越しに喰い込んだ上半身から、血が滲み始めていた。
じわりじわりと。
ただひたすらに鈍く痛く。
舐安の顔が、真っ青になった。
「み、澪様、こ、これは」
「ふん。そもそもこの童女姦の『えすきいす』は、そなたがこの娘に着せた赤襦袢の両肩と太ももまで露わにし、その上から緊縛した薄墨の画を、乞食の様な身なりで【花乞吹雪屋】に売り込んで来たのが始まりであろう?」
自ら運んで来た、五段の階段状の踏み台を、向かって左側の車輪(くるまのわ)のすぐ側に、穢花が置いた。
恐る恐る両足を乗せ、穢花がお咲耶が中央に座る牛車の中に上がると、昔話の翁の如く、こちらもひどくつらそうに背中に担いで来た無数の薪で囲み。
おっかなびっくり足元を気遣いながら、踏み台を降りた。
ーーそれと同時に、梅弥と是之源が、奇声を発しながら十六畳の絵描きの間から、履き物も履かずに裏庭へ飛び出した。
その勢いのまま、梅弥は裏庭の花々の根元に隠していた油壺を持ち。
是之源は棘などものともせず、お咲耶の上半身を緊縛する、棘だらけの荊の枝を素手でむしり取ると、死装束まで剥ぎ取った。
父親まで含めた複数の男達の前で全裸にされ、薄い胸にかわらけの下腹が露わになっても、お咲耶は無表情を崩さない。
ーーその瞬間、是之源が両腕を真横に伸ばし、両足をわずかに広げた。
左右の袖口、着物の裾から突如として現れた鉄の鎖が、まるで意思を持った生き物のようにお咲耶の両ひじから両手首までを、隙間なく磔台の横柱の左右にくくりつける。
次にお咲耶の両ひざの真下から両足首まで、こちらも両足を磔台の中央の縦の柱にがんじがらめにし。
墨を何重にも塗り重ねては塗り重ねてを繰り返し、牛車の中に建付けられていた、闇夜に溶け込む不燃性の頑丈な黒金黐(くろがねもち)の太い角材で造られた十字の柱へ、磔にされた。
「ごっつうえぇ塩梅やで、ほな、梅弥。額に鍼ぃーー」
「要りません」
お咲耶は、きっぱり言い放った。
「あたしは身動きの取れないこの状態で、死に際まで苦しんで苦しんで、生身を焼かれる苦痛を感じながら死にたく思います。だから、要りません」
ーーそう。
梅弥の術は、特別製の鍼で脳を直に突くことにより、どれほどの苦痛もすべて快楽と悦楽に変えてしまうものだった。
どんな修練の賜物か、梅弥は特製の鍼で脳内の【側坐核】なる部位を突く。
そこは前頭前野、大脳辺縁系、大脳基底核と密接な神経連絡を取っており。
快感のホルモンドーパミンを放出する箇所だ。
それによって、施術された者は生きながらにして極楽浄土の夢見心地になれる。
年相応ではない破瓜の痛みを悦楽に変え、褥が真っ赤に染まるほどあふれ出す破瓜の血と。
腹が裂けるほどの童女の狭過ぎる膣への、是之源の巨根の挿入と抽挿に耐えられるどころではなく、大人の女並みに喘ぎ、下半身を破壊されながら絶頂の中で逝けるのは、それ故だ。
「ええのんか? もう時間あれへんで」
「はい」
ヒュゥッ、と梅弥は感嘆の口笛を吹いた。
ふたりのやり取りをすぐ側で聞いていた是之源もまた、大きく息を吐き、心底から感嘆した。
「ほな行くで、お嬢ちゃん」
梅弥の声にお咲耶がうなずいたそのときにはもう、是之源は片手に松明を持ち、牛車の中の薪には、梅弥がくまなく壺から注いだ油が染み込んだ。
「い、いおだば、おど、べ、ぐだだ、い!」
澪様、お止めください、と。
太夫が澪の打掛の裾にすがりつき、懇願していた。
しかし、澪は動かない。答えない。
まだ壺に残っていた油が、梅弥の手によってお咲耶の頭から浴びせられ、全身が油に濡れると同時に、是之源の持つ松明が、お咲耶の左肩に触れた。
その瞬間、梅弥と是之源が牛車の中から弾かれるように飛びずさり、それと同時に、
轟! と爆風が噴き上がり、牛車が一気に炎上した。
誰もが耳をふさぎたくなるような断末魔の悲鳴が、辺りに響き渡る寸前、お咲耶が口を開け、思い切り火中の空気を吸い込んだ。
あらかじめ口腔内に仕込んでいた、魚臭の強い、行燈用の油を含んだ綿に火が燃え移り、それがお咲耶の声帯を焼き、食道を滑って胃の腑の中に落ちた。
ーー連獅子の如く激しく頭と髪を振り乱しながら、お咲耶は悶絶した。
頭部以外、瞬時に全身にまとわりついた火炙りの苦痛を逃す部位がないのだ。
その瞬間ーー。
既に火が燃え移っている牛車の棟中央に置かれたあの鏡台が、ばりん! と砕け散り。
あたりに細かな破片が降り注いだ。
有り得べからざることだが、鏡を内側から割って飛び出した者があった。
その破片で、大柄な浪人の姿をした彼の者の顔に無数の切り傷を。
そして剥き出しになった両腕に防御創がついた、六尺越えの浪人が、牛車の眉の上に左足をかけ。
ざりざりと音を立てて、鞘から錆で抜きづらいことこの上ない、あちこち刃こぼれした刀を、常人より長い左右の犬歯を剥き出しにして。
渾身の力で抜き取る。
「『父と子と、精霊の名において』ーー」
( あ、あの御浪人はん、な、何しはる気ぃやの!? あ、危のおますて、指、指ぃ!……誰!? 誰やいな!?)
なまくらそのものの錆刀。
太く骨ばったその右手に、黒い革製の手袋が嵌められた。
その甲には、白い五芒星。
黒革の手袋に護られた人差し指と中指が錆刀を挟み、鯉口から切先まで一気に撫で上げると、錆だらけの刀は、まっさらな、白銀に光輝く刀身に変じた。
(嘘やて、こないなーー)
(はぁあ? どないなっとんねんな、あの刀ぁ!? )
「天誅殺師・上野喰代サの肆番が組子、参『錆刀』ーー『いきすだま』が主(ぬし)に、介錯仕る」
新谷が棟から飛び降り、着地すると同時に。
黒髪ではなく燃え盛る炎を頭から生やしたような惨状になったお咲耶の首が、牛車の前板から左右の轅、軛の間に突如として現れた、土壇場とまったく同じ寸法の四角い穴に油がなみなみと湛えられーー。
その上に、裏庭に咲く六種類の花々が油とともに大量に浮かんだ、美しくもおぞましい穴に落下した。
ーー炎を包んだ牛車の中で、お咲耶の首の断面から、血飛沫がぶしゃあぁぁぁぁと四方八方に噴き上がる。
ーー炎に包まれた長い黒髪が、とうに熱せられていた油で燃え上がる。
あたりにきつく漂う、生きた人の肉が焼けて溶け崩れる異臭。
だというのに、両眼が見開かれたお咲耶の顔は、肌どころか髪も眉も、長いまつ毛も火を宿しながら、燃えて溶け崩れることはない。
お咲耶の首全体が火種となって、可憐な美しいばかりの花々が浮かぶ土壇場がさらに燃え上がり、焔に包まれた艶やかな花々が原型を留めたまま、夜空へ浮かんで行く。
それは、幻想的でありながらあまりにも無惨で。
そして、とてつもなくもなく妖美な光景であった。
(『花焔生首地獄之業火(かえんしょうしゅじごくのごうか)』が術ーー成ったり!)
新谷の耳元でのみ、滅黯の声が聞こえた。
ーー牛車の棟から土壇場もどきの前に飛び降りた背の高い人影が、その場に居合わせたすべての者の眼に、牛車が燃える炎を逆光として映った。
故に、彼らにその顔は見えていない。
降り下ろしたままの刀の柄を両腕で握り締め、右足の爪先とひざを、位置は違えど、完全に平行にして、同じ位置に揃え。
左足を後方に伸ばし、足の裏は完全に地面に張りついている。
ーー切先からから鯉口まで、延々と滴り落ちる血。
それはお咲耶を斬首した人物であり。
言うまでもなく、新谷だった。 普段は着流しの襟の奥にひた隠しにしている血赤珊瑚のロザリオをあらわにして、その場から身じろぎもせずにいるーー。
(お、おい。あの御浪人はんが首から下げとるのんーー)
(わかっとるえ、そんくらいーー落ち着きぃな。あてらの商いに不測の事態が起こるなんぞ、当たり前のこっちゃろ)
「お、だ、や、ざばあぁぁぁぁぁ!!」
火の池と化した土壇場に駆け寄ろうとする太夫の足を、澪が伸ばした爪先で蹴つまづかせた。
「太夫、貴様、貴様ぁ……お咲耶如き下賎の輩に懸想しておったのか!? そうなのかえ!? 真のことを申しやれ!」
言いながら、澪は倒れ伏した太夫をキッとねめつけた。
そうして幾度も太夫の両掌を、背中を踏みつけ、決して起き上がれないようにする。
あまりの惨めさに、悔し涙を滲ませた太夫が、左手の甲を踏まれる寸前、染みひとつない白足袋に包まれた澪の右足の真ん中ーー土踏まずから足の甲をきつく握り、そのまま上に高く持ち上げた。
予想だにしない反撃に、無様に尻餅を突く形で畳の上に仰向けに転倒させられた澪は、呻きながら必死にうつ伏せの恰好になり。
すぐさま両掌をついて、立ち上がった。
そしてすぐさま、左腕のひじから先を畳の上に押しつけ、広げた右掌を畳の上に置いて胸元まで身を起こしかけていた太夫の赤い縮れ毛の頭頂を右掌でわしづかみにし、引きずり上げた。
爪は綺麗に丸く短く切り揃えられ、柳葉のようにしなやかな五指を備えた左掌が、繰り返し太夫の両頬を張り、打ち据える。
「描きや、描きや、描くのぞよ、舐安ぅ! そなたの娘ぇのぉ、赤襦袢など目ではない、全裸のぉ!首から血が噴き上がる様ぁぁをおぉうっふぅぅっ!」
左右の口端から大量の泡立った唾液を垂らし、狂乱しつつ太夫の首を両掌で締め上げながら、澪は舐安に命じた。
舐安は硬直した手で、
『ぺんする』を手に取り。
『画用紙』に。
『えすきいす』を描いた。
既に、舐安は発狂していた。
しかし、彼の絵師としての本能が、自ずと己の手を動かす。
微表情を浮かべた舐安の両眼からは大粒の涙が。
鼻からは大量の鼻水が。
口からは、残りを数えた方が早いほど、あちこち欠けたボロい歯で、噛み切れるはずもない舌を噛み、無意識に娘の後を追おうとして、わずかばかりの血が口元から垂れている。
「ふはっ、尿(ゆばり)を漏らしたかえ、淫水舐安。いや、乞胸仁太夫が膝元の、貧乏人の売れぬ絵師ーー袖吉」
びくっ、と穢花の両肩が跳ね上がり、梅弥と是之源が目敏くそれを見咎めた。
「掃き溜めに鶴とは、正にあのことであったぞ、袖吉。袖とつく名の娘が故に、お振。貧すれば鈍ずる者ばかりではないと、感心したわえ。あのとき『袖振り合うも他生の縁』の父娘にございますーーと申したのぅ、そなたは」
ふたりのやり取りを、梅弥と是之源はにまにましながら見物していたが、
「しかし失禁のみで狂い果てるとは、あまりに心弱い。裸をさらし、生きながら火に焼かれた娘に対し、父として男として、あまりに情けないとは思わぬかえ? 我が大恩ある養父は糞まで漏らしたと言うにーー」
養父とは、誰のことなのか。
その場に居合わせた者らが誰しも疑問に思った途端、澪の口からすぐさま答えが出た。
「故に私が、恩返しとして名付けたのよーー穢花米異垂流。と」
それが澪の従者の穢花であると知らされた瞬間、皆が衝撃を受けた。
「米が異って糞。垂れ流し。故に穢花は菊門の意よ!」
ふぁははは! と、澪は後頭部が腰に着きそうなほどにそっくり返り、天井に向かって、気違いじみたけたたましい笑い声を上げた。
(「『憤怒』『嫉妬』ーー揃うた、揃うたぇ!」)
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