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死ノ肆事⑵・第弐章《少女犯現世地獄之絵(おさなにょぼんうつしよじごくのえ)》

七之罰「新谷淫獄変」ー外道達の狂宴ー

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「九州男児で直情的、その上敬虔極まりねぇキリシタンのあんた様のこって、間違げぇなく心身ともにご気分を悪くなされるのは重々承知の上でござんすがーー」
 言いながら、滅黯は仏壇の奥の隠し二重扉の中から取り出した箱を、正座した両ひざの前に置きながら、新谷に向かって忠告した。
 しかし新谷は立てひざをつき、昇り竜柄の着流しの裾を広げ、あちこち擦り切れた六尺褌の前をあらわにして。
 既に自身が買わされた春画、あぶな絵を、元より鋭い目つきの両眼の眦(まなじり)を吊り上げ、人より長く鋭い両の犬歯の左側を剥き出しにして、立て続けに中身を睥睨しては、仏間のそこら中に投げ捨てていた。
 投げ捨てられるその春画にしてあぶな絵の数々は、本来大人の男女の交合と、誇張された成人した男の巨根、そしてその巨根を受け入れるに充分に成熟した、剥き出しの女陰と、その持ち主たる大人の女ではなかった。
「おなごちゅうても、こげん、こげんちーちょんか……ちーちょん……!!」
 しかし、新谷はまったく気づいていなかった。
  例えるなら男の誇張された男根が大根なら、それを根元近くまで挿入されている幼女の未成熟過ぎる陰部は、蜆か鯏(あさり)ほどの小ささ。
 大人の男の、勃起して膨張した男根など到底受け入れられるはずもない、幼女達の固く閉ざされた女陰は、皆が皆へその下まで大きく裂けーー。
 あまりにも時期尚早過ぎる破瓜の鮮血を、一枚の紙一面の大半を紅に塗り潰されながら、幼女らは誰ひとりとして、本来なら絶命していてもおかしくないほどの激痛に泣き叫ぶ表情をしていない。
 それどころかーー。
 壱に。
 左右の黒眼が、辛うじて上まぶたのまつ毛の生え際すれすれで留まり、白眼を剥く寸前まで瞳が迫り上がり、緩み切った小さな口のあちこちから、大量のよだれを垂れ流している者。
  弍に。
 完全に白痴のような表情で、男根の強制挿入による重度の裂傷をその下腹に負った、へその真下までの無残な血まみれの裂け目を、左右の小さな両掌を手首まで押し込み、自ら内臓をさらけ出している者。
 参に。
 いずれにも共通しているのは、その身に与えられている凄絶なはずの苦痛を微塵も感じず、幼い顔にはあまりにも相応しくない、恍惚として官能的な表情を浮かべていることだ。
 中には平らな乳首をふたりの男達に左右から舌先で舐め上げられている者。
 さらには、ひとりの男の上にまたがって、結合部分から破瓜の血を流しながら、左手で仁王立ちで腰を前に突き出した男の陰茎を、左右の口角が裂けそうになりながら口いっぱいに頬ばり、根元まで口に咥えながら、右手で同じように立って腰を突き出した陰茎を握り、前後にしごいている姿絵さえあった。
「新谷さん、これをご覧くだせぇやし」
 ーー滅黯が極めて冷静に差し出したのは、新谷が花乞吹雪屋の路地裏で、洋梨にむしゃぶりついていた、蓬髪に、両眼を視界ぎりぎりまでぼろ布で覆い隠した、あの奇妙極まりない少年に手渡した荷札に書かれていた意味不明な文字の羅列を、そっくりそのまま書き写した二枚の半紙だった。
「おう。こいば、おいがあん小僧に渡した荷札に書いとったーーずっと気になっとっとけんが、何ね、黯? こげん字ば」
 それは、
【四苦八苦掛ケ足シ 和数也ーー】
 盲目の滅黯の右手人差し指が、一枚目の半紙に縦に記された筆の墨をすぅ、となぞる。
「四苦は四掛ける九ーー参拾陸。八苦は八掛ける九で七拾弐」
「何ね、掛け算ばこつか!」
「続きの『足シ 和数也』は、参拾陸と七拾弐を足した数、てぇ意味になりやす」
 新谷は我知らず、いつも『於多福屋』で使用している、恐ろしく年季の入った、お福の亡夫とおふくの手脂が染み込んだ、黒檀の枠にひご竹の芯竹の分厚い算盤を思い浮かべ、梁の上の樺の五玉を、左側からすーっとなぞり上げる仕草をした。
「参拾陸足す七拾弐ば……百八やけんな」
 そして新谷は両眼を閉じて脳裏に浮かぶ珠を、右手の人差し指と親指の先で上下させ、和数を弾き出した。
「へへっ、さすがは『於多福屋』の番台だけありゃあすな、新谷さん。御明答でやす」
 この程度の計算など、新谷には朝飯前以前のことなのだが、どうにも解せぬ箇所があった。
「はん、そげんわざとらしかお世辞ばよか。そいよか早う意味ば教えんね、黯」
 ふふっ、と。
 常に青海波の手拭いで両眼を隠しているが故に、表情から感情の読み取りづらい滅黯の左右の口角がわずかに上がった。
「これが見事ーーいんや、実に悪辣な『暗号』なんでごぜぇやすよーー」
 新谷は、顔をしかめて滅黯の言葉を繰り返した。
「……悪辣……暗号……?」
 そして、滅黯は解説を始めた。
「おぉっと、いけねぇいけねぇ。あっしとしたことが、肝心なことを忘れとりやした。」
 滅黯が、二枚目の半紙を新谷に差し出した。
  二枚のうち、一枚目には0から9のアラビア数字。
 そして、二枚目には、あの荷札に記された字を書き写した、もう一枚の半紙。
 ともに、筆に墨で縦に書かれていた。
「新谷さん、長崎の出のあんた様ならこの落書きみてぇな字ィ、お読みになれやすでしょう?」
「あぁ……こいば、アラビヤ数字やなかね。久しぶりに見たばい。ばってん、そいがどぎゃんしたと?」
「その百八を、アラビヤ数字に置き換えておくんなせぇ」
 新谷が、頭の中に108の字を思い浮かべる。
 すると、滅黯は新谷の心を読み取ったかのように口にした。
「108は10と8。つまり、この続き物のあぶな絵の綴りに描かれてる娘っ子は、本来なら八つから拾の歳の娘っ子らのようでやすが、どうやらこれは続き物とはちぃと趣向を別にした綴り物のようでござんすよ。ほれ、このーー」
 滅黯が指差したのは、
【瓜タテ割リノ】
【ヨワイ陸伽羅什】
  の、二枚目の半紙に書かれた二行だった。
「ーーはぁ、おいば、まだいっちょんもわからんばい。早よ説明せんね、黯」
「『瓜タテ割リ』は、瓜てぇ字を縦半分にしやすと『八』がふたつになるでやんしょ? ーー『破瓜』の語源は、ここから来とるんでさぁ。八と八を足しゃ、拾陸。まぁ早えぇ話が、おなごがおぼこでなくなることがいちばん多い年頃が拾陸歳、ってぇなわけで」
「あ、黯。そ、そげんば……」
 新谷の両頬が、微妙に赤らんでいた。
 見た目によらずこの手の話には恥じらう新谷を微笑ましく思いながら、滅黯は続けた。
「【ヨワイは陸伽羅什】ーーヨワイは齢。禄伽羅峠は『ろくからとおげ』ってぇ意味でやさぁ」
「『ろくからとおげ』? そんげん峠が、どこぞにあるって意味とね?」
「いやいや、そんなわきゃありやせんよ、新谷さん。『ろくからとおげ』はーー陸から拾の下ーーつまり、陸から拾より下の娘っ子らってぇ意味でござんすよ」
「な……」
 新谷は、絶句した。
「拾陸になって、ようやっと男の硬く太くなった、おっ勃た珍棒を何とか受け入れられるようになってもねぇ、そんでも破瓜の血を流さねぇとならねぇほど、キツい細道なんでござんすよ、未通女(おぼこ)の観音様ってぇのは。それをたかだが陸、から拾にも満たねぇとこに、大人の男のもんを突っ込むんでさぁ」
「……」
「あんた様は、世間の裏も表も嫌ってぇほどおわかりになっとる御方ン上に、学もありまさぁ。これがどういうことか、おわかりになりやすよね?」
「………」
「何でもお師匠さんのおっせぇすにゃ、こんなけったくそ悪りィもんが今、金持ちの外国(とっくに)の好事家の間で流行ってやがんですと。それも売れねぇ絵師どもが、てめぇの娘ーー」
「もうよか、黯!」
 新谷が、我と我が身を抱き締めていた。その全身が、小刻みに震えている。
 だがそれは、いたいけな齢一桁の少女達が大の大人の男達に凌辱されることへの怒りにわなないているのでもなければ、男の身では決して体感も経験することない、破瓜の激痛という、未知の恐怖に震えているのでもない。
  ーーふしゅう、ふしゅうと、左右の奥歯を噛み締めた新谷の口から、獣じみた吐息が漏れている。
 歪んだ笑みの形に変じた唇の両端からは、新谷の特徴である通常より長く尖った犬歯がはみ出している。
 (ーーまずい!)
  滅黯は、新谷の背中から立ち昇る、黒煙を見た。
 そして、新谷の脳裏に浮かび上がる無惨な光景の数々が、怒涛のごとく自身の脳内に怒涛のごとく押し寄せて来た。
 大人の男達に犯される無数の少女達の絵姿を目にしたのを機に、長崎在住の少年時代ーー義憤の念から、自ら信仰の同士達の最後の姿をその目に焼きつけるべく、幾度となく目にした、火炙りの刑に処されたキリシタン達が生きながら刑場の露と消える姿。
 さらに、背中一面に彫られた聖母マリア像に込められた彫り師の念とが複雑に絡み合い、新谷の心的外傷を抉り、それが彼の心と記憶の奥底に押し込められていた怨念が火種となり、その背中を見えない怨火で燃やしている。
 予想だにしなかった展開に、滅黯のすべての動きが止まった。
 ーー怒りの感情は背中に溜まる。
 獣同士がケンカをする際、背中の毛が逆立つのはそういう理屈だ。
 しかし、浄眩の一番弟子の肩書きは、伊達ではなかった。
「申し訳ありゃぁせん、あっしにゃこれしか思いつきやせんでーー何とぞ許しておくんなせぇよ、新谷さん!」
 滅黯が甚平の懐に右手を差し込むと、その五指のうち、人差し指と中指、中指と薬指の第一関節の間に四本、薬指の第二関節と小指の第一関節の間に、二本の鍼が挟まれていた。
 まだすらりとした滅黯の細い左掌が、常人よりやや大きめに突き出た尺骨頭が目立つ、自身のそれより全体的に幅広く、節くれ立って骨ばった掌を先端に備えた右手首をつかむや否や、滅黯の鍼が新谷の十枚の爪の内側にピッ、ピッ、ピッ、と打ち込まれた。
 ーー本来なら、拷問の域の激痛である。
 だが新谷は悲鳴ひとつ上げず、瞬速で十枚の爪の内側に鍼の刺さった新谷の大柄な体躯が、うつぶせに倒れ伏した。
 だらりと伸びた十指の爪の間から、煙管の煙のような白煙が昇り、仏間を満たすことなく、ほぼ畳と天井の間でかき消えた。
「新谷さん? 新谷さん?」
 滅黯は知らぬうちに額ににじんだ汗を、無意識に拳を握った右の甲で拭いながら、新谷に恐る恐る声をかけ、様子をうかがった。
 とりあえず自身の無事はいちおう確保出来たようだが、まだ安心は出来ない。
 新谷が自我を取り戻して、確実に正気に戻るまでは。
 (身動きひとつしてねぇものの、まだ気が抜けねぇや。念の為、先に首を仕上げておきやすかいーー)
 滅黯は左掌を甚平の上からみぞおちに当て、深く長く、二回深呼吸をした。
 右手の人差し指と中指を揃え、素早く新谷の十指の爪の中から同じ数の鍼を抜いた。
  鍼をふたたび懐にまとめて戻し、それと同時に新谷の背中の両脇に両ひざと両足のつま先を立てる恰好で、新谷の背にまたがった。
 左手の親指と人差し指だけで新谷の首のつけ根を押さえつける。
 左の二の腕にボロ切れで括りつけて仕込んでいた、長さ五寸、太さ一分強の長鍼を、新谷のぼんのくぼに狙い澄ました。
 音もなく、長鍼が滅黯の持ち手まで喰い込んだ。それが、素早く引き抜かれた。
 本来なら、一撃必殺の急所である。
 ーーだが、寸分の間を置いて、それまでぴくりとも動かなかった新谷の体が、仏間の畳の上に伏せられた両掌の右手の指先が、わずかに動いた。
「……………ぅ…………ん、ぁ…………」
「新谷さん、新谷さん!?」
 唸るように低い呻き声を上げ、左掌で首の裏を押さえながら、新谷は六尺越えの大柄な体躯をぐらぐら揺らしながら、身を起こした。
「……黯……お、おいば、わいに何の恨みば、あ、あって……こ、殺す気……やったとか!?」
「申し訳ございやせん!!」
 滅黯は、反射的にがばっとその場に土下座した。
「はぁ~、何ね、首の裏ばやっちゃどろいかばい……重たかもん、やっちゃかろうた後んごたる……」
 先ほどとくらべれば線香の煙のように細くなっているが、新谷は自身の十指の爪の間から、微かな白煙がゆうらりゆうらりとているのに気づき、その様に視線を奪われた。
「『かんの虫』封じの鍼を打ったんでさぁ。あんまし突然のことでやしたんで、とっさにそれしか対処法が浮かびやせんでーー」
「はぁ?『かんの虫』とね!? 何ゆーとっとか、黯。わいばもう二十歳(はたち)ばとうに過ぎとっと。そんげん、いがば夜泣きが止まんとっときや、癇癪ば起こして、とごよるときんことやろ!?」
「新谷さん、あっしゃねぇ。嘘と坊主の頭はどうしたって言(ゆ)わねぇって、神様仏様に誓っておりやすんでさ」
「ーーはぁ。『嘘ば言わん』とかけて、そん心ば何ね」
「ほれ、嘘吐く奴ぁ死んだら地獄に堕ちて、閻魔様にやっとこで舌ぁ抜かれるって、数えで四つの歳にお師匠さんに下谷坂本善養寺に連れてかれてそんな話ぃ聞かされて、それがまぁ、おっかなかったのなんのってねぇ、もう」
  滅黯は幼い頃の恐ろしい思い出を、どこか他人事のようにつらつらと語った。
「そんな次第で、自慢じゃありゃあせんが、ガキの頃からその誓いを破ったこたぁいっぺんもねぇんで、へぇ」
「……の、のう、黯。おいば、おいばどぎゃんしよったとか?」 
「獣じみた気狂いのようになってござんした」
「ーー!?」
 無表情ーーではない、冷徹という言葉そのものの表情で、一言、きっぱりと告げた。
「ねぇ新谷さん、不躾とは存じやすが、ちぃとばかし、お背中、晒していただけやせんか」
 唐突な申し出に、新谷は率直に応じた。
 引き締まって、無駄な脂肪も贅肉も、微塵も付いていないのに、広く大きく逞しい、日の下(もと)での長年の労働の果てにうっすら浅黒く染まった背の肌の色とは対称的にーー。
 可憐ながらもしなやかな芯の強さを湛えた、白百合と我が子を両腕に抱く聖母マリアの刺青が、彫り込まれていた。
「ちょいと、失礼しやすぜ」
  言いながら、滅黯は新谷の左腕の手首とひじの間を軽くつかみ、無防備に開いていた左掌をその背中に押しつけた。
「あぁ熱ぁっつかあぁっ!!!」
 それまで気だるげにあぐらをかいていた新谷が、右掌で左手首を握り締め、仏壇置き場を除く仏間の六畳の上を転げまわり、のたうちまわった。
ーーまるで焼け石を掌に押しつけられ、その高熱で焼けただれた皮膚が溶けて癒着し、離れなくなってしまったかのような右掌の熱痛がようやく引いたとき。
 新谷は、全身を頭髪から両足の指の間まで汗にまみれさせながら、四つん這いになって、激しく荒い息を吐くことしか出来なかった。
「新谷さん、おめぇさん今までは、あっしら天誅殺師『上野喰代サの肆番』ーーの壱・弐・参の中じゃ、弐の姐さんと同じ、てめぇの腕力を駆使する、常人側だったのが、どうやらーー」
「黯、おいば、おいば……ーー!?」 ―――――――――――――――――――
(「『でぇじょうぶでやすよ。あんた様ぁ、人一倍ーーいんや、何倍(なんべぇ)も心のお強えぇ御方ですぜ』」)
 滅黯にはそう言われたが、新谷は言い様のない不安を抱えざるを得なかった。
 自分の預かり知らぬところで、自分の知らない自分が目を覚ましかけている。
 それも、文字通り恐ろしく『凶暴』ーーいや違う、『狂暴』な自分が。
(『そうでやすからこそ、それを前提にして、お気を悪くなさらねぇで聞いてくだせぇやし。ありゃ、間違げぇなく……』)
「うぅぅ~~」
 新谷は頭を抱え、六尺越えの大柄な体躯をさらに縮こませた。
 気持ちが落ち着くように、と、胃の腑に優しいものを作ってくれている。
  ーーその間、否応なしに思い出し、思い知らされた。
 父は早世し、貧乏長屋でつましく暮らしていた母と弟は理不尽に、切支丹改メの役人衆に刺殺され。
 妹は逆さ磔の果ての溺死にして悶死という、殉教という名に美化された無惨な死を遂げたあの日から、自分は死んだものと思って生きて行くはずだった。 
 故に、キリシタンの身なれど、これから死ぬまで一生人殺しを生業とすることも厭わず、浄眩に連れられて江戸に来た。
 家族は誰ひとりいなくなり、それ以前に、死んだ父の墓さえ建てられなかった故郷に、何の未練もなかった。
 そのはずが、何の運命の皮肉か出会ってしまった、決して失いも、喪いたくもない存在に。
 ーーそれは今でも昨日、どころか今さっきのように鮮明に思い出せる。
 江戸へ来て浄眩にいちばん初めに連れて来られたのは、彼が『暁に祈る巫女』とともに住まう、かの根岸の寮だった。
 新谷は客間に通されると同時に二本差しを腰から外し、あぐらをかいて漆喰の壁に寄りかかり、左脇に二本差しを立てかけた。
 そのまましかめっ面を隠すように、腕組みして下を向くと同時に、あらかじめ壁と垂直に置かれていた座布団に、腰を下ろす。
 すぐに浄眩が客用の湯呑みと急須を運んで来て、彼自ら熱い茶を注ぐと、何も言わずに客間を出て行ったきり、戻って来る様子はない。
 その間に、熱い茶はすっかり冷めてしまった。
 それと入れ替わるように、スパーーン! と派手な音を立てて、襖が開いた。
 それが、両手どころか片手でもなく、五指の爪がすべて紅花の爪紅で塗られ、真っ赤に染まった右足の裏で開けられたことなど、今の新谷には知る由もない。
(『ーーあン? おめェかよ、旦那がわざわざ長崎から連れて来たって新入りァ? いーやデケェなァ。あたしァリャンコは大(でェ)っ嫌いだけど、何ンかおめェはえらくまともそうだから、認めたらァ』)
 初対面にも関わらず挨拶も名乗りもなしに、とてつもなく上から目線言い様で、女はケタケタ笑った。
(『なァなァ、お近づきの印に一発やらしてやろッかァ? 金ァいらねェよ。あんた見るからにイイ体してそうだしさァ。そ・れ・にーー』)
(『~~~!!!』)
 何と下卑た女か。と、新谷は神経を逆撫でされる思いだった。
 雨漏り、隙間風、建て付けの悪過ぎる、出入りするたびにいちいち手間のかかる腰障子。
 天井裏、夜の天井裏と台所を我が物顔で走りまわる大小の二十日鼠の群れと同居しているのも同然で。
 ひとつまみの野菜クズすら出ない、貧相極まりない食卓に反して、気づけばそこにいる、茶色の御器齧(ごきかぶり=ゴキブリ)。
 梅雨時になれば、土間、台所の流しと、ところかまわずぬらりと壁にへばりついている、気味の悪いなめくじ。
 貴重な塩で退治するわけには行かず、代わりに竈の中の灰をかけて萎びたそのなめくじを、箒で外に掃き出す。
 そんな、生まれながらの最底辺の貧乏長屋育ち。
 さらに外様の元足軽にして、若い頃の怪我が元でいざりの身になったが故に、傘貼りの内職しか出来なくなった父に、これまた武家としては最下級の身分なれど「襤褸は着てても心は錦」の精神で、剣術以外の武士としての必要最低限の知識ーー儒学、挨拶に箸の上げ下ろしからの礼儀作法、読み書き算盤を習い。
 そして内密に、隠れキリシタンとして旧訳、新訳ともに聖書の教え。
 神学、賛美歌並びに、密かにオランダ人宣教師から直々に教えを乞うたという、プロテスタントの浸礼、カトリックの滴礼と。
 両派の洗礼の授け方まで学んだのだ。
  ちなみに新谷の一家はプロテスタントであるが、その父は、息子にわざわざカトリックの『堅信の秘蹟』の手順まで伝授したのだ。
 ーー三つ子の魂百まで。
 十にも満たない歳までだが、それほど生真面目かつ、敬虔なキリシタンたる父に育てられた新谷にとって、聞くに耐え難い口ぶりだった。
(『しぇからしか!』)
 怒鳴り声とともに、思わず顔を上げたその瞬間、新谷は硬直した。
 ーーところどころ金の束や細い筋が混ざった、茶色の髪。
 ーー瑠璃に紺碧がかった瞳の色。
 長崎に生まれ育った新谷には、その女ーー戀夏が外国(とっくに)の者の血を引いていることは、一目瞭然だった。
 そして、すぐさまその奇抜な風体に目を奪われた。
 髷を結わず櫛巻き髪にすらせず、向かって左上に高く縛り上げ、縮緬の切れ端で飾り。
 前のめりになって新谷に向かって上半身を突き出し、左右の腰に両手首の外側を当てて、不敵とも無邪気とも言えるような、満面の笑みを浮かべた、細面の鮮烈な美貌をまっすぐに新谷に向けてーー。
「ーーあたし、戀夏ってンだーー」
―――――――――――――――――――
「新谷さん」
 滅黯の呼びかけに、新谷ははっと我に返った。
「黯……」
「巫女様からの天誅殺の文が、届きやす」
 いつの間にか、新谷はふたつ折りにした薄く柔らかい座布団を枕代わりに、仏間で横になって微睡んでいたらしい。
 枕元には程良く崩した絹豆腐と、似て柔らかくなった数個の手毬麩を卵とじにし、あご出汁をたっぷり吸った葛の餡をかけた煮物が盛られた中くらいの丼に、木の匙が添えられ。
 小さな盆に乗せてあった。
 ーー酒を飲んだせいか、無性に空いていた腹に気づいた新谷は、それをかき込むように腹に収めた。
 箸の代わりに木匙を置き、腹に右掌を当ててふぅと息をつくと、腹休めの間もなく、滅黯がいつの間にか右手の人差し指と親指の先で狐の面を手にし、右顔の半分を覆っていた。
(「こいば……!?……」)
 ーーいつの間に、しつらえていたのだろう?
 自分の背後と滅黯の背後には、それぞれ縦二尺、横五寸の、黒檀の枠に縁取られた化粧台もない一面鏡が、後ろにそれを支えるものすらないにも関わらず、まっすぐに建て置かれていた。
 新谷からは滅黯の後ろ姿が、滅黯からは新谷の後ろ姿が鏡ごと果てしなく映し出された光景が見えている。
 情けなくも、その光景にかすかな怖気を感じた新谷が、無意識に左の奥歯をきつく噛み締めた、その瞬間だった。
 ガタン、と音を立てて仏間の天井が軋むと、そこから天井板を前足で開け、頭髪と頭髪を結び合わせたふたりの童女の生首が、釣瓶の如き勢いで新谷と滅黯の顔と顔の間に垂れ下がった。
 「うっぎゃ!?」
 さしもの新谷が思わず後ずさりしたものの、滅黯は平然と、身動ぎもしない。
 上の生首の後頭部に牙を立てた、ふっさりとした尾を生やした、口に咥えているものがなければ実に愛らしい胴体の長い生き物が、すとん、と仏間の畳の上に降りた。
「おうおう、こりゃどうも、通りすがりのイタチさん。誠にありがとうごぜぇやした」
(「ーーな、なな、ななな、なま、なまま、生首ば咥えよった、通りすがりのイタチばどこにおるとね。黯か旦那が、何ぞおっとろしか術ば使うとるに決まっとっとるばい!」)
 驚愕に激しく脈打つ心の臓を、着流しの上から左掌で押さえながら、それでも状況を冷静に判断出来た新谷の目の前に、さらなる異様な光景が展開された。
 イタチはその場で後ろ足だけで立ち上がり、くるりととんぼ返りをすると、その勢いのまま天井裏に飛び上がり、器用に右足の爪先で開いた天井板を閉め、四つ足で天井裏をガタガタ鳴らして、どこかへ走り去って行ったようだった。
 ーー巻き物が二本ずつ、するすると畳の上に開かれ広がると、新谷はようやく童女達の顔面の異様さに気づいた。
 上下のふたりとも、左右の黒眼がひっきりなしに左右上下を向き、左右の口端から垂れ流しのよだれが顎を伝い、ともに左右の眼尻から涙をとめどなく流している。
  よくよく見れば、ふたりのまぶたは裏返って赤い粘膜が剥き出しになって、釣り糸できつく縫われて、眉の上で止められていた。
 下まつ毛の生え際も似たように、真ん中五重に縦に釣り糸で縫われ、頬骨まで下げられ、そこで縫いつけられていた。
 「な、なん、何ね……何ね、こいば、こいば……」
 新谷は童女らの口に、薄い巻き物が咥えられていることに気がついた。
 童女らの涙がその巻き物にぽたぽた滴り落ちると、二本の巻き物は勝手に広がって畳の上を転がりながら、中身が開かれた。
『首の壱 お志千(しち) 姉 齢陸』
 いつの間にか、滅黯の手によってふたつの生首は一首ずつ、朱塗りの盆の上に置かれていた。
『首の弐 お國(くに) 妹 齢伍』
 そこでようやく、新谷は双子並みに同じ顔の年子の姉妹の顔の違いに気づいた。
 姉のお志千は向かって右の目元に。
 妹のお鵠は向かって左の口元に。
 小さなほくろがある。
(目ば下が姉しゃまで、口ん下が妹ったいな)
「お読み下せぇ、新谷さん」
「【お志千 うらみすだま 】『左前の白装束に半裸で亀甲縛り 梁から吊り下げられ 妹と尻を合わせ合い 双頭の張形で貫かれーー」
「【お國 うらみすだま】『姉とまったく同じ姿にて、双頭の張形にて破瓜の血を流し合い 結合部より滴り落ちし 混ざり合いし鮮血 長寿の秘薬薬の……一(いち)……部と……されーー……』」
 知らず知らずのうちに、巻き物に記された仕込まれた文面の内容に、新谷の声と両手が怒りに震え出す。
 ふと、滅黯の嗅覚が、かすかな獣臭を嗅ぎ取った。
 ふしゅうふしゅうという、新谷の口からもれるあの荒い息遣いが再び。
 そして盲目であるが故に、常人より鋭敏な聴覚が、異常事態を素早く察知した。
「……お志、千より……【すくいみたま】お、救い、願、い、申し上ぐ……る……呼び名は……サル」
 新谷が、震える声でかろうじて自我を保ちつつも文を読み上げながら、何かにとり憑かれている。
 だがそれは、自分や師の浄眩とは似て非なるものではなく、まったく別の類いのものだ。
「お國、か……ら……も……願い申し上げ……【すくいすだま】もう、ひと、り……絵師……名は、淫水舐安(いんすいなめやす)……」
「……他、無数の不成仏霊から【うらみすだま】承りしは……性悪なれど……美しきものに目……なき……濡れし姫に悪しき梅花と……弦……」
( ーー間に合わねぇ!)
 滅黯は、瞬時に自身に判断を下した。新谷の身からわずかに嗅ぎ取った獣臭に血腥さが足され、彼の身に明らかな異変が起こっていることだけはわかる。
 だが自分の今の術師としての能力では、今の新谷を抑え切れないどころか、返って暴走させてしまう。 
 今のうちに、
 今のうちに!
 かろうじて自我を保っている新谷を、予定より少々早いが、今すぐあの場に送り込まなければ。
 この状態に陥った新谷は、むしろこれまで以上に『使える』存在になり得るが、しかし、それが今の自身に補佐出来るかどうかはわからない。
 下手をすれば暴れ馬並みに手がつけられなくなるやも知れぬが、そうなれば最悪、浄眩に頭を下げ、後でたんと詫びを入れればいいーー滅黯はなかばやけになって、術を行使し始めた。
 バッ 
 バッ 
 ババッ!
「『臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!』」
 滅黯はいつにない瞬速で九字印を組むと、その直後、わずかに新谷から獣臭と血腥さが薄れたーーかに感じたが、それはほんの一瞬なりを潜めただけで、すぐさま両方の匂いを取り戻した。
 だが滅黯はもう、既に懐から今回使う呪具を手にしていた。
 それは、たったふたつのお手玉だった。
「♪……通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ……」
「!?」
「♪ちっと通してくだしゃんせ 御用のない者通しゃせぬ」
「♪この子の七つのお祝いに お札を納めに参りますーー……」
 ぽしゃ、ぽしゃ、ぽしゃ、と音を立てて滅黯の両掌で、本来の右まわりではなく。
 わざと左に、逆まわりに操られるお手玉は、確かに最初、ふたつだけだった。
 だが、その左まわりに操られるお手玉は、いつしかその数が目の前で減り増え消え、それにつられるかのように、新谷は自身の背中に、奇妙な感覚が広がり始めているのに気づいた。
 ーー刻は酉と戌の刻の間、六ツ半。
 とうに、月は東に日は西に。
 太陽は沈み、闇に消え。
 狂気を孕み、人を狂わせると昔から言われる満月が。
 真(ま)の暗闇の烏珠(ぬばたま)が色に負けじと、白ではなく、ぞっとするほど青い光で、闇夜を煌々と照らしていた。
 血塗られた夜の始まりであったーー。






  
 


 
 






 



 
 
 
 


  

  

  

  


  

  
  
  

  


  
  





  


     
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