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薔薇の求婚
(11)
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血の気が引き、目の前が真っ暗になる。健斗の微笑みが、偽りの妻を用済みにする算段が整った満足の笑みに見える。最初から楓の嫁入りはつじつまが合わなかった。みすぼらしく、使用人のように調理をした。楓の行動に気づかない振りをして、きっと敏い健斗には見抜かれていたことだろう。だとしたら。
(叔父さまには怒られても良い……。住むところがなくたって、どうにか生きていけるわ……。でも旦那さまには、きちんと謝罪したい……)
偽りを背負ったまま、健斗の前を去りたくない。微笑んだままの健斗を前に、楓は唇をきゅっと噛み、それから絨毯の上に額を擦りつけて土下座した。
「申し訳ございません……」
突然の楓の行動に驚いた健斗が何かを言う間を作らず、楓は言葉を継いだ。
「申し訳ございません……。私は旦那さまを偽っていました……。私は大旦那さまが旦那さまにと望んだ娘ではございません……。私は堀下の家で使用人として使われていた娘です。堀下と血縁はございますが、学校は尋常小学校までで、大旦那さまや旦那さまが妻に対して期待する教養も、作法も、礼儀もなにも身に着けておりません……。それなのに私は、旦那さまに嘘を吐きとおし、今までのうのうとこの家で過ごしてきました……。旦那さまがご希望になられるのでしたら、今すぐここを出て行きます。そして、今度こそ本当の堀下子爵令嬢である琴子さんとのご縁を結べるよう、心を尽くします。今日、お求めになられた反物やドレス、お洋服のお代金も、一生かかってでも弁償いたします。私の行動は、峯山家に対する、とても大きな罪でした。どんな厳罰でも受けます。旦那さま、お裁きをください」
今まで背負ってきた咎の意識が一気に噴き出た。震えながらも言葉を途切れさせずに最後まで言い切れたのは、奇跡的だった。言葉を発している間も、健斗の無言が恐ろしく、しかし額づく楓の脳裏には、最初の日からの全ての健斗の表情が思い浮かんでいた。
初日の全てを拒絶する表情。子爵令嬢を期待し、料理をする娘など受け付けないと言った表情。楓が無言であることに疑問を抱いてくれた表情。料理を食べたいと言ってくれた時は、どこか観察する様子だった。でも楓が語る着物のあれこれに興味を持って聞いてくれた。仕事に楓の話が活きていると話す健斗は嬉しそうで、でも傷のことを辛そうに話した。
めくるめく日々の健斗の表情は、どれもどれも、楓の宝物だ。この記憶さえあれば、どんなところでも生きていける。この思いをもって死んで行けるのなら、いま死ねと言われたって良い。
「顔を上げなさい」
「いいえ。断じて下さい」
そうでないと、罪の大きさに泣き叫びそうだ。涙がにじみそうになってくる。それなのに健斗はやわらかく声を発した。
「楓。頼むから、私から妻(きみ)を取り上げないでくれないか」
おだやかで、やさしい、包み込むような声だった。予想していた怒りの声ではないことに頭が混乱して、言葉の意味が分からない。
突然、ふ……、っと両肩にあたたかいものが触れる。……健斗の手だと分かったのは、それから二秒あとだった。
「だ……、んなさま……」
楓の眼前に居たのは、いとおしさを滲ませて自分を見る健斗だった。健斗は椅子を降り、絨毯に膝をついて楓の肩を持ち上げたのだった。なにが……、起こっているのだろう……。
「楓、私が以前言ったことは、覚えているかい?」
やさしく子供に言って聞かせるように、健斗は言う。以前……? なんだっただろう。自分の罪の告白と、健斗が楓に思い出させたい言葉とが結びつかなくて、直ぐには返事が出来ない。
「あ……、の……」
「私は確かに言ったよ。『君が言えずに悩んでいることは、気にする必要はない』とね。その上で、義父母にも紹介しようと思った。正式な私のパートナー……、つまり妻としてね」
健斗は微笑みを浮かべたまま、呆けた楓にそう言った。楓は健斗の言葉を頭の中で繰り返しかみ砕き、やっと彼が楓の偽りについて知っていたことを理解した。
健斗は全て知っていたのだ。楓の嘘も、堀下の行いも何もかも。その上で楓を妻として求めてくれている。
……こんなに嬉しいことが、楓の人生の中であっただろうか。溢れ来る歓喜に震える手指で口許を覆う。過度な緊張から一変、喜びでいっぱいになった楓の目からは、安堵と喜びの涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「だん……っ、な、さま……っ。わた……、わた、し……っ」
「うん」
嗚咽と共に零れる言葉を、健斗はゆっくり聞いてくれる。
「わたし……っ、だんな、さま……、に、ふ……、つり、あ、い……っ、で……っ」
(叔父さまには怒られても良い……。住むところがなくたって、どうにか生きていけるわ……。でも旦那さまには、きちんと謝罪したい……)
偽りを背負ったまま、健斗の前を去りたくない。微笑んだままの健斗を前に、楓は唇をきゅっと噛み、それから絨毯の上に額を擦りつけて土下座した。
「申し訳ございません……」
突然の楓の行動に驚いた健斗が何かを言う間を作らず、楓は言葉を継いだ。
「申し訳ございません……。私は旦那さまを偽っていました……。私は大旦那さまが旦那さまにと望んだ娘ではございません……。私は堀下の家で使用人として使われていた娘です。堀下と血縁はございますが、学校は尋常小学校までで、大旦那さまや旦那さまが妻に対して期待する教養も、作法も、礼儀もなにも身に着けておりません……。それなのに私は、旦那さまに嘘を吐きとおし、今までのうのうとこの家で過ごしてきました……。旦那さまがご希望になられるのでしたら、今すぐここを出て行きます。そして、今度こそ本当の堀下子爵令嬢である琴子さんとのご縁を結べるよう、心を尽くします。今日、お求めになられた反物やドレス、お洋服のお代金も、一生かかってでも弁償いたします。私の行動は、峯山家に対する、とても大きな罪でした。どんな厳罰でも受けます。旦那さま、お裁きをください」
今まで背負ってきた咎の意識が一気に噴き出た。震えながらも言葉を途切れさせずに最後まで言い切れたのは、奇跡的だった。言葉を発している間も、健斗の無言が恐ろしく、しかし額づく楓の脳裏には、最初の日からの全ての健斗の表情が思い浮かんでいた。
初日の全てを拒絶する表情。子爵令嬢を期待し、料理をする娘など受け付けないと言った表情。楓が無言であることに疑問を抱いてくれた表情。料理を食べたいと言ってくれた時は、どこか観察する様子だった。でも楓が語る着物のあれこれに興味を持って聞いてくれた。仕事に楓の話が活きていると話す健斗は嬉しそうで、でも傷のことを辛そうに話した。
めくるめく日々の健斗の表情は、どれもどれも、楓の宝物だ。この記憶さえあれば、どんなところでも生きていける。この思いをもって死んで行けるのなら、いま死ねと言われたって良い。
「顔を上げなさい」
「いいえ。断じて下さい」
そうでないと、罪の大きさに泣き叫びそうだ。涙がにじみそうになってくる。それなのに健斗はやわらかく声を発した。
「楓。頼むから、私から妻(きみ)を取り上げないでくれないか」
おだやかで、やさしい、包み込むような声だった。予想していた怒りの声ではないことに頭が混乱して、言葉の意味が分からない。
突然、ふ……、っと両肩にあたたかいものが触れる。……健斗の手だと分かったのは、それから二秒あとだった。
「だ……、んなさま……」
楓の眼前に居たのは、いとおしさを滲ませて自分を見る健斗だった。健斗は椅子を降り、絨毯に膝をついて楓の肩を持ち上げたのだった。なにが……、起こっているのだろう……。
「楓、私が以前言ったことは、覚えているかい?」
やさしく子供に言って聞かせるように、健斗は言う。以前……? なんだっただろう。自分の罪の告白と、健斗が楓に思い出させたい言葉とが結びつかなくて、直ぐには返事が出来ない。
「あ……、の……」
「私は確かに言ったよ。『君が言えずに悩んでいることは、気にする必要はない』とね。その上で、義父母にも紹介しようと思った。正式な私のパートナー……、つまり妻としてね」
健斗は微笑みを浮かべたまま、呆けた楓にそう言った。楓は健斗の言葉を頭の中で繰り返しかみ砕き、やっと彼が楓の偽りについて知っていたことを理解した。
健斗は全て知っていたのだ。楓の嘘も、堀下の行いも何もかも。その上で楓を妻として求めてくれている。
……こんなに嬉しいことが、楓の人生の中であっただろうか。溢れ来る歓喜に震える手指で口許を覆う。過度な緊張から一変、喜びでいっぱいになった楓の目からは、安堵と喜びの涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「だん……っ、な、さま……っ。わた……、わた、し……っ」
「うん」
嗚咽と共に零れる言葉を、健斗はゆっくり聞いてくれる。
「わたし……っ、だんな、さま……、に、ふ……、つり、あ、い……っ、で……っ」
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