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ひそやかな誓い

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 久し振りに味わう涙は、熱く心を刺激する。
 願いを口にしてしまった唇は、ほろほろと言葉を吐き出した。どうして。

「……どうして? 私の望みは、いつだって蔑ろにされる。私の望みは、いつだって誰かを不幸にする」

 昔の話をしているときではないのに、私の心はひと息に過去へと引き戻される。

 まだ私の心が柔らかさを知っていて、もっと無邪気であった頃。
 私に優しくしてくれた女官は、私と何か一つ約束すると知れると、一月も経たないうちに勤めを解かれるのが常だった。さみしさを埋めてくれていた乳母に勇気を出してずっとそばにいてねとねだったら、翌朝彼女は荷物もそのままにいなくなってしまった。

 あとはそう。子どもの存在が夫婦仲を扶けるのですよと女官に吹き込まれた幼い私は、まだ人の悪意を知らなかった。お母様が待ち望んでいた夜離よがれを迎えて、心安らかに眠れるようになっていたことも。
 初めて私がしたお願いにお父様は晴れやかに笑うと、その夜嫌がるお母様に覆い被さった。悲鳴と懇願とすすり泣きで満ちた夜が明けると、お母様は私をって、三月は口を利いてくださらなかった。お父様が褒美だと言ってくれた宝石は、女官たちのお小遣いになった。

 あのとき、私はようやくお人形にならなければいけないと悟ったのだ。何も意思を持たず、何も害のない娘にならなければ、と。

「お母様は、私に生きたいか聞くことさえせずに首を絞めたわ。お父様にとって、私は思いだしたときに使えるお人形でしかなかった。……でも、」

 涙で滲む視界は、目の前にいてくれる人がどんな表情をしているのか知るのが恐いという気持ちを、幾分和らげる。震える左手を包む手のひらはあたたかく、静かな声がそっと続きを促した。でも?

「私だって、自分の意思で生まれたんじゃない。自分で生まれる場所を選んだんじゃない。自分で選んで、この見た目で生まれたんじゃないもの。恵まれたから、言われるまま従わないといけないの? 綺麗に生まれたから、飽きられるまで鑑賞に耐えないといけないの? 私の幸せは、いつも……人に決められないといけないの?」

 こんなことを口にしても、しようがないとわかっている。私は恵まれている。わがままを言えるような立場ではないのかもしれない。でも、……でも。

 涙とともにどっと怒りが湧いてきて、胸の奥底に押し込めてきたはずの心が溢れ出す。

「私は、ささやかな日常がほしかっただけ。それが、そんなに贅沢なこと? 大それた望みじゃないでしょう。生まれてはじめて願ったのよ。穏やかに暮らしたいって……! はじめて自分で選んで、はじめて自由に願ったことくらい、叶ったっていいじゃない。わがままを言ったって、許されるはずでしょう。私だって一度くらい、いい子でなくなってもいいでしょう……!」

 もういや。きつく目を閉じると、瞼の裏側がじわりと熱さで滲んだ。

 こんなことになるのなら、お人形のままでいればよかった。お人形のままでいたなら、こんなふうに心を振り絞ることもなかった。何も感じず、空いた隙間に動かされる盤上の駒で在れたならよかった。

 そうして、私はああと気づいた。

(私、幸せを欲しがるようになってしまった。だから、恐いんだわ)

 お人形のヒルデガルトは、お母様から誕生日をお祝いされないことに気づいても、憂鬱を晴らす捌け口とされても、側妃とその取り巻きからドレスを汚されても何も恐くなかった。義兄とそのご学友に取り囲まれていじめられたときだって、平気だった。あの夜、お母様に首に手をかけられたときだって、受け容れようとさえ思ったのだ。ヒルデガルトはそんなことでは傷つかない。ヒルデガルトは、心の守り方を知っていた。

 でも、幸せを知ってしまったセシルは弱い。
 守りたい心を見つけてしまったから、心を踏みしだかれるのが恐くなってしまった。

 お人形になれば、心なんていらなくなる。お人形になれば、ただにこにこ微笑んで頷くだけでいい。心や思考などないかのように扱われても、逐一心を削られなくて済む。

 けれども、お人形でい続けたなら、もっと心を削られることになる。
 たった数日この客間に閉じこもっていた間も、このままでいてはいけないのだと気づいてはいた。
 だって。ここに私を大切にしてくれる人なんて、一人もいない。

「みんな、私の幸せを勝手に決める。みんな、私の道を勝手に決めて、これが幸せだと説く。誰も、私の気持ちなんてどうでもいい……」

 心を守るためにお人形に戻ろうとしたけれど、うまくできなかった。
 もう、無理だった。幸せを知ってしまったセシルは、ヒルデガルトに戻れない。
 ……そう、戻りたくない。

 ああ、言ってしまった。ひと度放ったことばは取り戻せないのに。
 露わにしてしまった自分の醜さと息苦しさと怒りとがない交ぜになって、しゃくりあげてしまいそうになる。唇を懸命に閉ざしたとき、涙に濡れた世界にたったふたつ、まばゆく輝いているものが見えた。
 くすりと笑みがこぼされる音がして、私は瞬きをひとつする。

「誰も? 俺のことをお忘れではないですか」

 涙に洗い流された視界で、テオが笑みを浮かべていた。いたずらっぽいその表情に、胸の内で淀んでいたものが押し流されていくのを感じる。
 ほら、と促すように揺らされた左手は、もう震えてはいなかった。

「テオは違うわ……」
「はい。思い出してくださって何よりです」

 また涙がこぼれて、指の腹を頬に押し当てる。いま、私はひどい顔をしているに違いない。
 テオに握られたままだった左手を引くと、すぐに自由になる。あたたかさの名残をたどるように指を握り込んで、目を伏せた。どうしようもないことに、瞬きをするたびに涙がこぼれてしまう。

「でも、これ以上あなたに頼れない。あなたは私のために、何でもしようとする。私は、あなたにも幸せでいてほしい。……だって、八年よ。せっかく積み重ねた暮らしを、あなたからも奪いたくない。
 私が望むことで、あなたの幸せが欠けてしまうなら。それなら、どれだけ傷ついてもかまわない。あなたに報いるには、そのくらいしかできないもの」

 ――私の騎士。
 心の中でそう呼ぶことでひそやかに安心していたのだから、私は主として彼の献身に報いなければならない。

 なのに、テオは優しく笑うのだ。
 そっと腕を引かれて、私はテオの腕の中に倒れ込む。
 あ、とこぼれた声が自分のものだと気づいたとき。私は一度、強く抱きしめられた。心臓がひくりと竦んで、遅れて身体にあたたかさが沁みていく。

「セシル。傷ついているのに涙まで我慢してしまうあなたを、一人きりにできるはずがないでしょう。俺の幸せにだって、あなたがいないと駄目なんですよ。一緒に家に帰りましょう」

 あの頃のようにぎこちなく髪を撫でる手のひらに、硬くかたく縮こまろうとしていた私の心は、思考が働くよりも先に抗うのをやめてしまった。

 気づけば、私の手はテオの胸元を握りしめていて。溢れ続ける涙とぐしゃぐしゃになった心を隠せなくて。心のままに噎んで、噎んで――人目を憚ることも忘れて泣いてしまった。


 ひとしきり涙を流すだけ流し終えた私は、鈍く主張し始めた頭痛と目眩とで我に返った。
 あたたかい胸元から顔を離すと、自分の身体がテオの膝に乗せられていることに気づく。物心ついて以来、はじめて声をあげて泣いてしまった。

 鏡がないから、自分がどれほどひどい顔をしているのか見なくても済んでいるけれど、テオの胸元に滲んだ汚れを見れば、化粧がほとんど流れ落ちているとわかる。
 居たたまれなさに俯いていると、テオの指が頬に張り付いた髪をかきやった。

「いつものセシルの表情に戻ったようで、安心しました。そうだ、言いそびれていましたね。ヘルヴェスのドレスもお似合いです」
「顔なんて、ぐしゃぐしゃになっているでしょう?」
「いいえ、ちっとも」

 本当に、ちゃんと見ているのかしら。そう思いながらも、わるい気はしなかった。
 飾り気のないテオのことばが、ほかの褒め言葉とどう違うのかはっきりとはわからない。けれども、彼が私自身を見てくれていることが伝わってくる。それだけわかっているならばいいと思える自分がいた。

「あなたが望むなら、今すぐここから連れ去りますよ」
「何を言っているの。あまりに無謀よ……」

 まるで密入国の話をしたときのようだと思って、私は笑った。
 おそるおそる扉の方を見たけれど、覚悟を決めて視線をやったはずのそこには誰もいない。
 そういえば、おじさまは近衛騎士隊長に呼ばれたと話していた。ふつう、こうしたときに席を外されることは少ないだろうに。
 ぼんやりと瞬いた私は、そっと抱き上げられて長椅子の上に降ろされる。

「途中から、ふたりきりにしてくれました。さすがに団長がいたなら、俺も逃亡のお誘いはしなかったと思います。どうしますか?」

 私が願ったなら、テオはきっとここから連れ出してくれるのだろう。
 私は、彼が優秀な騎士だと知っている。もしかすると、上手く逃亡できてしまうのではないかという気さえしてくるほどに。

 私は長椅子の隣を叩いて、テオが静かに腰を下ろすのを待つ。そうして、彼が礼儀正しく空けた隙間をほんの少しさみしく思った。ずいぶん欲張りになってしまったものだ。

「おそらく、逃げ出したとしても深く追われることはないでしょう。ヘルヴェスにとって、ヒルデガルトの価値はその程度だもの。あなたと一緒に旅をするのは、きっと楽しいと思うわ。でも、いつ来るかもわからない影に脅えて逃げ続けるのは御免なの。私は、自分の幸せを守りたい。自分に、幸せを望むことを許したい。……力を貸してくれる?」

 手をさしだすと、当然のようにあたたかい指で包むように握られて、唇が押し当てられる。

 八年前とは違う高さで見るテオの顔は、あの頃よりもうんと大人になっていた。整った鼻梁も、伏せられた瞼が描き出す線も、もう子どもの名残はどこにもない。

 けれども、微かに震えて上げられた睫毛の影から現れた瞳は変わらずそこにあった。
 いつだって私をまっすぐと射貫く眩しさがひたと据えられて、私の背を伸ばさせる。

「はい。もう、俺に来るなとは言わないでくださいね」
「言わないわ。あなたは私の騎士だもの」

 ひそかに勇気を振り絞って告げたことばを耳にして、テオはほんの少し驚いた後、目を細めて微笑んだ。
 八年前の私だったなら、きっとそれだけで満足しただろう。でも、今のセシルは少し違う。

 私はこのとき、ひっそりと自分自身に誓いを立てた。
 騎士としてテオを頼りにするのは、これで最後にするのだと。
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