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私の望み

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 ヘルヴェス王との面会を終えた私は、長椅子に腰を下ろしているだけのお人形になった。
 そうするのが楽だったせいもあるし、ただひたすらに身体が重たく感じられたからでもある。

 退屈を知らないお人形でいることは、私にとって別段苦ではなかった。
 何せ、物心ついてから十一の年まで、私はずっとそういうふうに生きていた。今は亡き国で、ヒルデガルトは鑑賞に耐えうる見目をした駒であり、沈黙の価値を知っているお人形だったから。

 少し変わったことがあるとすれば、ドミニクがお茶の相手をしに顔を出したことだろう。
 近衛騎士隊長から許可を得たというドミニクは、女官たちの手によって粧われた私に目を向けては逸らし、小さくきれいだと言って恥ずかしそうに俯いた。

「……ドレス、すごく似合ってる。本当はそんな髪の色だったんだな。
 商家でのことを謝りたくて許可をもらったんだ。ごめん。言い訳がましいかもしれないけれど、僕は、どうして――お嬢様が王宮に召し出されるのかを聞かされていなくて。僕はまだ近衛騎士隊でも職位が高くないから、今も詳細を聞かされていない」

 何かを考えようとしても、頭が重たい。かつて森の中で足を取られたぬかるみのように。
 何度か瞬きをして、私はドミニクのことばから情報を選り分けていく。

 きっと、ドミニクは私の名を呼んではならないと言いつけられているのだろう。ドミニクも何か事情があるとは気づいているはずだけれど、私が主の婚約者候補になっていることは知らないみたいだった。もし知っていたならば、ドミニクは以前と同じ話し方はできないはずだから。

 どうして、近衛騎士隊長はドミニクをお茶の相手に寄越したのだろう。
 そう思いながら少し迷って、私は普段のように話すことを選んだ。

「坊ちゃんのせいではありません。私もまだ、どうして自分がここにいるのかわかっていませんから」

 ドミニクが何か言いよどんでいる間、私はお茶を半分飲み、味のしないケーキを食べ終えた。
 生クリームを花のように絞って連ねたケーキはふんわりとした食感で、きっと甘いのだろう。雲を口にしたらこんな感じなのかもしれないと、遠くの方で考える。

「……テオは、元気にしてるよ。王立騎士団でちゃんと働いている」
「私に教えてもよろしいのですか?」

 見つめると、ドミニクは唸るように声を絞り出した。わからない、と。

「君こそ、どうして聞かないんだ」
「どうして……」

 

 唇と心の両方でくり返し唱えた私は、重たい睫毛を押し上げてドミニクを瞳の中に写し取る。
 ドミニクの目の端がひくりと引き攣れて、それから思い直したかのようにこちらを見つめ返してくる。健康的な肌に滲んだ色彩は、純な称賛と照れだった。
 それで、私はふつりと湧き起こった衝動を冷めた紅茶ごと喉の奥に流し込んだ。

 沈黙を見かねた女官が耳打ちしてくるのに、私は頷いた。

「来てくださってありがとうございます。これからドレスを合わせる予定ですので、どうぞお勤めに戻ってください」

 ドミニクは何か言いたげに私を見ていたけれど、女官たちに促されて席を立つ。
 扉が閉まるまでの間、私はドミニクの視線を感じながらも目を伏せたままでいた。ただただ身体が重たくてならなくて、早く横になって瞼を下ろしてしまいたかった。


 明くる朝、私は心配する女官たちにもう少し眠りたいと告げて天蓋の内側に籠もった。
 お人形でいることには苦労しなかったけれど、昔と違って、時間が経つごとに口を開くのが億劫になっていくのを感じた。それは、この八年間の暮らしが私の心を確実に変えてしまった証でもあるのだろう。あの頃のままいた私であれば、ヘルヴェス王にもっと従順に振る舞えたはずだった……。

 うとうとと微睡んでは目を覚ますことをくり返していると、女官たちが申し訳なさそうに私を揺り起こして、客人が来るから身支度をしなければならないと告げる。
 なされるがままにドレスを着せ付けられて化粧を施された私は、今日も完璧なお人形だった。
 居間へ出た私は、なんとはなしに窓の外を見て驚いた。朗らかな春の空は暮れなずみ、夜の気配をわずかに薫らせている。

 ややあって女官が招き入れた客人は、おじさまだった。
 随分久し振りに顔を合わせたような気がして、遠くの方でほのかに懐かしさを感じた。おじさまは私を静かに見つめて、息子と同じように綺麗だと褒めてくださる。

 ドミニクのときとは異なり、女官たちはお茶を供すると静かに辞した。
 おじさまは黙って紅茶に口を付ける私を見て、微かに息をつく。もう以前のように名前では呼べないな、と。

「こんなことになってしまって、申し訳ないと思っている。既に聞いているかもしれないが、八年前、君たちのことを陛下に申し上げたのは俺だ。君たちのことを真に思うなら、報告すべきではなかった。恨んでくれて構わない」

 おじさまは、あくまで王に仕える騎士だ。私もテオもベーレンドルフ子爵家の厚意に甘えてきたけれど、王命より優先してもらえると考えたことはない。八年前おじさまが主君に奏上したのは、当然のことだ。私たちだって、おじさまの厚意を利用してきた。当然、何も責める気持ちなど湧いてこない。

「恨むだなんて、とても。ベーレンドルフ子爵は職務を果たされたのですから」

 微笑むと、おじさまは私が貴族の娘として言葉を選んだと気づいた。
 あえてこれまでのように接すると決めてくれていたのだろうおじさまは、苦しげに眉を寄せて首を振る。

「王太子殿下は優秀な方だ。理不尽な振る舞いはなさらないだろう。見合いは明日と聞いているが、間違いないか?」
「そう聞いています。昨日は急遽仕立て直されたドレスを合わせましたから、予定が変わらなければこのまま面会することになるでしょう」

 どんな問いもどんなことばも、耳を心を通り過ぎてゆく。
 自分の唇が何と答えたのかさえもわからなくなったとき、おじさまが静かに囁いた。

「テオのことは、心配しなくとも良い。王立騎士団は俺の管轄だ、陛下も近衛騎士隊もすぐにちょっかいを出してくることはないだろう。あいつも報せを受けたときはずいぶん……」

 ――テオは、元気ですか?

 取るに足らない質問が口をついて出ようとして、私はぼんやりとした意識の中でわずかにおかしみを感じた。昨日ドミニクも元気だと言っていたのだし、こうしておじさまが自ら口にしているのだ、テオはおそらく無事なのだろう。ヘルヴェス王の命令で偽りを言っているのでなければ。

 ヘルヴェス王の脅しが脳裡に蘇り、私は震えそうになる心をゆっくりと殺した。
 子どもの頃、どうしてあんなに自然にできていたのか不思議に思うくらい、些細なことで揺れ動きそうになる心を押し込めるには気力が要る。

 淡く微笑むお人形に徹していると、おじさまが席を立つ。
 何をするのだろうと見つめた先で、おじさまは短く扉を叩いた。

「どうして近衛騎士隊長が俺を呼んだのかわかったよ。……入れ」
 
 静かに開けられた扉から現れたのは、ドミニクだった。おじさまは息子を睨み、お前は呼んでいないと言い、ドミニクが小声で反論する。
 こちらを見てぱっと笑顔になったドミニクの背後から踏み出した人影を目にして、私は息を止めた。

 しなやかな身のこなしで影の中から抜け出でたその人は、ゆっくりと私に視線を合わせる。
 淡く濁りを帯びていた世界がうっすらとたゆたいながら、色を取り戻していくのがわかる。遅れて呼吸を取り戻した身体が、膝においた左手が微かに震えを帯びていく。誰かが何かを言っている声が聞こえていたけれど、私の目はただその人だけを向いていた。

 乾いていた土が雨に降られたように、世界が水気を含んでゆく。目の奥が熱く揺らいで、肌が優しいまなざしに包まれる幸いを思い出してしまう……。

「来ないでと言ったわ」

 遠くの方で頑なな声が呟いたのに、目はどこまでも正直だった。
 柔らかな黒髪も切れ長の瞳も、少し日に焼けた頬も、すんなりと通った鼻筋も柔らかに結ばれた唇も、別れた日そのままだった。同じように、青い瞳が私の顔を一つひとつ確かめるようにたどるのを感じる。ひとりでに心が喜んで、安堵に緩む。

 小さく微笑んだテオは静かに近づいてくると、長椅子の前で膝を折った。

「はい。でも、途中で合図がなくなったものですから」

 数刻置きに手鏡を使って送っていたことばを、テオはきちんと受け取ってくれていたらしい。
 
 手鏡を壊されてしまったの。せっかくあなたがくれたのに。
 この期に及んでそんなことを言い出しそうになる唇を閉ざして、私は息を整える。膝の上でふるふると左手が震えるのを、右手で覆い隠した。

「怪我はしていない? 本当に、今も騎士団で働けているの?」
「はい。セシルは少し痩せましたね。心配しました。長くお側を空けてしまい、申し訳ございません」

 久し振りに名前を呼ばれて、どうしてというほどに心が喜んだ。
 滲んだ喜びに縋りそうになった心を宥めるように、ぎゅうと左手を握りしめる。

「……お願い。もう帰って」
「それがセシルの願いであれば、すぐにでもそうしましょう。でも、違いますよね」

 首を振ると、黙ってこちらを見つめるおじさまとドミニクの顔が目に入る。
 はっと脅えた左手を深く握り込んだとき、あたたかい手のひらがそっと触れた。意思のほかで震え続ける左手を静かに包んだ手が、硬い指を一つひとつ解いていく。
 きつく爪を立てたせいで血の滲んだ手のひらを見られて気まずく思っていると、静かに名前を呼ばれる。まるで私に教え込むかのようにくり返される声は、かつて旅をしながら新しい名前に慣れようと呼び交わしたときのことを思い出させた。

「セシル。あなたの望みはなんですか?」
「言えません。誰に伝わるかわからないわ。不利になる情報は漏らせない」

 そうですねとテオは笑んで、ちらりと扉の方を見てから私の手を自分のそれで包む。
 冷え切った指先が温もりを思い出していくのを感じながら、つきりと胸が痛んだ。無意識に、きゅっと唇の端を上げる。

「セシル、こちらを見て」

 迷いながらも伏せていた目を上げると、テオが脅える私の視線をすくい取る。
 目を逸らさないでほしいと思われていると伝わる瞳の強さに、私は森の中で誓いを立てた日のことを思い出した。

「俺は知っています。セシルはいつも、心が傷ついたときに微笑む癖がある。セシルが微笑んで自分の心をひた隠しにするとき、ほんの少し目元が震えるのが切なかった。セシルは多くを語らないけれど、あの国であなたの日々が幸せなばかりではなかったと知っています。俺は、国境を目指して旅をする中で、あなたが少しずつ表情を取り戻していくのを見るのが好きでした。
 ……でも、今はあの頃と同じ表情をしています。だって今、セシルはちっとも幸せではないでしょう」

 私は口の中で奥歯を合わせて、そっと噛みしめる。

「優しく、しないで。おねがいだから」

 名前を呼ばれて優しくされてしまったら、お人形でいられなくなる。

 きれぎれに絞り出した声は、柔らかに封じられた。
 いいえ。短くも確かに言い切ったテオは、その目映い瞳で惹きつけて、目を逸らさせてはくれない。

「優しくしますよ。俺はあなたに幸せに生きてほしいから」

 しあわせ。ぽつりと唇がくり返して、私は世界がゆらゆらと揺れていることに気づいた。

「……ヘルヴェスへ来てから、セシルにふさわしい暮らしを用意してさしあげられないことが気がかりでした。俺は自分で思っていたよりも力の無い子どもで、ここでは移民にすぎなかった。いったいいつになったら、あなたに何不自由なく暮らせる日々を贈れるのだろう。そう悩みました。でも、そのうちにそれは傲慢だったと気づきました。セシルの幸せを勝手に決めつけていたのだと」

 う、と合わせた唇の間から声がこぼれて、ひくりと喉が鳴る。
 堪えなければと思うのに、テオの瞳が私を捉えて離さない。

「セシル、教えてください。俺はあなたの望みを勝手に推測して、これがあなたの幸せなのだと差し出すようなことはしたくはありません。あなたが望む幸せはなんですか?」

 目の縁でゆらゆらと留まっていた熱さがとうとう一粒こぼれ出て、頬で跳ねる。
 あ……と思ったときには既に、唇が答えていた。

「家に、帰りたい……」

 ひと度溢れた涙はぽろぽろと肌の上を通って、次々に滴り落ちてゆく。
 頬が熱くて、奥底に押し込めて殺してきたはずの心がふつりふつりと湧き出していくのがわかる。

 一度願いを囁いた唇を噛みしめると、あの国に置いてきたはずの涙の味がした。
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