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第4章:三月のディスコード(9)
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※ ※ ※
同期や先輩方に数え切れないほどの迷惑をかけたあと、部活が終わった。
何人かの同期が「一緒に帰る?」と誘ってくれたけど、寄るところがあると告げて断った。
みんなが見えなくなるまで部室付近で荷物を整理する振りをしてから、正門へ向かった。
急いで行けば、遥奏に会えるかも。
遥奏はいつも僕より先に帰ることが多かったから、今日だってもういなくなっている可能性の方が高い。けれども、行ってみる価値は十分ある。
正門前の横断歩道を渡ろうとしたときだ。
ふと左手に、うちの制服を着た女の子の後ろ姿が見えた。
大きなリュックに隠れて全身はよく見えなかったけど、毎日のように目にしている黒髪ショートボブから、判断がついた。
「笹山さん?」
僕の呼びかけに応じてその首がくるりと回る。
キリッとした一重まぶたに、疲労がにじんでいた。
何があったのか、笹山さんはかなりの大荷物を持っていた。
小さな背中を覆い隠す黒いリュックは、ファスナーがちぎれそうなほどにパンパン。左右の手に、四つ切り画用紙より一回り大きな横長の手提げバッグがそれぞれひとつずつ。
「あの、よかったら、手伝うけど」
笹山さんの家は学校から少し遠い。この荷物をひとりで運んでいくと、三十分以上、下手したら四十分かかるかも。
普段の笹山さんなら断っていただろうけど、さすがに辛かったらしい。
「ごめんね。ありがとう」
僕は二つの手提げバッグを受け取り、笹山さんの家へ向かって歩き出した。幸い、僕の行き先と同じ方向だ。
道中、僕らの間を不気味な沈黙が満たす。
大荷物の理由を僕から尋ねることすらせず、笹山さんからもなんの説明もなかった。
足を動かすたび、手提げバッグの中でプラスチック製と思われる何かがぶつかる音が聞こえた。音から察するに割れ物は入っていないようだったけど、念のため、あまり中身を乱さないようにそっと歩く。
二人とも全く言葉を発しないまま、僕らは四つの信号を渡った。目的地は近い。
笹山さんの家は、河川敷の向かいの歩道から入る路地にある。
まだ家が見えないうちから、記憶の中の情景が蘇ってきた。
年中涼しげな水色の三角屋根。
ベランダを穏やかに彩るペチュニア。
インターホンを押せばドタバタと足音が聞こえてきて——
「手伝ってくれてありがとう。今度お礼するね」
家につながる路地の手前で、笹山さんの声が僕を現在に引き戻した。日直の分担を話し合うときと同じドライな口調。
「いや、いいよ、気にしなくて」
「遠慮しないで。篠崎くん、何か好きなお菓子ある?」
好きなお菓子?
家で小腹が空いたときには、適当に冷蔵庫にあるものを食べている。これといって、今何か夢中になっているおやつはない。
「……いや、特に何も」
僕がそう言うと、会話に短い休符が挟まった。
「あっそ」
笹山さんが、事務連絡調で続ける。
「わかった。じゃあ次の日直の仕事、全部私やるね」
「あー、うん、ありがとう」
借りを返さないと気が済まないのかな。そう思ったので、申し出を受け入れることにした。
「もうここでいいよ、ほんとに助かった」
僕の手元の手提げバッグに目をやりながら、笹山さんが右手を差し出してきた。家までは、まだ十メートルほど。
いいよ家の前まで、と言いかけてやめた。
笹山さんの家族は、僕のことを覚えているのだろうか。
家の前まで送ったとして、もしおばさんと鉢合わせしたら?
昔みたいに、「シュウくん!」なんて呼ばれたら気まずいだけだ。
僕らはもうただのクラスメートなんだから。
「うん、わかった。気をつけて」
僕は笹山さんに手提げバッグを渡して踵を返し、河川敷に向かう横断歩道を目指して歩き出した。
「ちなみに」
声を聞いて振り返ると、笹山さんが足を止めていた。
よく整えられた短い黒髪が、風に揺られてかすかに揺れる。
「私の好きな食べ物は、卵焼き」
僕に背中を向けたままそれだけ言うと、笹山さんは左に曲がって路地に消えた。
笹山さんの言葉の意味を考える余裕は、僕の頭にはなかった。
今はそれどころではない。
来た道をマンション二つ分戻って、横断歩道を渡る。
前後左右に目をやりながら足を動かし、いつもスケッチする川岸の階段までたどり着いた。
遥奏は、どこにも見当たらなかった。
同期や先輩方に数え切れないほどの迷惑をかけたあと、部活が終わった。
何人かの同期が「一緒に帰る?」と誘ってくれたけど、寄るところがあると告げて断った。
みんなが見えなくなるまで部室付近で荷物を整理する振りをしてから、正門へ向かった。
急いで行けば、遥奏に会えるかも。
遥奏はいつも僕より先に帰ることが多かったから、今日だってもういなくなっている可能性の方が高い。けれども、行ってみる価値は十分ある。
正門前の横断歩道を渡ろうとしたときだ。
ふと左手に、うちの制服を着た女の子の後ろ姿が見えた。
大きなリュックに隠れて全身はよく見えなかったけど、毎日のように目にしている黒髪ショートボブから、判断がついた。
「笹山さん?」
僕の呼びかけに応じてその首がくるりと回る。
キリッとした一重まぶたに、疲労がにじんでいた。
何があったのか、笹山さんはかなりの大荷物を持っていた。
小さな背中を覆い隠す黒いリュックは、ファスナーがちぎれそうなほどにパンパン。左右の手に、四つ切り画用紙より一回り大きな横長の手提げバッグがそれぞれひとつずつ。
「あの、よかったら、手伝うけど」
笹山さんの家は学校から少し遠い。この荷物をひとりで運んでいくと、三十分以上、下手したら四十分かかるかも。
普段の笹山さんなら断っていただろうけど、さすがに辛かったらしい。
「ごめんね。ありがとう」
僕は二つの手提げバッグを受け取り、笹山さんの家へ向かって歩き出した。幸い、僕の行き先と同じ方向だ。
道中、僕らの間を不気味な沈黙が満たす。
大荷物の理由を僕から尋ねることすらせず、笹山さんからもなんの説明もなかった。
足を動かすたび、手提げバッグの中でプラスチック製と思われる何かがぶつかる音が聞こえた。音から察するに割れ物は入っていないようだったけど、念のため、あまり中身を乱さないようにそっと歩く。
二人とも全く言葉を発しないまま、僕らは四つの信号を渡った。目的地は近い。
笹山さんの家は、河川敷の向かいの歩道から入る路地にある。
まだ家が見えないうちから、記憶の中の情景が蘇ってきた。
年中涼しげな水色の三角屋根。
ベランダを穏やかに彩るペチュニア。
インターホンを押せばドタバタと足音が聞こえてきて——
「手伝ってくれてありがとう。今度お礼するね」
家につながる路地の手前で、笹山さんの声が僕を現在に引き戻した。日直の分担を話し合うときと同じドライな口調。
「いや、いいよ、気にしなくて」
「遠慮しないで。篠崎くん、何か好きなお菓子ある?」
好きなお菓子?
家で小腹が空いたときには、適当に冷蔵庫にあるものを食べている。これといって、今何か夢中になっているおやつはない。
「……いや、特に何も」
僕がそう言うと、会話に短い休符が挟まった。
「あっそ」
笹山さんが、事務連絡調で続ける。
「わかった。じゃあ次の日直の仕事、全部私やるね」
「あー、うん、ありがとう」
借りを返さないと気が済まないのかな。そう思ったので、申し出を受け入れることにした。
「もうここでいいよ、ほんとに助かった」
僕の手元の手提げバッグに目をやりながら、笹山さんが右手を差し出してきた。家までは、まだ十メートルほど。
いいよ家の前まで、と言いかけてやめた。
笹山さんの家族は、僕のことを覚えているのだろうか。
家の前まで送ったとして、もしおばさんと鉢合わせしたら?
昔みたいに、「シュウくん!」なんて呼ばれたら気まずいだけだ。
僕らはもうただのクラスメートなんだから。
「うん、わかった。気をつけて」
僕は笹山さんに手提げバッグを渡して踵を返し、河川敷に向かう横断歩道を目指して歩き出した。
「ちなみに」
声を聞いて振り返ると、笹山さんが足を止めていた。
よく整えられた短い黒髪が、風に揺られてかすかに揺れる。
「私の好きな食べ物は、卵焼き」
僕に背中を向けたままそれだけ言うと、笹山さんは左に曲がって路地に消えた。
笹山さんの言葉の意味を考える余裕は、僕の頭にはなかった。
今はそれどころではない。
来た道をマンション二つ分戻って、横断歩道を渡る。
前後左右に目をやりながら足を動かし、いつもスケッチする川岸の階段までたどり着いた。
遥奏は、どこにも見当たらなかった。
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