61 / 92
第4章:三月のディスコード(9)
しおりを挟む
※ ※ ※
同期や先輩方に数え切れないほどの迷惑をかけたあと、部活が終わった。
何人かの同期が「一緒に帰る?」と誘ってくれたけど、寄るところがあると告げて断った。
みんなが見えなくなるまで部室付近で荷物を整理する振りをしてから、正門へ向かった。
急いで行けば、遥奏に会えるかも。
遥奏はいつも僕より先に帰ることが多かったから、今日だってもういなくなっている可能性の方が高い。けれども、行ってみる価値は十分ある。
正門前の横断歩道を渡ろうとしたときだ。
ふと左手に、うちの制服を着た女の子の後ろ姿が見えた。
大きなリュックに隠れて全身はよく見えなかったけど、毎日のように目にしている黒髪ショートボブから、判断がついた。
「笹山さん?」
僕の呼びかけに応じてその首がくるりと回る。
キリッとした一重まぶたに、疲労がにじんでいた。
何があったのか、笹山さんはかなりの大荷物を持っていた。
小さな背中を覆い隠す黒いリュックは、ファスナーがちぎれそうなほどにパンパン。左右の手に、四つ切り画用紙より一回り大きな横長の手提げバッグがそれぞれひとつずつ。
「あの、よかったら、手伝うけど」
笹山さんの家は学校から少し遠い。この荷物をひとりで運んでいくと、三十分以上、下手したら四十分かかるかも。
普段の笹山さんなら断っていただろうけど、さすがに辛かったらしい。
「ごめんね。ありがとう」
僕は二つの手提げバッグを受け取り、笹山さんの家へ向かって歩き出した。幸い、僕の行き先と同じ方向だ。
道中、僕らの間を不気味な沈黙が満たす。
大荷物の理由を僕から尋ねることすらせず、笹山さんからもなんの説明もなかった。
足を動かすたび、手提げバッグの中でプラスチック製と思われる何かがぶつかる音が聞こえた。音から察するに割れ物は入っていないようだったけど、念のため、あまり中身を乱さないようにそっと歩く。
二人とも全く言葉を発しないまま、僕らは四つの信号を渡った。目的地は近い。
笹山さんの家は、河川敷の向かいの歩道から入る路地にある。
まだ家が見えないうちから、記憶の中の情景が蘇ってきた。
年中涼しげな水色の三角屋根。
ベランダを穏やかに彩るペチュニア。
インターホンを押せばドタバタと足音が聞こえてきて——
「手伝ってくれてありがとう。今度お礼するね」
家につながる路地の手前で、笹山さんの声が僕を現在に引き戻した。日直の分担を話し合うときと同じドライな口調。
「いや、いいよ、気にしなくて」
「遠慮しないで。篠崎くん、何か好きなお菓子ある?」
好きなお菓子?
家で小腹が空いたときには、適当に冷蔵庫にあるものを食べている。これといって、今何か夢中になっているおやつはない。
「……いや、特に何も」
僕がそう言うと、会話に短い休符が挟まった。
「あっそ」
笹山さんが、事務連絡調で続ける。
「わかった。じゃあ次の日直の仕事、全部私やるね」
「あー、うん、ありがとう」
借りを返さないと気が済まないのかな。そう思ったので、申し出を受け入れることにした。
「もうここでいいよ、ほんとに助かった」
僕の手元の手提げバッグに目をやりながら、笹山さんが右手を差し出してきた。家までは、まだ十メートルほど。
いいよ家の前まで、と言いかけてやめた。
笹山さんの家族は、僕のことを覚えているのだろうか。
家の前まで送ったとして、もしおばさんと鉢合わせしたら?
昔みたいに、「シュウくん!」なんて呼ばれたら気まずいだけだ。
僕らはもうただのクラスメートなんだから。
「うん、わかった。気をつけて」
僕は笹山さんに手提げバッグを渡して踵を返し、河川敷に向かう横断歩道を目指して歩き出した。
「ちなみに」
声を聞いて振り返ると、笹山さんが足を止めていた。
よく整えられた短い黒髪が、風に揺られてかすかに揺れる。
「私の好きな食べ物は、卵焼き」
僕に背中を向けたままそれだけ言うと、笹山さんは左に曲がって路地に消えた。
笹山さんの言葉の意味を考える余裕は、僕の頭にはなかった。
今はそれどころではない。
来た道をマンション二つ分戻って、横断歩道を渡る。
前後左右に目をやりながら足を動かし、いつもスケッチする川岸の階段までたどり着いた。
遥奏は、どこにも見当たらなかった。
同期や先輩方に数え切れないほどの迷惑をかけたあと、部活が終わった。
何人かの同期が「一緒に帰る?」と誘ってくれたけど、寄るところがあると告げて断った。
みんなが見えなくなるまで部室付近で荷物を整理する振りをしてから、正門へ向かった。
急いで行けば、遥奏に会えるかも。
遥奏はいつも僕より先に帰ることが多かったから、今日だってもういなくなっている可能性の方が高い。けれども、行ってみる価値は十分ある。
正門前の横断歩道を渡ろうとしたときだ。
ふと左手に、うちの制服を着た女の子の後ろ姿が見えた。
大きなリュックに隠れて全身はよく見えなかったけど、毎日のように目にしている黒髪ショートボブから、判断がついた。
「笹山さん?」
僕の呼びかけに応じてその首がくるりと回る。
キリッとした一重まぶたに、疲労がにじんでいた。
何があったのか、笹山さんはかなりの大荷物を持っていた。
小さな背中を覆い隠す黒いリュックは、ファスナーがちぎれそうなほどにパンパン。左右の手に、四つ切り画用紙より一回り大きな横長の手提げバッグがそれぞれひとつずつ。
「あの、よかったら、手伝うけど」
笹山さんの家は学校から少し遠い。この荷物をひとりで運んでいくと、三十分以上、下手したら四十分かかるかも。
普段の笹山さんなら断っていただろうけど、さすがに辛かったらしい。
「ごめんね。ありがとう」
僕は二つの手提げバッグを受け取り、笹山さんの家へ向かって歩き出した。幸い、僕の行き先と同じ方向だ。
道中、僕らの間を不気味な沈黙が満たす。
大荷物の理由を僕から尋ねることすらせず、笹山さんからもなんの説明もなかった。
足を動かすたび、手提げバッグの中でプラスチック製と思われる何かがぶつかる音が聞こえた。音から察するに割れ物は入っていないようだったけど、念のため、あまり中身を乱さないようにそっと歩く。
二人とも全く言葉を発しないまま、僕らは四つの信号を渡った。目的地は近い。
笹山さんの家は、河川敷の向かいの歩道から入る路地にある。
まだ家が見えないうちから、記憶の中の情景が蘇ってきた。
年中涼しげな水色の三角屋根。
ベランダを穏やかに彩るペチュニア。
インターホンを押せばドタバタと足音が聞こえてきて——
「手伝ってくれてありがとう。今度お礼するね」
家につながる路地の手前で、笹山さんの声が僕を現在に引き戻した。日直の分担を話し合うときと同じドライな口調。
「いや、いいよ、気にしなくて」
「遠慮しないで。篠崎くん、何か好きなお菓子ある?」
好きなお菓子?
家で小腹が空いたときには、適当に冷蔵庫にあるものを食べている。これといって、今何か夢中になっているおやつはない。
「……いや、特に何も」
僕がそう言うと、会話に短い休符が挟まった。
「あっそ」
笹山さんが、事務連絡調で続ける。
「わかった。じゃあ次の日直の仕事、全部私やるね」
「あー、うん、ありがとう」
借りを返さないと気が済まないのかな。そう思ったので、申し出を受け入れることにした。
「もうここでいいよ、ほんとに助かった」
僕の手元の手提げバッグに目をやりながら、笹山さんが右手を差し出してきた。家までは、まだ十メートルほど。
いいよ家の前まで、と言いかけてやめた。
笹山さんの家族は、僕のことを覚えているのだろうか。
家の前まで送ったとして、もしおばさんと鉢合わせしたら?
昔みたいに、「シュウくん!」なんて呼ばれたら気まずいだけだ。
僕らはもうただのクラスメートなんだから。
「うん、わかった。気をつけて」
僕は笹山さんに手提げバッグを渡して踵を返し、河川敷に向かう横断歩道を目指して歩き出した。
「ちなみに」
声を聞いて振り返ると、笹山さんが足を止めていた。
よく整えられた短い黒髪が、風に揺られてかすかに揺れる。
「私の好きな食べ物は、卵焼き」
僕に背中を向けたままそれだけ言うと、笹山さんは左に曲がって路地に消えた。
笹山さんの言葉の意味を考える余裕は、僕の頭にはなかった。
今はそれどころではない。
来た道をマンション二つ分戻って、横断歩道を渡る。
前後左右に目をやりながら足を動かし、いつもスケッチする川岸の階段までたどり着いた。
遥奏は、どこにも見当たらなかった。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
日給二万円の週末魔法少女 ~夏木聖那と三人の少女~
海獺屋ぼの
ライト文芸
ある日、女子校に通う夏木聖那は『魔法少女募集』という奇妙な求人広告を見つけた。
そして彼女はその求人の日当二万円という金額に目がくらんで週末限定の『魔法少女』をすることを決意する。
そんな普通の女子高生が魔法少女のアルバイトを通して大人へと成長していく物語。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
白黒とカラーの感じ取り方の違いのお話
たま、
エッセイ・ノンフィクション
色があると、色味に感覚が惑わされて明暗が違って見える。
赤、黄、肌色などの暖色系は実際の明度より明るく、青や緑などの寒色は暗く感じます。
その実例を自作のイラストを使って解説します。
絵の仕事では時々、カラーだった絵が白黒化されて再利用される時があります。白黒になって「あれぇ!💦」って事態は避けたい。
それに白黒にした時に変な絵はカラーでもちょっとダメだったりします。
バルールの感覚はけっこう大事かもですね。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
逢花(おうか)
真麻一花
ライト文芸
あの時、一面が薄桃色に染まった。
吹き抜けてゆく風は桜並木を揺らし、雪のように花が舞う。
薄桃色に彩られた春の雪――……。
切なくなるような既視感が切ない痛みを伴って胸をよぎる。
透哉は卒業式の日、桜吹雪の中にたたずむクラスメートに目を奪われた。
三年間まともに話した事もない彼女に、覚えのない懐かしさがこみ上げる。
彼女と話したい。けれど、卒業式のこの日が、彼女と話せる最後の機会……。
桜舞い散る木の下で、今度こそ、君と出会う――
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
【完結】年収三百万円台のアラサー社畜と総資産三億円以上の仮想通貨「億り人」JKが湾岸タワーマンションで同棲したら
瀬々良木 清
ライト文芸
主人公・宮本剛は、都内で働くごく普通の営業系サラリーマン。いわゆる社畜。
タワーマンションの聖地・豊洲にあるオフィスへ通勤しながらも、自分の給料では絶対に買えない高級マンションたちを見上げながら、夢のない毎日を送っていた。
しかしある日、会社の近所で苦しそうにうずくまる女子高生・常磐理瀬と出会う。理瀬は女子高生ながら仮想通貨への投資で『億り人』となった天才少女だった。
剛の何百倍もの資産を持ち、しかし心はまだ未完成な女子高生である理瀬と、日に日に心が枯れてゆくと感じるアラサー社畜剛が織りなす、ちぐはぐなラブコメディ。
【R15】メイド・イン・ヘブン
あおみなみ
ライト文芸
「私はここしか知らないけれど、多分ここは天国だと思う」
ミステリアスな美青年「ナル」と、恋人の「ベル」。
年の差カップルには、大きな秘密があった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる