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第2章:胸の奥からクレッシェンド(17)

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 ※ ※ ※

 お昼を食べて少し部屋でのんびりしてから、集合場所である駅へ向かった。
 改札へたどり着くと、水島くんは既にそこにいた。変更があれば早めに連絡し、そして一度変更した集合時刻には早めに来る。さすがだ。
「時間を調整してくれてありがとう。じゃあ、行こうか」
 ベージュのインナーに、紺色のトレンチコート、黒いチノパンで合わせた水島くん。私服を着てもすごく大人っぽくて、やっぱり中学生には見えない。

 館内に入ると、水島くんが手慣れた動きで受付を済ませてくれた。
 入場券を受け取った僕は、水島くんの後に続いて順路に従い絵を鑑賞した。

 厳かな雰囲気のクラシック音楽、間接照明で照らされた白い壁、艶のあるブラウンの床。
 館内で演出される雰囲気それ自体が、ひとつの芸術作品のよう。

「思ったより、いろんな人がいるんだね」
 初めて美術館を訪れた僕の率直な感想は、それ。
 美術館巡りって、一部の頭が良くてお金持ちの人たちの趣味だと思ってたから、普通・・に見える家族連れや若い人たちもたくさんいるのが意外だった。

 「そうだね。美術館を訪れたいという人は幅広くいるものだよ。実は、デートスポットとしても人気なんだ」
 「デート」という言葉は、ちょうどここに来る前の「ビジュツカン」と同じように、自分に関係のない空っぽの単語として響いた。

 水島くんは美術に詳しく、絵を見ながら僕にいろいろと説明してくれた。
 この技法は誰々の影響を受けていると見られる、これは近年では珍しい画風……なんていうふうに水島くんが横で解説してくれるたび、「なんとなくきれいな絵」だった目の前の作品から、人類が積み上げてきた英知の息遣いが聞こえてくる。

 合成な金の額縁に囲まれた絵を次々と見ていくうち、一枚の絵画の前で、急に足が止まった。
 聞いたことのない画家の絵だった。
 ドレスを来た女の人の横顔。口を大きく開いて、両腕を前に伸ばし、手のひらを天に向けている。
 その姿が、五日前まで学校が終わるたびに顔を合わせていたある人物と重なった。

 いったい、どこで何してるんだろうな。

「その絵、きれいだよね。特にドレスの裾、この重ね塗りは……」
 僕の専属ガイドとして定着した水島くんが、その絵に使われた技法について丁寧に説明してくれる。
 けれど、今はあまりその説明は耳に入らなかった。
 代わりに、五日前に僕のめちゃくちゃな伴奏に合わせて高らかに響いていたファルセットが、体の内側から鼓膜を刺激していた。
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