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第2章 氷の王子と消えた託宣

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     ◇
 アデライーデは一度自室に戻って簡素なドレスに着替えた後、再び屋敷内をぷらぷらと歩き回っていた。自室にいると、あの日々を思い出してしまう。もういい加減忘れてしまいたいというのに、この家はそれを許してはくれない。

 お付きの侍女を巻いて、なんとなくごろんと横になったサロンのソファで、しばらくぼんやりと天井を眺めていた。ほどなくして、廊下の向こうから人の気配を感じ取る。
 すぐに身を起こすと、アデライーデは足早にそちらへと歩いて行った。向かう廊下の先からジークヴァルトの姿が見えてくる。

「今頃現れるなんて」

 王城から戻ってきた所なのだろう。幾人かの使用人を連れてこちらへと向かってくるジークヴァルトを、アデライーデは立ちふさがるように迎えた。

「姉上」

 アデライーデの姿を認めると、ジークヴァルトはその目の前で立ち止まった。それ以上無言のまま、じっとアデライーデを見下ろしてくる。

「何か言い訳があるなら聞いてあげるけど?」

 小言を言う前に少しは言い分を聞いてやろうと、アデライーデは片眉をくいと上げた。だが、ジークヴァルトは口を開くことなく、アデライーデの体を引き寄せいきなりその腕に閉じ込めた。

 突然の弟の抱擁に、アデライーデの口はぽかんと開けられた。ぎゅっと抱きしめられて、背中をやさしくさすられる。

「……ちょっと、わたしはリーゼロッテじゃないわよ?」
「分かっている」

 押し殺したような声に驚いて、アデライーデは思わずジークヴァルトの背を抱きしめ返した。

「何かあったの? おかしいわよ、あなた」
「別に何もない」

 そう言いながら、ジークヴァルトはアデライーデの頭を何度かやさしく梳いた。最後にもう一度背中をぽんぽんとたたくと、ジークヴァルトは使用人に急かされて、足早に行ってしまった。

「なんなの、一体」

 あっけにとられたままその後ろ姿を見送ったあと、アデライーデは仕方なく自室へと戻った。頭痛がひどくなりそうな気配がする。こんな時はおとなしく横になるよりほかはない。

 片目の視力を失ってからというもの、時折動けないほどの吐き気や頭痛に襲われる。

 常備薬の苦い丸薬を飲み下して、アデライーデは自室のソファで横になった。人払いを済ませ、静かになった部屋でひとり目を閉じる。
 薬が効いてきたのか、ほどなくしてまどろみがやってくる。

 ――どうか、今日はあの夢を見ませんように

 祈るように、アデライーデは緩やかにその意識を手放した。

     ◇
 熱に浮かされたまま、全身が痛みを訴える。痛すぎて、もうどこが痛いのかすらわからなくなってくる。ひりつくようなのどの渇きを覚えるが、動こうにも体の自由がまるできかない。
 感覚全てが不快に感じる。アデライーデはこの行き場のない熱に、ただ耐えるしかなかった。

 時折口に流し込まれる苦い液体が、痛みを和らげてくれることに幾度目かで気がついた。針を刺すような激痛が鈍痛に代わる程度のものだが、うすぼんやりとしたまどろみを、その苦みは与えてくれた。

 あの時、ハインリヒの気配を感じた。ふわりと何か温かいものに包まれて、一瞬、遅れてやって来た激痛に、息が止まってそのまま意識を手放した。次に気づいたときは、このまるで動けない状態だった。

 王妃の離宮に泊まった日から、すでに幾日も過ぎたようだ。世話をする侍女たちの会話からそんなことが分かった。ここは領地の屋敷で、自分は大怪我を負ったらしい。

 夢うつつに、父と母が口論するのが耳に入った。珍しいこともあるものだとぼんやりと思ったのは、その時あの苦い薬湯が効いていたからだろう。
 その口論の中で、自分はハインリヒの守護者のせいでけがを負ったということを知った。父は激怒した様子で、母はしばらくそれを黙って聞いていた。

 流し込まれる液体に、味のないスープが加わったころ、ようやく少しは思考が働くようになってきた。包帯でぐるぐる巻きにされた全身は、まだひとりで起き上がることすらできなかった。

 まどろみから意識が浮上して、アデライーデはふと視線を巡らせた。薄暗い寝台の脇に誰かが座っている。寄りかかるようにして座る黒い頭だけが、足元の布団越しにちらりと見えた。
 そのぬしは直接床に座って、寝台に背を預けているようだ。時折紙をめくるような音がするので、そこで本を読んでいるのかもしれない。

「あなた、そこで何してるのよ?」

 思った以上にしゃがれた声が出た。しばらく言葉を発してなかったせいもあるだろうが、のどの渇きが不快感を訴える。

「起きたのか?」

 振り返って立ち上がったのは弟のジークヴァルトだった。弟と言っても、数えるほどしか会ったことはない。多分もうすぐ十二歳になるはずだ。まともに会話をした記憶もあまりなかった。

 フーゲンベルク家の跡取りとして生まれ、龍に選ばれてしまった不憫で哀れな弟だ。ぼんやりとそんなことを思いながら、アデライーデはきしむ腕に力を入れた。
 何とか身を起そうとするが、体は痛みを訴えるばかりでちっとも言うことを聞いてくれない。ジークヴァルトは無言で背中を支えると、後ろにクッションをうまい具合に詰めてくれた。

「何か飲むか?」

 小さく頷くと、テーブルに置いてあったコップを差し出してきた。コップにはストローと呼ばれる細い管がさしてある。これはジークヴァルトの婚約者の発案で開発されたものらしい。これがあると水分が楽にとれる。ジークヴァルトの婚約者はまだ八歳らしいが、まれにみる才女のようだ。

 一息つくと、ジークヴァルトは今度は小さなグラスを差し出してきた。おどろおどろしいどす黒い緑色をしている。あの苦い薬湯だ。

「目が覚めたらこれを飲ませるように言われている」

 アデライーデは一瞬嫌そうな顔をして、ジークヴァルトの手を借りながら、それを一気にあおった。いくら痛みを和らげてくれるとはいえ、まずいものはまずかった。

 不意に飴玉が口元に差し出された。

「それを飲んだらこれを食わせるよう言われた」

 そっけなく言って、ジークヴァルトはその飴玉をアデライーデの口元に押し込んだ。とたんに甘い味が口内を広がる。切れた口の中が多少しみるが、この際それは我慢するしかないだろう。

「横になるか?」

 ジークヴァルトの問いかけに、アデライーデはゆるく首を振った。少し体を起こしていたい。寝すぎて背中がかえっておかしくなりそうだった。

「ほかに必要なものは?」
「特にないわ」

 かすれた小声で答えると、ジークヴァルトは「そうか」と言って、再び寝台の脇に座り込んだ。本をめくる音が、静かに再開される。

「……あなた、そこで何やってるのよ?」
「読書だ」

 先ほどと同じ質問をすると、ジークヴァルトはやはりそっけなく答えた。

「そんな暗い場所で読むことないでしょう?」

 この部屋はアデライーデが眩しくないようにと、一日中薄暗くされていた。包帯を巻かれた頭は片眼を覆って、四六時中ズキズキと痛みを訴える。僅かな光にも刺激され、その痛みは悪化した。

「エマはどうしたの?」
「エマニュエルは今休ませている。何かあったら呼ぶように言われているが、呼んだ方がいいか?」
「今はいいわ」

 エマニュエルはずっとアデライーデにつきっきりで看病していた。きっと彼女の体力も限界を超えているのだろう。

「それで、あなたはそこで何してるのよ。もっと明るいところで読めばいいでしょう」
「十分読める。気にするな」

 そっけなく言いながら、再びページはまくられた。こんな暗い部屋で文字など読めるはずもないだろう。

「変な子ね」
 ジークヴァルトはここ最近、王城で過ごすことが多かったはずだ。未来の王の補佐をする立場としての事だったが、それも貴族の跡取りとして当然の流れだった。

 父のあの怒りようは、ジークヴァルトにも波及したのだろう。王家と戦争も辞さない勢いの父は、別人のようだったとぼんやり思った。

 どうしてこんなことになってしまったのか。
 アデライーデは泣きそうになって無理やりその目をきつく閉じた。
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