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第2章 氷の王子と消えた託宣
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季節は移ろって、少しは春らしい日も訪れるようになってきた。外はまだまだ雪景色だが、雪解けを待って春のお茶会が催され始めるのもこの時期からだ。
外に出られない冬の間に、来る春を思い、令嬢たちはみな次に出る茶会や舞踏会に思いを馳せるのだ。そのためにみな、冬の間の準備に余念はない。
きしむ体は相変わらずだが、ふらつきながらも自力で歩けるようになってきた。明け方まだ早い時間に侍女の目を盗んで寝台から起き上がると、アデライーデはひとり鏡台へと向かった。
朝日に照らされて目覚めていく部屋の中で、アデライーデは今だぐるぐる巻きにされた顔の包帯を、自らの手ではぎ取っていった。出血でこびりついた布と布を、乱暴な手つきで無理やりはがしていく。
するりと落ちた包帯のその下から現れた鏡に向こうの醜い女に、アデライーデは小さく悲鳴を上げた。かき上げた髪の間から覗く焦点を結ばない瞳。その上下にかかるひき攣れた傷がなんとも醜悪に映った。
うすうす気づいてはいた。包帯に覆われて不自由な視界。周りの者は、決して自分に鏡をのぞかせようとしなかった。
じわりと涙がにじむ。その涙は、二度と役には立たない右目からもあふれ出してきた。この瞳を保護する涙など、もう無用であるのというのに。
――なぜあの日、王妃の離宮に行ったのか。なぜあの夜、あそこで眠ってしまったのか。ハインリヒはただ自分を起こそうとしただけかもしれない。だが、なぜあの場にハインリヒはやってきたのか。
無意識に考えないようにしていたあの夜の子細が急激に蘇る。
あの夜のにおい。あの夜の静けさ。あの夜感じた熱と痛み。
鏡台に並ぶ化粧品の数々が目に入る。どれも吟味に吟味を重ねたお気に入りのものばかりだ。それがいまだ小ぎれいに並べられている様を見て、アデライーデは狂ったように大声を上げてそれらを腕で薙ぎ払った。
その騒音に、侍女たちが血相を変えて集まってくる。
何を泣き叫んでいるのかもわからない。自分の中で何かが砕け散って、ただそれが与える痛みだけが正気を保つ唯一の術のように思えた。
侍女のひとりに後ろから抑え込まれて、もうひとりに口から苦い液を入れられた。ほどなくして、体が脱力する。
ぼんやりとした意識の中で、侍女たちが表情なく、淡々と散らばった鏡台のものを戻していくのが目に入った。
雪解けも始まったころ、アデライーデは人前で取り乱すことをしなくなった。泣いて暴れても、何ひとつ変わらない。そうしても、誰ひとりとして止めることも、たしなめることもしなかった。ただ腫物を扱うように、周りの者は沈痛な顔をして自分を黙って見守るだけだ。
ぼんやりと鏡の前に立つ。この醜い顔も見慣れてしまった。包帯を巻き続けようとする侍女に、煩わしいからと一切やめさせた。隠したからと言って何になると言うのだ。この傷が消えるわけでもない。
鏡台の上の物はあの日以来、綺麗に片付けられるようになった。だが、その引き出しを開ければ、たぶんそこに入ってるだろう。
今頃、友人たちは、春の茶会を楽しんでいるだろうか。噂を聞きつけて、手紙をよこす者もいたが、その大半は好奇心に満ちたものだった。
このままいくと、自分は父によって選ばれた男の元に、逃げるように嫁がされるのだろう。父の事だから、年上の穏やかな人物を選ぶのかもしれない。
なんだか癪だ。貴族に生まれたからには、自分の人生を自分で決めることなどあきらめていた。だが、公爵家の令嬢として、自分には人より選択の幅はあったはずだ。
ふと思って、裁縫道具がしまわれた引き出しを開けた。中から布の裁断ばさみを取り出した。大ぶりなそのはさみを持って、再び鏡台の前へと立つ。
(いっそ修道女になろうかしら)
幸い、自分は曾祖母の遺産として、それなりの財産を受け継いでいる。その金で領地のどこかに修道院を建て、孤児の世話をして生きていくのもいいかもしれない。
筋力の落ちた腕で、なんとかはさみを髪にあてる。
「何をしている?」
不意にそのはさみを取り上げられる。振り向くと、そこには無表情のジークヴァルトが立っていた。
ジークヴァルトはアデライーデが動けるようになった今も、時々こうやって顔を出す。特に何をするでもなく、しばらくするとまた黙って帰っていくだけだ。
「髪を切ろうと思って」
「髪を?」
その言葉に、ジークヴァルトは腰まできれいにのばされたアデライーデの髪に視線を落とした。ダークブラウンのまっすぐな髪は、今でも美しく整えられている。
「わたし修道女になるの。だから髪はもう必要ないわ」
二度と夜会で美しく着飾ることもない。手入ればかりに時間がかかるこんな髪など、無用の長物だ。
「そうなのか?」
感情のこもらない声で、ジークヴァルトはそれでも少し不思議そうに尋ねてきた。
「ええ、そうよ。ねえ、ヴァルトが切ってよ」
鏡台の前に置かれたスツールに背を向けて腰かける。はさみを手にしたジークヴァルトが、一度だけ聞き返した。
「それが姉上の望むことなのか?」
「そうよ。いいから早く切ってちょうだい」
アデライーデの返答に、ジークヴァルトはアデライーデの髪をひと房持ち上げた。何の戸惑いもなく、はさみをその髪にくぐらせる。
「何をなさっているのですか!?」
横からしがみつくようにエマニュエルがジークヴァルトの腕の動きを止めた。真っ青な顔をして、ジークヴァルトから乱暴にはさみを奪う。
「姉上の髪を切ろうとしただけだ」
そっけなく言ったジークヴァルトに、エマニュエルは信じられないような目を向けた。
「髪は女の命でございます! それを切ろうなどとっ」
いつもの冷静さはそこにはなかった。エマニュエルの剣幕に、ジークヴァルトはぎゅっと眉根を寄せた。
「そうなのか?」
アデライーデに問うてみる。もう必要がないと言ったのはアデライーデだ。
「人によるわ」
冷たく吐き捨てたアデライーデにエマニュエルが苦しい表情を向ける。
「いいのよ。エマ、わたし修道女になるわ。だからもういらない」
「アデライーデ様……!」
エマニュエルが悲痛の声で叫んだ。途端にその瞳から涙が溢れ出てくる。
アデライーデの髪は何よりの自慢だった。ただ長くするだけなら誰でもできるが、美しく伸ばすのはたゆまぬ手入れと、そして長い歳月が必要だ。
エマニュエルはずっとアデライーデのそばにいた。その誕生から、ただの使用人としてだけでなく、姉のように、友のように。勝ち気でまっすぐで、誰よりも気高く美しい、そんなアデライーデの輝かしい未来を、エマニュエルは共に生きるはずだった。
エマニュエルははさみをきつく握りしめたまま、アデライーデの名を呼んで少女のように慟哭した。これ以上ないくらいに握り込まれた拳から滴り落ちる血が、冷たい銀のはさみを伝っていく。
どんな時も冷静さを欠くことのなかったエマニュエルの泣き顔に、アデライーデは呆然とした。ジークヴァルトがその拳を開かせ、そっとはさみを取り上げる。血まみれになった手のひらで、エマニュエルは自らの顔を覆い隠した。
「エマ……修道女になるなんてもう言わないわ。勝手に髪を切ったりもしないから……」
泣きじゃくるエマニュエルを抱きしめながら、アデライーデはそのときすべての感情を手放した。もうこれ以上失いたくない。ただその一心だった。
ジークヴァルトは黙ってふたりを見つめ、それ以上、何も言わなかった。
外に出られない冬の間に、来る春を思い、令嬢たちはみな次に出る茶会や舞踏会に思いを馳せるのだ。そのためにみな、冬の間の準備に余念はない。
きしむ体は相変わらずだが、ふらつきながらも自力で歩けるようになってきた。明け方まだ早い時間に侍女の目を盗んで寝台から起き上がると、アデライーデはひとり鏡台へと向かった。
朝日に照らされて目覚めていく部屋の中で、アデライーデは今だぐるぐる巻きにされた顔の包帯を、自らの手ではぎ取っていった。出血でこびりついた布と布を、乱暴な手つきで無理やりはがしていく。
するりと落ちた包帯のその下から現れた鏡に向こうの醜い女に、アデライーデは小さく悲鳴を上げた。かき上げた髪の間から覗く焦点を結ばない瞳。その上下にかかるひき攣れた傷がなんとも醜悪に映った。
うすうす気づいてはいた。包帯に覆われて不自由な視界。周りの者は、決して自分に鏡をのぞかせようとしなかった。
じわりと涙がにじむ。その涙は、二度と役には立たない右目からもあふれ出してきた。この瞳を保護する涙など、もう無用であるのというのに。
――なぜあの日、王妃の離宮に行ったのか。なぜあの夜、あそこで眠ってしまったのか。ハインリヒはただ自分を起こそうとしただけかもしれない。だが、なぜあの場にハインリヒはやってきたのか。
無意識に考えないようにしていたあの夜の子細が急激に蘇る。
あの夜のにおい。あの夜の静けさ。あの夜感じた熱と痛み。
鏡台に並ぶ化粧品の数々が目に入る。どれも吟味に吟味を重ねたお気に入りのものばかりだ。それがいまだ小ぎれいに並べられている様を見て、アデライーデは狂ったように大声を上げてそれらを腕で薙ぎ払った。
その騒音に、侍女たちが血相を変えて集まってくる。
何を泣き叫んでいるのかもわからない。自分の中で何かが砕け散って、ただそれが与える痛みだけが正気を保つ唯一の術のように思えた。
侍女のひとりに後ろから抑え込まれて、もうひとりに口から苦い液を入れられた。ほどなくして、体が脱力する。
ぼんやりとした意識の中で、侍女たちが表情なく、淡々と散らばった鏡台のものを戻していくのが目に入った。
雪解けも始まったころ、アデライーデは人前で取り乱すことをしなくなった。泣いて暴れても、何ひとつ変わらない。そうしても、誰ひとりとして止めることも、たしなめることもしなかった。ただ腫物を扱うように、周りの者は沈痛な顔をして自分を黙って見守るだけだ。
ぼんやりと鏡の前に立つ。この醜い顔も見慣れてしまった。包帯を巻き続けようとする侍女に、煩わしいからと一切やめさせた。隠したからと言って何になると言うのだ。この傷が消えるわけでもない。
鏡台の上の物はあの日以来、綺麗に片付けられるようになった。だが、その引き出しを開ければ、たぶんそこに入ってるだろう。
今頃、友人たちは、春の茶会を楽しんでいるだろうか。噂を聞きつけて、手紙をよこす者もいたが、その大半は好奇心に満ちたものだった。
このままいくと、自分は父によって選ばれた男の元に、逃げるように嫁がされるのだろう。父の事だから、年上の穏やかな人物を選ぶのかもしれない。
なんだか癪だ。貴族に生まれたからには、自分の人生を自分で決めることなどあきらめていた。だが、公爵家の令嬢として、自分には人より選択の幅はあったはずだ。
ふと思って、裁縫道具がしまわれた引き出しを開けた。中から布の裁断ばさみを取り出した。大ぶりなそのはさみを持って、再び鏡台の前へと立つ。
(いっそ修道女になろうかしら)
幸い、自分は曾祖母の遺産として、それなりの財産を受け継いでいる。その金で領地のどこかに修道院を建て、孤児の世話をして生きていくのもいいかもしれない。
筋力の落ちた腕で、なんとかはさみを髪にあてる。
「何をしている?」
不意にそのはさみを取り上げられる。振り向くと、そこには無表情のジークヴァルトが立っていた。
ジークヴァルトはアデライーデが動けるようになった今も、時々こうやって顔を出す。特に何をするでもなく、しばらくするとまた黙って帰っていくだけだ。
「髪を切ろうと思って」
「髪を?」
その言葉に、ジークヴァルトは腰まできれいにのばされたアデライーデの髪に視線を落とした。ダークブラウンのまっすぐな髪は、今でも美しく整えられている。
「わたし修道女になるの。だから髪はもう必要ないわ」
二度と夜会で美しく着飾ることもない。手入ればかりに時間がかかるこんな髪など、無用の長物だ。
「そうなのか?」
感情のこもらない声で、ジークヴァルトはそれでも少し不思議そうに尋ねてきた。
「ええ、そうよ。ねえ、ヴァルトが切ってよ」
鏡台の前に置かれたスツールに背を向けて腰かける。はさみを手にしたジークヴァルトが、一度だけ聞き返した。
「それが姉上の望むことなのか?」
「そうよ。いいから早く切ってちょうだい」
アデライーデの返答に、ジークヴァルトはアデライーデの髪をひと房持ち上げた。何の戸惑いもなく、はさみをその髪にくぐらせる。
「何をなさっているのですか!?」
横からしがみつくようにエマニュエルがジークヴァルトの腕の動きを止めた。真っ青な顔をして、ジークヴァルトから乱暴にはさみを奪う。
「姉上の髪を切ろうとしただけだ」
そっけなく言ったジークヴァルトに、エマニュエルは信じられないような目を向けた。
「髪は女の命でございます! それを切ろうなどとっ」
いつもの冷静さはそこにはなかった。エマニュエルの剣幕に、ジークヴァルトはぎゅっと眉根を寄せた。
「そうなのか?」
アデライーデに問うてみる。もう必要がないと言ったのはアデライーデだ。
「人によるわ」
冷たく吐き捨てたアデライーデにエマニュエルが苦しい表情を向ける。
「いいのよ。エマ、わたし修道女になるわ。だからもういらない」
「アデライーデ様……!」
エマニュエルが悲痛の声で叫んだ。途端にその瞳から涙が溢れ出てくる。
アデライーデの髪は何よりの自慢だった。ただ長くするだけなら誰でもできるが、美しく伸ばすのはたゆまぬ手入れと、そして長い歳月が必要だ。
エマニュエルはずっとアデライーデのそばにいた。その誕生から、ただの使用人としてだけでなく、姉のように、友のように。勝ち気でまっすぐで、誰よりも気高く美しい、そんなアデライーデの輝かしい未来を、エマニュエルは共に生きるはずだった。
エマニュエルははさみをきつく握りしめたまま、アデライーデの名を呼んで少女のように慟哭した。これ以上ないくらいに握り込まれた拳から滴り落ちる血が、冷たい銀のはさみを伝っていく。
どんな時も冷静さを欠くことのなかったエマニュエルの泣き顔に、アデライーデは呆然とした。ジークヴァルトがその拳を開かせ、そっとはさみを取り上げる。血まみれになった手のひらで、エマニュエルは自らの顔を覆い隠した。
「エマ……修道女になるなんてもう言わないわ。勝手に髪を切ったりもしないから……」
泣きじゃくるエマニュエルを抱きしめながら、アデライーデはそのときすべての感情を手放した。もうこれ以上失いたくない。ただその一心だった。
ジークヴァルトは黙ってふたりを見つめ、それ以上、何も言わなかった。
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