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最終章
105. 燃えゆく大地を往く
しおりを挟むレオンスの瞳には、一対の漆黒が映っていた。
まだ青毛の馬に跨ることはできないシモンが、手綱をひきながら愛馬と並んで歩いている。雄々しく駆ける姿を見られるのは、どんなに早くとも次の春にはなるだろう。
だが、並んで歩く二つの黒は、とても美しい。
「シモンさーん、少し休憩しませんかー?」
やや遠くをのんびりと歩いていた一対の黒に声をかける。
レオンスの呼びかけに気づいたシモンは軽くて手をあげて答えて、ゆっくりとした足取りそのままに、こちらへと近づいてきた。
二人と一頭は、冬を迎えつつある領都から少し離れた丘へと来ていた。レオンスとシモンが暮らす小さな家から見える、あの丘だ。
今日は風も穏やかで、空はどこまでも高く、青い。
領都でも冬になれば雪が降るブランノヴァでは、あと半月も経たないうちに冷たい風が大地を撫ぜるだろう。それでも今日は、暖かな格好をして、小高い丘をのんびりと歩くのには問題ない。
「退屈してないか? ただ立っているだけだと冷えるだろう」
「ううん、全然。ふたりを見てるだけで十分楽しいから」
どちらからともなく唇を重ねる。
触れ合うだけの、ささやかな口づけにレオンスは目を細めた。
長身のシモンがレオンスに口づけようとすると、その大柄な体を縮こませるようにして身を屈めてくれる。その仕草が、なんだか甘えてくるようでレオンスは好きだった。
「君から見て、どうだった?」
唇が離れると、シモンはレオンスを片腕で抱き寄せながら訊ねた。先ほど、シモンとテネブルが仲睦まじく並び歩いているのを見ていたレオンスに感想を訊いたのだ。
身を寄せると、二人の体温が混じり合って、あたたかい。
「きれいだった。シモンさんも、テネブルも。それに、春には馬にも乗れそうで安心した」
「本当は、雪が降る前にテネブルと駆けたかったんだがな」
「そう急がなくたって、テネブルは逃げないよ」
一対の人馬は本当に美しかった。
丘から見える小さな家に越してきた頃は、時折足を引き摺っていたシモンも、今日はしっかりとした足取りだ。半年振りに主と再会したテネブルも、シモンとは心を通わせられているようで、二人の歩みは実に息が合っていた。
あの様子なら、春にはもっと美しい姿を見せてくれるだろう。
春なんて、あっという間だ。
そろそろ秋が終わって、風ももっと冷たくなって、雪が降って、年が明けて……そして降り積もった雪が溶ければ、春がやってくる。
たった一つ、季節を越えればいいだけ。何年も、何十年も、季節が何巡するかを待つほどの時間ではない。
そんな想いをこめて答えると、レオンスの想いを汲んだようにテネブルが頭を擦り寄せてくる。
「ほら、テネブルもそう言ってる」
「君は本当にレオンスのことが好きだな。まったく誰に似たのやら」
眉を寄せながら笑うシモンに、テネブルは鼻息をふんっと鳴らして答えた。
馬は主に似るのだろうか?
それなら、嬉しいなとレオンスは思う。
「だが、焦る気持ちはどうしたってあるものさ。あの日、君と交わした約束を果たしたいからな」
約束とは、終戦前……ファレーズヴェルト要塞で『選択肢』を持つように命じられた、あの日のものだ。
馬を乗る姿を見たいと願って、冬の日に叶えてくれたシモン。
しかしその後、当時のレオンスにとっては耳の痛い話をされたために、シモンは「改めて」と約束をしてくれた。あの日以来、なかなか二人の都合がつかず、そうこうしているうちに皇国への進軍が決まり、約束は果たされないまま終戦を迎えた。
二人の家に引っ越してきた日、シモンはあの約束を果たしたいと言っていた。
レオンスの願いを叶えるために、小さな家を買って二人で暮らすようになって、そして足の機能回復訓練はもちろんのこと、馬に乗るために必要な筋力を取り戻すのだと日々体を鍛えている。
その成果もあって、季節が一つと少し流れる間にシモンは以前のような立派な体躯を取り戻りつつある。少しずつ、でも確実に回復していくシモンの姿に何度安堵したことだろう。
レオンスは願いを叶えてもらえるのを、ずっと楽しみにしている。
この丘を、シモンとテネブルが駆ける姿を見てみたい。
何の憂いもなく、穏やかな眼差しでテネブルと共に風を切るシモンを見たい。
そのときが来るのを、待ち望んでいる。
でも——。
「約束は……叶えてほしいけど、ずっと叶わなくてもいいな、なんて」
ぽつり、とそう漏らすと、シモンは首を傾げた。
「それは、なぜ?」
怪訝な眼差しではなく、純粋に理由を知りたいという表情。
でも、ほんの僅かに滲む不安にレオンスはふっと息を吐いて、訊ねた。
「笑わないでくれる?」
「笑わないさ」
「……シモンさんとの約束が全部叶ったら、俺とシモンさんを繋ぐものが無くなるような気がしちゃって」
シモンが息をのむ。それに苦笑しながら、レオンスは言葉を継いだ。
「二人で終戦を迎えるって約束をしたの、覚えてる? そしてそのときが来たら、俺は素直になれそうだって伝えたことも。ようやく戦いが終わって、俺は俺の想いを伝えたかった。でもシモンさんはボロボロで……。だから目が覚めるのをずっと願って待ち続けた。そうして……あなたは目覚めてくれて、俺の願いを叶えてくれた。約束を叶えてくれた。そしたら今度は馬に乗る姿をまた見せてくれると言った。今、こうしてテネブルと並んで歩くあなたを見られて……きっと春にはその約束も叶えてくれる。でもそれが叶うと、もう俺との約束はなくなって……自由になったあなたが、なんだか遠くへ行ってしまうような気がしてさ」
バカげてるだろ? とレオンスが言えば、シモンは首を横に振った。
見上げれば、高く青い空の中に森が見えた。
丘は美しく、青毛の馬は雄々しく、そこに佇む男は悠然としている。
こんなに穏やかな光景が広がっているのに、時折ひどく胸が締め付けられる。
手に入れてしまったからこそ、失うのが恐ろしい。
大切なものは、もう失いたくない。奪われたくない。
そんな考えが頭をよぎって、足が竦んでしまうのだ。
と、シモンはレオンスの想いを一滴も残らず掬い上げるようにして、冷たくなったレオンスの両手を自分の手で包み込んだ。どちらも冷えた手のひら。けれど、そこから想いがのって、レオンスに伝わってくる。
「何度でも、いくつでも、新しい約束を作ればいい。叶ったらもう一つ。それが叶ったら、またもう一つと。君が不安に思わぬように幾度だって願って、ねだって、甘えてほしい。私はそれを必ず叶えてゆくから」
「無茶な願いを言うかもしれないよ?」
「望むところさ」
意地悪く返せば、シモンも、くくっと笑ってくれる。
「それに一つだけ——どんなに願っても、長い年月がかかってしまう願いがある。その願いを叶えるには、私の生涯をかけねばならない」
なんだろう、と深い緑の瞳を見つめれば、その双眸が眩そうに細められる。
「死が二人を分かつまで……いや、違うな。私たちらしく言うのならば、何が起きたとしてもこれからも生き抜いて、己の生をまっとうする最後の瞬間まで、私は君のそばに居続ける。今度こそ、君を護って生き抜く。それが私の一番の願いであり、君への約束だ」
シモンが語る約束は、たしかに叶えるためには残りすべての人生をかけて望むものだ。願いを叶えて、約束を果たせたかは最後の最後……生をまっとうするその瞬間まで、誰にもわからない。シモンにも、レオンスにも。
けれど、きっと必ず——その約束も叶えてもらえる。
「ふふっ……いいですね、それ。でも俺、護られないといけないほど弱くないつもりだけど? 瀕死のシモンさんを見つけ出したのだって俺なんだからさ」
「はは、そうだったな。君は強いさ、私よりも。——それでも愛する者を護っていきたいんだ。私の願いを叶えてくれると約束してくれるか?」
いつしか、重ねた両手はあたたかくなっていた。
「よろこんで」
丘の上で、二人はまた唇を重ねた。
今度は深く、深く。
約束を違わぬようにと、互いの想いを溶け合わすかのように。
二年ほど前に開戦したブランノヴァ帝国とベルプレイヤード皇国の戦争は、今年の春先に終戦した。
レオンスは徴兵され、東の地で戦った。武器を持つことはほとんどなかったが、それでも一人の兵として彼の地を進んだ。
土埃にまみれ、硝煙に飲まれ、暴力と死を目の前に突き付けられながらも、生きて、生きて、生き延びた。
レオンスを蝕むものは、まだその細身の体に残っている。
薬害に、思い出したくもない凌辱の傷跡に、多くの仲間の死。ふと夢に見るのは、燃えゆく人と森。
誰のために戦ったのか。
何のために戦ったのか。
その問いに答えるのは難しい。
ある者は、家族のために戦った。
ある者は、愛する恋人のために戦った。
ある者は、想いを寄せる相手のために戦った。
ある者は、故郷のために戦った。
ある者は、誇りと名誉のために戦った。
祖国のために戦って、仲間のために戦って、信念のために戦って……己が命のために戦った。
命を賭して戦ってなお、護れたのはごく僅かで、多くのものを失った。
ただ確かなことは、レオンスは今、この地で生きている。
夕陽に燃える地は目が覚めるほどに美しく、どこまでも大地を彩っていく。
レオンスのそばには、彼がいる。
高潔な魂をもった、誰よりも強く優しい、アルファの男。
彼がこの地を駆ける限り、自分も共に往こう。
どこまでも、二人で——。
—— END ——
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
少しでもお楽しみいただけたようであれば、幸いです。
明日には、時季外れのクリスマス番外編3話と、ちょっと遅刻のバレンタインSSを投稿して、いったん作品投稿は完了となります。別サイトではオンシーズンで投稿していたものになります。
もしよろしければ、番外編もお付き合いくださいませ。
応援ありがとうございます!
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