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第四章

94. そばで感じて

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 瀕死のシモンが運ばれたのは、フュメルージュ砦内にある救護室だった。
 その部屋の一角で、シモンはずっと処置を受けている。

「レオンス、気をたしかに持て。言っただろ? お前さんがへばってると、俺がねちねち言われるって」

 処置を受けるシモンから少し離れた場所で、力なく椅子に座っていたレオンスに声をかけたのはクロードだった。
 彼はこの救護室で、次々と運び込まれてくる怪我を負った帝国兵の処置にあたっていた。敵国の軍医であったクロードに皇国兵の治療を任せられることはないが、仲間相手に何かすることはないだろうと、治療にあたることを許されているらしい。そのクロードは、先ほどまでシモンの治療を行っていた。

 手巾で手を拭いながら、クロードはレオンスの前までやってきて顔を覗き込む。

「……ったく、酷ぇ顔だな」
「すみません……」

 お前のほうこそ治療が必要そうだ、とクロードは笑った。
 彼がシモンのそばを離れているということは、ひとまず緊急性を要する治療に片がついたのだろう。シモンの周りを囲むのは、皇国軍の衛生兵たちだ。敵軍の指揮官であったシモンの命を、皇国の兵士が繋いでくれている。
 帝国軍の衛生兵の半分は、まだ捜索隊として砦周辺を捜している。残りの半分は、シモンのように運び込まれた怪我した帝国兵の処置を続けているのだ。救護室は、皇国軍と帝国軍の軍医や衛生兵が入り乱れていた。

 命の灯火を目の前にして、敵も味方もないのだろう。
 軍医たちがきびきびと動く様を、レオンスはぼーっと見ながらも、気づけば視線は一点に戻ってしまうのだった。

「あいつは昔からしぶとくて頑丈な男なんだ。まだ目は覚めんが、いずれ気がつくさ。なぁに、命は取り留めた。それは俺が保証する」

 クロードは明るい顔で笑った。それを見て、レオンスも「そうですよね」と、笑顔を返そうとする。けれど、結局はそれはできずに何とも言えない表情に顔を歪ませてしまうだけだった。

「……シモン隊長と、約束したことがあるんです」

 ぽつり、とレオンスが漏らす。
 その呟きに、クロードはレオンスの隣に座って、話の続きを黙って促していた。

「隊長たちが特攻隊として、要塞を出立したあの日。お互い、生きていようって。生き残って、終戦を迎えようって……そう約束したんです」

 あれは雪解け間近の、二月の終わりの頃だ。
 冷たくて、あたたかい指先を少しだけ触れ合わせて「お互い生きて」という言葉を交わした。あれは二人の結んだ約束で。
 あの約束があるから、レオンスは生き抜いてこれたのだと思う。

 春先の冷たい雪山を越えることも、エドゥアールからの厳しい追及も、その彼に嵌められて受けた痛く苦しくつらい行為も。ともすれば絶望へと転げ落ちそうなときであっても、レオンスは「生きて、また会う」ことを心の拠り所として進んでこられた。

「戦争は終わりました。隊長も、生きててくれた。……今は、それを感謝するしかないですよね」
「そうだな。あいつは生きてるし、俺たちも生きてる。それは、あいつを見つけてくれたお前のおかげだよ、レオンス」
「いえ。シモン隊長の命があるのは、クロード先生や皇国兵の方々のおかげですよ」

 彼が燃やす命に対して、レオンスは何もしていない。
 会いたいという一心で、捜索隊に加わって、偶然にも小屋が目につき、シモンたちを発見しただけだ。大柄なシモンを一人で運び出すこともできなければ、その場で応急処置をすることすらできなかった。ただ血に塗れて倒れるシモンを見て、情けなく声を上げただけだ。

「ただ……隊長には、伝えたいことがあるんです。隊長が……シモンさんがくれた言葉に、俺は返事をしたい」

 シモンがくれた、自分を好きだという言葉。
 はじめはシモンに抱かれていることが心苦しかった情交の最中に。その次は、シモンが要塞を出立したあの日に。
 そのどちらのときも、シモンはレオンスに返事を求めなかった。想いを告げたかったのだとだけ言って、あとはレオンスを追い立てたり、多くを求めたりしなかった。そこに大きな愛があることに、レオンスは気づいていたのに。

 あのときは、素直になれなかった。素直になる勇気がなかった。
 けれど今は、あのときに形づいていなかった感情に名前をつけることができる。レオンスがシモンに伝えたとおりに、前よりも少しは素直になれた自分がここにいる。それをシモンに伝えたい。教えたい。

 戦地を生き抜いたレオンスを置き去りにして、どこかに行ってしまわないでほしい。
 同じく生き抜いたのだから、どうか目覚めてほしい。
 生きたことを共に喜んで、あの深い緑の瞳で見つめてほしい。
 低く心地の良い声で名前を呼んでほしい。

「あいつのこと、待っていてやってくれるか」
「はい。それは、もちろん」

 そうレオンスが答えると、クロードはほっと息を吐いて、再びシモンの治療へと戻っていった。
 命を取り留めたとクロードは言うが、まだまだ予断は許さないのだ。クロードは長年の友の、命の灯火を絶やさぬようにと、己ができることに向き合っていく。その後ろ姿には僅かに、寂しさとやる瀬なさが浮かんでいるようだった。

(ああ……匂いが、薄いな……)

 シモンが治療を受ける姿を、レオンスはなおも、祈りながら見つめ続けた。

 血と消毒液と薬品の匂いで満ちるこの部屋は、レオンスの不安を煽るのには十分だ。レオンスが嗅ぎたいのは、この匂いではない。包まれたいのは、あの深い森林の中にいるかのような、澄んだ木々の匂い。
 あの匂いに包んで、この場所から今すぐ連れ出してほしい。

 ——この一年でレオンスに植えつけた、シモンという男の気配をもっと近くで感じさせてほしい。

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