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第二章

49. 弊害

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 翌朝、酷い吐き気と息苦しさと共にレオンスは目を覚ました。
 朝とはいっても、もはや昼に近い時間帯のようだ。カーテンを開ければ、陽が部屋の中へと差し込んできた。

「……ぅぅ、っ…………気持ち、悪ぃ……」

 レオンスは体を折って、口元と腹の上あたりを抑えた。目を開けるも、今度は目眩で余計に吐き気が増す。息苦しさが続き、胸が苦しいのか胃が痛いのか、よくわからなかった。
 すべての不調は、昨日打った緊急時用の抑制剤のせいだ。

 このままベッドに横になっていたいが、レオンスは自分と緊急薬の相性の悪さを知っている。このまま部屋に居続けても症状は改善しないどころか、より強い副作用が現れたときに自分の身に何が起きるか心配だった。
 一人でいないほうがいい。

「服……なにか、着ないと……」

 レオンスは、部屋の壁にかけていた清潔なシャツとスラックスを手に取って、のそのそと身につけていく。昨日、急にヒートが起きたときに着ていた支給された制服は、床の上でぐしゃぐしゃに皴を寄せて置かれていた。あとで洗濯場に行って洗う必要がありそうだが、今はそれよりも行かねばならぬところがあった。

 頬や顎に涙が渇いた痕があって、顔が不快で仕方がなかったが、手元に濡れた布などない。
 予定通りに発情期が来ていれば、盥に水を張って持ってきたり、水差しを多めに用意することもできたが、昨日のヒートはまったくの予想外だったので準備もできずに部屋にこもってしまったからだ。
 昨日の朝、作業へ行く前に残っていた枕元の水差しもすでに空。発情した自分を慰めている途中で全て飲み干してしまっていた。

 顔は酷い有様だろうが、少なくとも衣服を身につけて部屋の外へと出られるくらいには身支度を整えたため、レオンスは不調に耐えて扉に手を掛けた。その扉についている小さな閂錠の鍵には、留め具と棒が紐でぐるぐる巻きに固定されている。昨日レオンスが施したものだ。
 今この瞬間も紐は切れることなく、扉を固く閉ざすくびきとなっていた。

(……よかった、誰にも会わずに済んだみたいだ)

 余程、誰にも会いたくなかったのだろう。
 ぐるぐるときつく巻かれた紐を解くのに幾分苦労したが、レオンスはなんとか紐を解き、鍵を開けて廊下へと出た。

 不安ではあったものの、緊急薬は効いたようだ。今のレオンスは発情状態からほとんど抜けつつあった。
 昨日はなかなか冷めない熱に、もしや何日もこの状態が続くのでは……と不安にかられたが、薬が効いてくれたことに安堵する。だからこそ、副作用による体調不良ではあるのだが。
 ともあれ、発情が収まった今の状態であればアルファやベータに会っても支障はない。多少、互いのフェロモンを感じることはあれど大事には至らない。自分の状態がわかっていたからこそ、レオンスは部屋を出られたのだ。

 部屋を出て向かう先は、救護室だ。今のレオンスには、医者の助けが必要であった。

「レオンス……?」

 壁に手をつきながら、ふらふらと廊下を進んでいると名前を呼ばれた。

「あ……ジャン、班長……」
「……っと、危ない!」

 顔を上げれば、見知った姿が数メートル先にあって、レオンスはふっと体の力が抜けてしまった。床に体を打ちそうになったところを、慌てて駆け寄ってきたジャンに支えられる。目が回っているため視界が悪かった。

「すみま、せん……俺、救護室に……行こうと、思って」
「わかった。俺が連れて行こう」

 ジャンはベータだが、元より軍人ということもあって体格は良い。しかしレオンスの矜持を慮ってか、その体を腕や背中で抱え運ぶことはなく、肩を貸して並んで歩いてくれた。





 あらかじめアメデとオーレリーが伝えてくれていたのか、救護室では軍医のクロードが待機してくれていた。
 救護室に着くやいなや、いよいよ体力が限界だったレオンスは支えてくれていたジャンの腕をすり抜けるようにして床にへたり込んでしまった。目が回って、視界がぐらつく。吐き戻しそうなのは、なんとか必死に堪えていた。
 ジャンが大丈夫かと声をかけてくれているが、それに返事をする余裕はない。

「……っ、ぅ……」

 レオンスはただ、沈痛の声を漏らしていた。
 その間に、ぐったりした体を衛生班の兵が手際よく支えて、救護室の奥にあるベッドへと運んでくれる。

「ほら、横になっとけ。昨日、急にヒートになって緊急薬を打ったって?」
「っ、はい……。でも俺、緊急薬は……あんまり打つなって……言われて、て」

 レオンスは回る視界に眉を寄せながらも、クロードに自分と緊急薬との相性が悪いことを伝えた。
 過去にあったのは、いつもの市販薬では起きないほどの吐き気や、頭が割れるほどの頭痛。高熱が出たり、全身に蕁麻疹ができたりしたこともある。呼吸が困難なときすらあった。いずれもその都度、かかりつけの医師に診てもらい大事には至らなかったが、なるべくなら緊急薬は使わないようにと言い含められていた。

 とはいっても、万が一のときに緊急薬を使わないのも難しい。現に昨日のようなことがあれば、レオンスは躊躇いながらも注射を打つしかない。

「あー……そんじゃ、お前さん、もともと強い抑制剤には過剰反応しがちな体だったんだな。まぁいい。何も起きないように見ておいてやるから、ここで休め」
「ありがと——……ぅ、ぷっ……」

 礼を言おうとしたところで胃が中身を吐き出そうと動いた。クロードがレオンスの背中に手を当てて、体を横に向けてくれたと同時に逆流する。差し出された盥に、酸っぱい臭いの液を吐瀉してしまった。昨日は朝食と昼食をとったあとは、何も固形物を口にしていなかったために、出てくるのは胃液ばかりだ。

「……ぅぅ……」
「ありゃ、相当ひでー症状だなー。おーい、点滴と吐き気止め持ってきてくれー」

 横向きになってベッドに沈む。
 大丈夫だ、と声をかけてくるクロードに返事もせずに、ぐったりと身を預けていた。迷惑はかけたくないのだが、体の調子が本当に悪くて、気力でどうにかなる範囲を超えてしまっていることが自分でもわかった。

「……寒い……」
「どれ……あー、熱も上がってきたな。解熱剤も必要かー。ほかに出てる症状はーっと……」

 指示を飛ばす声がレオンスの上を飛び交っている。その内容は頭の中をすり抜けていって、レオンスは息をするだけでいっぱいいっぱいだった。唯一の救いといえば、間延びしたクロードの声がのんびりしていて、それが深刻さを緩和してくれたことだろう。

 眠ったほうがいいとクロードが言っていたが、しばらくは眠ろうにも体が熱かったり寒かったり、気持ち悪かったりで目を閉じていても意識が落ちていく感じはなかった。クロードや衛生班の兵が点滴をしてくれたり、汗でベタつく額や首を拭ってくれるのを受けながら、痛みや苦しさに藻掻く。衣服を脱がされて、あちこち診察されていったが、レオンスは指先一つ動かすのにも苦労するほどで、とにかく呼吸をしているのに精一杯であった。

 その間、迷惑をかけていることを謝罪する言葉を何度も口にした気がする。それにクロードや衛生班の兵が「気にするな」だとか「いいから任せろ」だとか返事をしてくれた。
 客観的に見れば、彼らは彼らに与えられた任務をしているだけなのでレオンスがそこまで気に病むこともない。だが、戦闘で傷を負ったわけでもないのにベッドを占領し、軍医の時間を割いている自分が許せなくて、レオンスは譫言のように謝り続けていた。

 それでもしばらくすると体が疲れていたのか、レオンスはいつしか眠りへと落ちていった。

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