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城のルール

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 城への手続きを終え、晴れて私達は調教師と献上品として城へ住む事になった。
 何重にも渡るセキュリティをパスし、城内にある広大な国定公園をバイクで抜けると、目も眩む様な超高層ビルが私達2人を出迎えてくれる。
 私と氷朱鷺はバイクを降り、あんぐりと口を開けて雲の先にあるビルのてっぺんを見上げた。
「凄いね。てっぺんは空気が薄いんじゃないかな」
 私は見上げ過ぎて首に痛みを覚える。
 東部国の国力の凄まじさを象徴した立派なビルだ。頂点までびっしり並んだ窓がスパンコールの如く光を反射させ、神々しさを纏っている。
 私はその猛々しいまでの高圧感に圧倒されていた。
 今日からここで他のライバル(調教師や献上品)達としのぎを削るのか、果たして氷朱鷺は最後まで耐えられるんだろうか?
「氷朱鷺、不安じゃない?不安だったら──」
「不安なんて無い。僕は何も怖くないし、絶対に誰にも負けない」
 私の心配をよそに、氷朱鷺はビルの頂点を真っ直ぐ見据え、闘志を燃やしていた。
 そんな彼の勇姿を隣で見ていて、私は漠然と、氷朱鷺ならやり遂げるんじゃないかと思えた。目には見えないけれど、彼にはそれだけの強いオーラがあった。


 そして、ビルの中階にある2LDKの風呂、トイレ、家具付きの殺風景な部屋から、私と氷朱鷺の挑戦の日々が始まる。
 最初は互いに手探りでうまくいかない事ばかりだった。
 戦う事しか知らなかった私は、調教師講習会でヘマをして恥をかいて以来、射撃の訓練や、氷朱鷺の世話や調教をした後、彼が寝静まってから毎日徹夜で調教師のノウハウやらテーブルマナーやら学校で習う教科やら人間心理学を必死になって勉強した。そのせいで日中、私は調教師講習会でうたた寝をして、隣の席の菖蒲(ショウブ)に肩を叩かれるのがマストになっている。因みに菖蒲は私より4つ上の室町時代のお姫様カットをしている黒髪の唐美人。綺麗な人だが、どこか影があり、幽霊画みたいな雰囲気を持っている。性格は慎ましく穏やかで、柳(ヤナギ)という赤毛にソバカスがトレードマークの素朴な11歳の少年の調教師をしている。菖蒲とは住んでいる部屋が隣で、ライバル同士なのに良くしてもらっている。
 調教師の射撃の練習でも、菖蒲が銃や道具の借り方等をあれこれ教えてくれて、私は私で、射撃が苦手な菖蒲に手取り足取りレクチャーしていた。
「調教師が射撃の練習って事は、調教師は献上品を命がけで護らなきゃいけないって事ですよね?」
 私は6発全ての銃弾を人型の型紙の急所にヒットさせ、満足げに尋ねると、菖蒲は朗らかに──
「そうだね」
 ──と頷いた。

 なんだかんだ、私は曲がりなりにもなんとか調教師をやっていた。
 しかし一方の氷朱鷺はと言うと、元々天才肌もあり、文武両道で勉強も運動も常にトップをキープしていたのだが、なにぶん人見知りの為、私が付いていない時はいつも独りだった。

「氷朱鷺、今夜は調教師長から呼び出されてるから、1人でお風呂に入るんだよ?」
 私はジャケットに手を通しながら、リビングで勉強していた氷朱鷺に声をかける。
 私は調教師のリーダー長である白髪の老紳士に電話で呼び出しをくらい、慌てて身支度をしているところだった。
「え、エデン、遅くなるの?」
 氷朱鷺は途端に不安そうな顔をし、ペンを投げ捨てて引き止めるように私の腰に引っ付いて来た。最近は私が夜部屋を出る時はいつもこの調子で困る。
「さあ、何を言われるか、何をやらされるか解らないから、先に寝てて」
「エデン、今夜は雷が鳴りそうだよ」
 氷朱鷺が駄々を捏ねて私の腹部にグリグリと頭を押し付けてきて、私は彼が可哀想になり、つい後ろ髪を引かれてしまう。
 駄目だ、流されるな。
 私は自分にそう言い聞かせ、氷朱鷺を体から引き剥がした。
「そういう日は隣の柳君の部屋にお邪魔させてもらえばいいでしょ?柳君はいい子なのにどうして仲良くしないの?」
 私がしゃがんでそう尋ねると、氷朱鷺はそっぽを向いて口を尖らせる。
「僕はエデン以外いらないし、エデンがいればそれでいい」
 氷朱鷺には、その類稀なる秀でた容姿から、男の子でありながら友達になりたがるミーハーな少年達が次から次へと寄っては来たが、彼はその全てを無下に突っぱね、私以外を徹底的に寄せ付けなかった。
 こんなんで、2つ歳上の王女の伴侶が務まるのか……
「私は氷朱鷺に、王女の旦那さんになるまでに沢山の友達を作って、豊かな子供時代を送ってほしいと思ってるのに、これじゃあ氷朱鷺の将来が心配で仕方がないよ。勉強も大事だし、私に甘えてくれるのは嬉しいけど、子供は子供らしく友達と遊ぶ事も時には大事なんだよ?」
 私がそうやって諭すも、氷朱鷺のヘソは曲がったまま。彼はぶつくさと恨み節で私から離れ、背を向けてテーブルに着いた。
「……僕、エデンが帰るまでお風呂に入らないで待ってるから、絶対早く帰って来てね」
「分かった。雷が鳴る前に帰るから、いい子でお留守番してて」
 氷朱鷺は普段は聞き分けのいい良い子なのに、こんな時ばかりは年齢よりも子供っぽくなっている気がする。
 うちの弟でもここまでじゃなかった気がするんだけど、血の繋がりによるのかな?
 私は氷朱鷺の事が気がかりではあったが、そのまま部屋を後にした。


 私がせかせかと上階にある応接室に入ると、既に老紳士が革張りのソファーでコーヒーを飲んでおり、私がかけるであろう対面の席にも湯気のたったコーヒーがセットしてあった。私はそれを尻目に、腰を低くしながらおめおめとコーヒーの前に座る。
「すみません、お待たせして」
「おやおや、子供が離してくれなかったですか?」
 老紳士は白髪混じりの口髭を触りながら恵比寿顔で人の良さそうな笑みを浮かべていた。
『なんか良さそうな人だな』私の、彼に対する第一印象がそれだ。
「君のとこの白井氷朱鷺はあの年齢で既にあれだけの器量と妖艶さを持っている、が、君にべったりで、まだまだ甘えたい盛りのようだね」
 老紳士はテーブルに広げていた資料を手にし、そこに視線を落としている。
 あの資料には何が書かれているのだろうか?
「恐れ入ります。よくご存知で。彼は親に捨てられたせいか、寂しさを埋める為、私に甘えているのだと思います。さすがに一過性のものだと思うので、大きくなったら人並みに反抗期を迎え、親離れすると思います」
「それでも、君はこの短期間であの子を上手に育てていると思うよ。聞いた話では、あの子は君以外に心を開かないとか?」
 老紳士はそう言って私にコーヒーを勧め、私はそれに軽く口を着けた。
 一体、誰から聞いた話なのか、まるで見張られいるようだ。褒められているのに素直に喜べない。
「とても人見知りでして……」
 私は恐縮して肩を竦めた。
「そうか。ともあれ、成長が楽しみだ。私は調教師のリーダーとして長年様々な子供を見てきたが、あの子は容姿や成績もさることながら、飛び抜けて覇王のようなオーラを纏っている。うまくすれば王女の伴侶として国を動かす存在になるだろう」
 この人は、とても穏やかに話す人だな。
「とんでもないです。まだまだ未熟で、とても恐れ多いです」
 氷朱鷺のただならぬオーラには、周りも気付いているのか。
 謙遜こそすれ、自分の献上品を褒められて嫌な気はしない。私は寧ろ誇らしくもあった。自分でも、まだ幼い氷朱鷺に素質を感じていたところはある。なかなか満更でもない。
「これからも大事に育ててやって下さい」
 老紳士は資料をテーブルに戻し、にこやかに私に笑いかけてくれた。
「はい、勿論です。氷朱鷺の幸せの為に尽力します」
 私が背筋を伸ばしてそのように意気込むと、老紳士はコーヒーを指し『まあまあ、リラックスして』と笑った。
 私は言われるがままソーサーごとカップを持ち上げ、熱いコーヒーをグビグビと飲み進めていく。これさえ飲み終われば帰れるような気がしていたからだ。
 チラリと掛け時計を確認し、急いでコーヒーを煽る。
「それから、多摩川さん、大事な事を言い忘れてました」
「大事な事?」
 私は一旦コーヒーカップから顔を上げた。
「これを」
 と言って老紳士がソファー脇に立て掛けていた革の鞄から古ぼけた一丁の拳銃を取り出し、それをゴトリとテーブルに置く。
「これは?」
 私は小さい頃から銃に慣れ親しんできたから解る。これは本物の銃だ。
 何故、今、この老紳士が、この場に相応しくないそれを私の目の前に置いたのか、理解に苦しむ。
 護身用にくれるのだろうか?
 単純に老紳士は、私が女で、若くて非力だと思い、私や献上品の身を護らせる意味でそれを差し出したのだと私は思った。

 しかし事態はそんなに単純ではなかった。

 老紳士は相変わらずの恵比寿顔でこう言った。
「この銃には一発の弾丸が入っています。貴方は常にこれを帯刀し、もし自分の献上品が逃げ出そうとしたり、謀反を起こそうとしたら、責任をもってこれで撃ち殺して下さい」

「え?」
 一瞬、私は老紳士が何を言っているのか理解出来ずフリーズした後、脳内を整理し、途端にコーヒーカップを持つ手が震え出す。陶磁器製のカップとソーサーがぶつかるガチャガチャとした音が室内に響いた。
 今『撃ち殺せ』って言った?
 私が、氷朱鷺を?
 私の心は恐怖で打ち震えていた。
「どうしてっ!?」
 子供相手にそこまでする必要があるのか、私には納得出来ない。
「貴方も射撃の練習をしましたでしょう?城や国の機密を守る為です。大昔、同じ理屈で沢山の花魁が殺された歴史をご存知でしょう?それと同じ事がここでも行われています。献上品は王家の芯部に触れる役職なのです。国を守る為、子供とて容赦する訳にはいかないのです」
 あの射撃の練習が、献上品を撃つ為のものだって?
 いくらなんでもやり過ぎだ!
「だからって、たかだか子供が逃げ出したり、反抗したくらいで、やり過ぎなんじゃないですか?相手は子供なんですから、尻を叩く程度の罰で──」
「多摩川さん、何か誤解をしているようだが、調教師は献上品の幸せの為に彼らを調教しているのではなく、王家や国の繁栄の為に献上品を調教しているのです。だから調教師は国家公務員扱いなのですよ?勘違いしてはなりません」
「それは……」
 確かにそうだ。調教師や献上品の言い分はどうあれ、ここは国の中枢で、求められるのはそれら個人の幸せではなく、国の繁栄だけなのだ。それは頭では解っている。解っているし、仕方のない事だが、あまりにも残酷過ぎやしないか?

 もし氷朱鷺が国を裏切るような事をした時、私に彼は撃てない。

「寧ろ、他の警備兵に見つかってその場で我が子を射殺されるより、大切に育てたその手で殺してやった方が献上品の為になるじゃないですか。ですが、なぁに、心配しなくても、多摩川さんが白井氷朱鷺の育て方を間違えさえしなければ、これは使われる事無く次の調教師に引き継がれます」
 そう微笑んだ老紳士の恵比寿顔は、悪魔でも見ているようだった。
 引き継がれるだって?
 老紳士の言葉に、その古ぼけた拳銃の銃口を凝視すると、そこに焦げて煤けたような跡を見つけ、私は背筋がゾッとした。


 2時間後、夜中に部屋に戻ると、氷朱鷺はテーブルに広げたテキストの上に突っ伏して寝ていた。
 無邪気なものだ。
 私は老紳士から受け取った銃を、同じく支給されたホルスターに収め、胸部に装着していた。上には緩めのシャツを着ているので、触らなければ外観上、銃を所持しているようには見えない。
 いくら規則とは言え、これは絶対に氷朱鷺には見せられない。氷朱鷺がこの事実を知ってしまったら、酷く傷付くだろう。 
 氷朱鷺の天使のような寝顔を見て、私は彼を護りたいと思うのに、彼が間違いを犯した時、私はこの手で彼を──

 私には出来ない。

 そんな事、したくない。
 その為にも、私が氷朱鷺を正しく育てなければ。
「氷朱鷺、私は絶対にお前を撃ったりしないから、私の言う事をちゃんと聞いてね」
 私は氷朱鷺を起こさぬよう、そう呟いた。
 そして私は氷朱鷺をそっと抱き抱え、隣の寝室へと運び、彼のベッドに寝かせた。
「お風呂は明日の朝にしようね」
 そう言って私はリビングで夜明けまで猛勉強し、朝方、寝室にある自分のベッドに着く。


 翌朝、目覚めると氷朱鷺は私のベッドに侵入していて、安らかに寝息をたてていた。
「やれやれ手のかかる子だな」
 なんだかんだ言いつつ、こうして氷朱鷺の無邪気な寝顔を見ていると、自分の方こそ離れ難くなるのだから私も大概だ。
「ずっとこのまま大きくならなければいいのに」
 そうしたらこの幸福感がずっと続くのに。
 もうそろそろ起きなければならない時間だったが、私は氷朱鷺を抱き抱えたまま、暫く布団にくるまっていた。


 それから2人で、私が作ったスクランブルエッグともつかない目玉焼きを食べた後、天気も良かったのでそのまま城のグラウンドで乗馬の練習を始める。
 ──と言っても、氷朱鷺は馬に触れるのも初めてだったので、まずは相棒になる黒いサラブレッドと触れ合う事から始めさせた。
「氷朱鷺、動物は好き?」
 私は手本を見せるように優しく馬の首を撫で、用意していた人参をそいつに与える。馬はボリボリと音をたて、ポッ○ーのようにそれを食べ進めていく。
「好きかどうか、興味が無くてちゃんと向き合った事がないから……」
 氷朱鷺は自信がなさそうに私の後ろに隠れている。
 いきなりこんなデカイ動物相手じゃ怖かったかな?
「氷朱鷺は何にしても食わず嫌いなとこがあるからね。ちゃんと向き合ってみたら、意外とわかり合えるもんだよ?」
 心配ではあったが、私はそう言って氷朱鷺に人参を託すと、彼はおっかなびっくりしながらそれを馬に与えた。
「凄い……ムシャムシャだぁ……」
 氷朱鷺は変なところに感動し、夢中で人参を与え続ける。
 氷朱鷺もまだまだ子供だな。
「噛まれないように気をつけてね」
「うんっ!」
 あまり私以外に笑顔を見せない氷朱鷺だったが、今は目の前の馬に向かって満面の笑みを浮かべている。
 微笑ましい。馬面だけど、氷朱鷺にいい友達が出来たみたいだ。
 それから氷朱鷺はその馬に『リャマ』と名前を付け、乗馬の時間には持参した人参やトウモロコシ等をあげて可愛がった。


 そして今日も、曇り空から日が差したタイミングで氷朱鷺とグラウンドに出て、2人でリャマのブラッシングをしていた。
 すると、乗馬のレッスンを終えた1人の少年が立派な白馬を連れて氷朱鷺の元を訪ねて来る。
 彼は氷朱鷺より8歳も上の献上品で、14歳になる王女の遊び相手として既にお務めをしている年長者だった。氷朱鷺程ではないが、彼も献上品としての資格をもつだけあって、容姿端麗で顔もスタイルもマネキンの様に整って品もある、まさに白馬の王子様だ。
 これで18か、氷朱鷺と比べるとかなり大人っぽいな。程よく筋肉質で、髭も青くて男らしい。女の子みたいな氷朱鷺でも、いずれこんな風貌になるのだろうか?
 私が少年の外見に感心していると、氷朱鷺がムッとしたような顔でこちらを睨んできた。
 かわいいな、ヤキモチ妬いてるのか。
 私が思わずクスッと笑っていると、少年が氷朱鷺に向かってニコニコと話し掛けてきた。
「君が白井氷朱鷺君だね?」
「……」
 氷朱鷺がブラッシングしたままスルーしようとしたので、私はすかさず氷朱鷺の脇腹を小突き『ちゃんとして』と目配せすると、彼は仕方なさそうにわざとため息をついて口を開く。
「何の用ですか?なんで僕の名前を?」
「君は献上品の間では有名人さ」
 少年は真っ白な歯を見せて爽やかに笑ったが、氷朱鷺はそれに目もくれず、ブラッシングの手を止めない。
「君は──」
 見かねた私は助け舟を出すも、私は少年の名前が出てこず、逆にドジを踏んだ。
「僕は月波。今は献上のトライアル中で、王女の遊び相手をしています」
 月波は人懐こい笑顔で私に会釈してくれたが、それを見た氷朱鷺が『僕の調教師に話し掛けないで』と彼を牽制し、私は肝を冷やす。
「こら、氷朱鷺!お兄さんになんて事を言うの!」
 私が氷朱鷺を叱りつけると、彼は拗ねた様子で俯いた。
 子供だな。
「ごめんごめん、無神経な事をしたね。じゃあ、このお馬さんになら話し掛けてもいいかな?」
 月波が苦笑いしながらリャマの首を撫でると、氷朱鷺は黙って僅かに頷いた。
「いい馬だね。よく手入れがされてて、穏やかな目をしてる。名前はあるの?」
「リャマ」
 氷朱鷺がぶっきらぼうに答えると、月波は目を丸くしてクスクス笑う。
 月波は優しげで雰囲気も柔らかいし、私は、氷朱鷺のいいお兄さんになってくれるといいなと思った。
「え、リャマ?ややこしいけど、いい名前だね。僕が連れてるのはシロだよ。他の人が乗る時はタマって呼ばれてたけど、食いしん坊で、カボチャが好物なんだ」
「え、馬って、カボチャも食べるの?」
 氷朱鷺が月波の話に食いつき、ブラッシングの手を止めて彼の顔を見上げた。
「食べるよ。ほら、あげてみるかい?」
 そう言って月波が腰のポシェットからカボチャを取り出し、氷朱鷺に手渡すと、氷朱鷺は嬉しそうに笑い、それをリャマに与えた。
 おおっ。
 氷朱鷺が私以外の人間と楽しそうに会話しているのを見て、私は親にでもなった気分で感動していた。
 やっと一歩成長したね、氷朱鷺。
 公園デビューならぬ、グラウンドデビューだ。
「こんにちは、エデンさん。うちの月波がお邪魔してすいません」
 私のすぐ後方から春風のような耳触りの良い声がして振り返ると、短い赤毛とソバカスが印象的な一重のアジアン美人が立っていた。
 歳は20代半ばくらいか、何度か見かけた事はあるけど、なにぶん覚える事が多くて名前が出てこない。というか、逆に何故私の名前を知っているのか?
 調教師だけでも何十人といるのに。
「あの、こんにちわ」
 私が慎重に言葉を選ぶと、何かを悟った彼女が自ら名乗り出てくれた。
「どうも、私、郡山です。月波は以前から、異彩を放つ氷朱鷺君に興味津々で、私も、エデンさんとは一度お話したいと思ってたんです」
 郡山は月波同様、人懐こい感じを醸し出し、柔らかい雰囲気をしていた。
 他の調教師達は割と目が血走ってピリピリしているのに、話しやすそうな人だな。
「え、どうして私なんかと?」
 氷朱鷺程ではないが、私も人付き合いは苦手な方だ。
「エデンさんと氷朱鷺君のペアは目立つから、有名ですよ。入ったばかりなのにとびきり仲が良くて、傍から見ててほっこりしていましたし」
 悪目立ちとかじゃないだろうな?
「はぁ、そうですか。他のペアの方々はそうでもないんですか?」
 私は少々気後れして尋ねる。
「調教師と献上品は離れ離れになる運命ですからね、調教師も献上品も、皆、一定の距離をおいています。まあ、始めからビジネスとして献上品を育てている人もいますが、結局、情が移る人が大半です」
 そう語りながら郡山は、氷朱鷺と雑談する月波を憂いの目で見ていた。それはまるで、我が子でも見ているように。
「全然実感は無いんですけど、一種のパピーウォーカーみたいなもんですよね?きっと、氷朱鷺が献上される時、私は嬉しさよりも寂しさのが勝るんだろうな……」
 気が付くと、私も郡山のように憂いた目で氷朱鷺の横顔を眺めていた。
「うちは既に献上トライアル中なんで、正直、別れるのが辛いですよ。月波がこんな小さい頃から育ててたんで、我が子も同然でしたし。王女の伴侶にはなれなかったとしても、せめて間男にでもなれればと思ってます。選ばれずに西部国軍の最前線兵にされるよりはずっといいですからね」
『こんなに』と言いながら郡山は自分の腰の辺りを手で指し示す。
「泣き虫で強情っぱりだったのに、あんなに大きくなって、男らしくなるなんて……子供の成長は本当に早いです」
 私は郡山を見ながら、自分も8年後辺りにはこんな事を言っているのだと思ったら、とても切なくなった。


 明くる日、その日はいつも通り乗馬の練習をしに氷朱鷺とグラウンドに来ていた。
 今日も氷朱鷺はお目当てのリャマと一緒に乗馬を楽しもうとリャマの好物であるトウモロコシを持って来ていたのだが、今日に限ってグラウンドが混み合っていて、年長の献上品の子がすでにリャマに跨り、若い女調教師から楽しそうに乗馬の指導を受けていて、氷朱鷺は残念がって私と木陰に座ってその順番を待っていた。
『早く空かないかな』なんて2人で話しながらリャマを見ていると、突然、その脇でシロに乗っていた月波がシロの腹を思い切り蹴飛ばし、シロは尻に火でも着いたかの如く走り出した。
 私達は何が起こっているのか理解しないままその動向を遠巻きに見ていると、月波の異変に気付いた周りの調教師達が口々に『脱走だっ!!』と声をあげ、彼を指差した。
「脱走って……そんな……」
 私はすぐに老紳士の言葉を思い出す。
 献上品が逃げ出したら、調教師は……
 胸に括られた銃が鉛の如く重く感じられた。
 私は立ち上がり、必死で馬を走らせる月波を目で追いながら『逃げて!』と強く祈った。
 しかし私の願いも虚しく、少年を指導していた郡山が慌てて馬で彼の後を追い、腰に手を当てたかと思うと、次の瞬間──

 パァーンッ!!

 ──取り出した拳銃で少年を撃った。
 グラウンドに銃声の弾ける音が響き、頭を撃ち抜かれた月波は人形の如く前のめりに落馬する。
 全てが一瞬だった。月波は弁解の余地なく、自らの調教師の手によって何の躊躇いもなく無惨に殺された。
 私達調教師が、来る日も来る日も射撃の腕を磨いていたのは、献上品を護る為でも何でもなくて、こんな時の為だったのだ。
 なんて残酷な……
 私は少年兵として止むにやまれず敵兵を射殺してきたが、相手はあくまで敵であり、仲間を撃つ事はなかった。何が悲しくて、自分が手塩にかけた子供を殺さなくてはいけないのか、国や城に対する不信感が募った。
 私は咄嗟に、動揺する氷朱鷺の頭を抱え込み、視界を遮るが、時既に遅く、彼は目を見開いたまま茫然と佇んでいる。
「エデン、僕……エデンは僕の事……殺したり……しないよね?」
 私の胸元から氷朱鷺のくぐもった声がして、そこがじわりと温く湿った。私は、弱々しく震える氷朱鷺を胸で感じ、その肩を力強く抱き寄せる。 
「私は絶対に氷朱鷺を殺したりしない。約束する。私が氷朱鷺を守るから」
 絶対にこの手を離しては駄目だ。
「エデン、絶対に僕の事を殺さないで!僕から離れないで!約束して!」
 氷朱鷺がそうして泣きじゃくり、私はより一層彼を強く抱き締めた。


 そして次の日、郡山が自室で首を吊って亡くなっているのが発見される。
 その日は朝から涙雨が降っていた。
 精神的なものか、氷朱鷺は高熱にうなされ、ベッドから起き上がる事すら出来なかった。
「氷朱鷺、何か食べよ?」
 と私が薬やら果物やらヨーグルトやら水をトレイに乗せて寝室に入ると、氷朱鷺は僅かに首を横に振ってそれを断る。
「何か食べないと薬が飲めないから、無理してでも食べなきゃ」
 私はベッドに腰掛け、膝の上にトレイを乗せた。
「……べたくない」
「いいから」
 そう言うと、私は氷朱鷺の上体を起こし、スプーンでみかんの缶詰を掬って彼の口元にそれを差し出す。
「みかんの缶詰。風邪をひいた時はこれが一番なんだよ」
「……」
 氷朱鷺は熱に浮かされながらもそっとスプーンに口を着けてみかんを一粒食べた。
 良かった、食べてくれた。
「冷たくて美味しいでしょ?」
 氷朱鷺は答える代わりにスプーンに残ったもう一粒のみかんも食べてくれた。
「ヨーグルトは?みかんと混ぜる?」
 私がそう尋ねると、氷朱鷺は首を横に振って『みかんだけ』と言う。
「氷朱鷺はみかんの缶詰が好きだったんだね。知らなかった」
「……うん、本当のお母さんも、僕が風邪をひくと、こうしてみかんの缶詰を食べさせてくれたんだ。エデンの家は?」
 本当のお母さんか、両親共に亡くなったと聞いたが……義理の母親はあまり良くない人だったらしいけど、本当の母親は良い人だったんだろうな。
「ううん。弟や妹には私が食べさせたけど、私自身はそんな事なかったな。風邪をひくとお母さんが優しくなるって言うけど、私は長女だったから甘えられなかったし、風邪をひいても迷惑をかけられないからひたすら隠してた。家は貧しかったからね、生まれた時から何かを背負わされていた気がしてた」
 今はそうでもないが、まだ多感だった頃は、自分は働き手として売られる為に両親に作られたのだと人生を悲観した事もあった。
 しかし皮肉な事に、両親から家を出された時は胸のつかえがとれたような気分だったのを覚えている。
「ごめんなさい」
 無意識に私が憂いていたせいか、氷朱鷺が苦しそうに反省していた。
「あ、ごめん、謝らないで。家を出されてからは杉山さんが母親の代わりに面倒をみてくれて、こうしてみかんの缶詰を食べさせてくれたし」
「……」
 黙った。杉山さんの話はするだけでタブーなのか?
「エデンが風邪をひいたら、今度は僕がエデンにみかんの缶詰を食べさせてあげる」
 それは氷朱鷺の優しさか、それとも杉山さんと張り合っているだけなのか、そこら辺の事はよく解らないけれど、私は、実家には見い出せなかった居場所を彼自身に見い出していた。
 私にとって氷朱鷺は、もはや本当の弟のようにかけがえのない存在になっていたのだと思う。だから、もし氷朱鷺がここから出たいと言った時は命懸けで逃してやる覚悟だ。
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