穢れた、記憶の消去者

木立 花音

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最終章「七月七日夜七時」

第三話【恋は刹那的な輝きで(1)】

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「もしもし」
『仁平薫だな?』

 変声機を通して声を変えているのだろう。男か女かわからなかった。声のトーンは、少し高いが。

「ああ、そうだけど」
『手元のパソコンの中にあるデータを、メモリースティックに移してこれから指定する場所にこい』

 なぜ、このデータのことを知っている? 俺だって今日知ったばかりなのに。
 さりげなく、部屋中に目を配りつつ沈黙していると、声の主がさらに続けた。

『なぜそれを知っている、と考えているな? 残念ながら、お前の行動はすべて筒抜けなんだ。盗聴器を全部除去できたと思っているのだろうが、詰めが甘かったようだね』
「なるほど、盗聴器」

 納得した体で頷くが、たぶん盗聴器だけじゃない。パソコンを閲覧しているとき俺はほとんど声を発していない。音声のみで、パソコンの中にデータがあると特定できるのは不自然だ。
 間違いなく、どこかに盗撮用のカメラがある。

「データを入手して、どうするつもりだ?」

 何のデータとはあえて言わない。これで話が通ずるなら、電話の主は葉子が残したデータの内容に目星が付いていることになる。

「それに、俺には持っていくメリットがない」
『そうだな。お前にはメリットがないだろうな』

 お前に〝は〟ときたか。語るに落ちるとはこのことだ。やはりこいつは、葉子がどんなデータを残したのかを知っていて、かつ欲しがっている。そういうことだ。
 緊張で、手汗がひどくなってきた。

『だが、持ってこないと後悔することになるぞ?』
「後悔? なんの話だ?」
『善意で持ってきてほしい、と言っているわけじゃない。取り引きをしよう、と言っているんだ』
「取り引きだって? それは、俺の側に得るものがあって初めて成立する言葉だぞ?」

 葉子を失ったあの日から、俺は守るべきものを失った。もう何もない抜け殻みたいな人生なんだよ。今さら欲しいものなんてないし、失って困るものだってない。
 そう、何も――。
 それなのに。何もないはずなのに。頭の中に一人の少女の姿が浮かんできた。
 笑うとえくぼができて、屈託のない笑い方で。
 なんでだよ。どうして今頃になってお前の顔が浮かんでくるんだよ。

「まさか」
『どうやら目星がついたようだな。ご明察。とある女を預かっている。そいつの命と引き換えにしようってことだ』

 柚乃――。

「卑怯者め……」
『狡猾とでも言ってほしいかな。それから、このことを警察に通報したり、データを渡したりしようなどと考えるなよ? お前の動きはすべて把握できている。妙な動きを見せたら、女の命はないと思え。お前に取れる選択肢は、女を生かすかそれとも見殺しにするか。それだけだ』
「自信たっぷりなことで……」

 ハッタリではなさそうだ。カメラがあるのはまず確定だしな。さて、どうするか……。
 考えを巡らせる。この半年ほどの出来事が、走馬燈のように去来する。
 俺にはなんのメリットもない。
 俺がこいつの要求を無視しても、死ぬのは若い女が一人だけ。
 しかも、俺を騙した性悪な女だ。
 身寄りのない、天涯孤独の女。
 八十億人に達したと言われる地球の人口が一人減るだけだ。
 誰一人として悲しむ身内はいない。
 それよりも、このデータを世に出すほうが有益なんだ。
 それによって救われる人命は、もっと多いのだから。
 トロッコ問題だよ。迷う必要ないじゃないか。
 くたばっちまえ、俺の煩悩。
 世界と女と、どっちを取るかと問われるならば、

 そんなもん、目の前の女一人に決まってるじゃないか。

「場所教えろ」
『は?』
「どこに向かえばいい。場所教えろって言ってるんだ」
『急に素直になったな? 何か悪だくみでも思いついたのか? さきほども警告したが、下手な手を打つんじゃないぞ? 怪しい動きを何か見せたら、女の命はないと思え』
「わかっている」

 ”くだらない抵抗”など、元よりするつもりはない。
 伝えられた場所の名を、口に出して確かめる。そこは、都内にある辺鄙な神社だった。夜の神社とかまたなんともベタな。
 もう一度ここに戻ってこられるだろうか。
 戻ってくるとしたら、葉子のデータが必要になったときだろうか。
 データが入ったメモリースティックと、財布とスマホだけを持って部屋を飛び出した。

 ――ねえ、かっくん。美優の双子の妹の名前は、柚乃というの。私も、名前だけしか知らないんだけれどもね。

 ああ、知っているさ。嫌というほどね。
 地下駐車場に行き、自分の車を見て絶望した。

「パンクしてやがる……」

 すべてのタイヤが完全にひしゃげていた。

 誰かのイタズラか? それとも電話の主の妨害か? 後者だとしたらわけがわからない。来いと行ってみたり妨害してみたり、いったいどうしたいんだ。
 動転しながらも財布を持って出た、自分の先見の明を称賛したい。

 ――両親が亡くなってから、美優は、おそらく柚乃も、とっても苦労してきたの。それはとても辛い記憶であると同時に、二人で艱難辛苦かんなんしんくを乗り越えてきた大切な記憶でもあったんだよね。……たいして苦労もしていない私が、人生は――なんて臆面もなく総括するのははばかられるんだけれど。

 これでは手詰まりだ。
 駐車場を出ると、マンションの前の道でタクシーを探す。ちょうど通りがかったタクシーは、しかし定員乗車だった。肝心な場面で使えない。スマホを見ると、時刻は十九時三十分だった。

 ――だから、安易に消すべきではなかったのかな、とそう思ったの。苦しいけれども、同時に温かい記憶でもあったのだから。どんなに悔やんでも過去は変わらない。どんなに心配しても未来がどうなるわけでもない。大切なのは、今を懸命に生きることなんだという、神様からのメッセージであり戒めなのかもしれないなって、今回そう思ったの。

 戒め、か。
 葉子が死んだあの日の痛みを抱えて生き続ける今も、ある種の試練なのだろうか。この先大きく羽ばたくための、助走期間とでもいうか。

 ――そうは言っても、自分の足ではうまく歩けない人だっているよね。過去は、今を縛る鎖になってはならない。時として、清算することも必要なんだと思う。そういった人の一助に、私の研究がなってくれればいい。

 本当にそうだな。あとは俺に任せておけ。
 お前の思いを無駄になどしない。

 ――被検者の書類審査をしているとき、美優を選んだのは私だった。そのことを今でも後悔している。

 ああ、わかるよその辛さ。お前がどんな悩みを抱えて生きていたのか、気づいてあげられなかったと悔いている今の俺にならな。
 そのとき、車のクラクションが闇夜を裂いた。青色のフォルクスワーゲンが俺の前に停車して運転席の窓が開いた。
 運転していたのは松橋さんだ。
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