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第三章 祝祭の街
少しの不安
しおりを挟む日記は、そこで終わっていた。
後のページを隈無く見たけど、何もない。
ぱたり、と手を膝の上に落とす。暫く動けなかった。
レオニダスのお母さんが、深淵の森に現れたとは聞いていた。私が拾われた場所と同じ。
レオニダスにも、お義兄様もお義母様にも私がどこから来たのか聞かれたことはなくて、みんなに気を遣われているのだと呑気に思っていたけど、違った。
みんな、分かっていたんだ。他所の国から来たのではないと。
私が、レオニダスのお母さんと同じ世界から来たのだと。
レオニダスが私が消えてしまうことを恐れていたのは、この事もあってのことだったのだ。
「……どうして」
どうして、私はこの世界に来たんだろう。
レオニダスのお母さんのように、魔物を滅するため? 深淵の森で魔物を滅する? 私が? 私は、ここから消えなくちゃいけないの? それでみんなが、平和に暮らせるの?
でも、私は聖女ではないと言われた。私には何も出来ることなんてない。
「それが読めるのか」
頭上から、落ち着いた声が降って来た。
ノロノロと見上げると、ランタンも持たずに男性が一人、薄暗い背景に溶け込むような濃い色の文官の服に身を包み、凍えるような薄氷色の瞳でこちらを見下ろしていた。
私、この人を知ってる。
その人は視線を合わせるように私の隣にしゃがみ込み、ふっと微笑んだ。
「こうして、顔を合わせるのは初めてだな」
ナガセ、と名を呼んでさらりと頭を撫でた。
「……お、とうさま」
そう呼ぶと、お義父様は少し目を瞠った。
「そう呼んでくれるんだな」
ふふ、と優しく笑いながら本棚を背に隣に腰掛ける。
長い足を前に投げ出し軽く組むこの美丈夫の優しく笑んだ表情は、お義兄様に似ている。
「それはラケルのものだろう」
「……はい」
表紙を捲り、署名を見せる。
「ここに、ラケル・ベーレントと」
「ラケルの旧姓だな…結婚前のものか」
「……この……世界に、来た日から、辺境伯を出るまでのことが」
「……そうか…あれは、言葉が分からないラケルにとって恐ろしい以外になかっただろうな」
厳しい表情で視線を落とす。
「ラケルのことは何か聞いているか?」
「少し……お義母様から」
「あの二人は仲が良かったんだ。テレーサはラケルを妹のように可愛がっていた……ラケルがどうやって辺境に戻ったかは聞いているか?」
「森で、祈りを捧げるために、と…」
「まあ、教会の言い分はそうだな。持て余した教会が捨てたようなものだ。当時の教皇は力のない人間だった」
冷ややかな表情で吐き捨てるように話す。
「それを聞いて、ジークムント……前ザイラスブルク公は烈火の如く怒りを見せた。あそこまで怒る姿は後にも先にも見た事がない。俺たちは……当時俺は、ジークムントの配下にいたんだよ。ジークムントと俺の率いる隊で深淵の森に行き、ラケルを保護した」
初めてラケルを森で保護した時のように。
「ラケルがこれ以上悪し様に言われるのを許さなかったジークムントは、毎日深淵の森に出ては魔物を討伐した。魔物の数が次第に減って行き人々は聖女の祈りのおかげだと信じたし、教会もそれに便乗して信者を増やした。馬鹿馬鹿しい、あれは王国軍の兵士達の努力の賜物だ」
ジークムント。
レオニダスのお父さん。
日記には、ラケルのジークムントに対する無意識の恋情が綴られていた。
一人、知らない世界にやって来て言葉も通じない中でどんなに心細かっただろうか。怖くて怖くて、何も分からなくて。
眠れない夜がどんなに長かっただろうか。私はその気持ちが分かる。今、一番分かってあげられる。
ギュッと胸にノートを抱き締めた。
その様子を目に留めて、お義父様は優しく微笑んだ。
「ラケルのノートは、ラケルが消えてしまってから全て当時の国王によって回収された。深淵の森や聖女について何か書かれていないか確認するために。結局何も解読できないまま、今ではただ保管されているだけだが」
立ち上がり、私の手を取り立たせる。
「そのノートだけでも渡したくなかったんだろうな」
レオニダスの奴、とクスクスと笑う。
「おいで。今日はもう帰りなさい。後でレオニダスとアルベルトを屋敷に連れて行くからちゃんと皆で話をしよう。この事にはきちんと向き合わなければ、ナガセも不安だろう」
お義父様のその言葉に、胸の内に燻る不安な気持ちを悟られているのだと泣きたい気持ちになった。
「あの、これは…」
手に持ったままのノートをお義父様に渡そうと差し出すと、その手をやんわりと戻された。
「ここの持ち出し禁止本には箔押しがされている」
それはされていないだろう、と口の端を上げて見せた。
司書の方にエーリクとクラリッサへ先に帰ると伝言を頼んで、私はそのノートを手に屋敷へ戻った。
* * *
「カレン」
夕食が過ぎて少し。
お義父様の言ったとおり、レオニダスとお義兄様が慌てた様子で帰宅した。今日はそこにお義父様もいる。レオニダスは駆け寄り私をギュッと抱き締めた。
はあっと息を吐いて、私はずっと自分が緊張していた事に気が付いた。レオニダスの胸に顔を埋める。
「ナガセ、それ……」
お義兄様が私の腕の中にあるノートを見つめた。
「……読んだの?」
お義兄様の表情は固い。レオニダスもじっと私の顔を見つめる。
「……はい」
「……読めるんだな」
見上げると、不安と困惑、戸惑いの色を浮かべたレオニダスの瞳。
「はい」
私の返事を聞いてレオニダスは目を瞑り、私の髪に顔を埋めて、そうか……と小さく呟いた。
「カレンがそれを、見つけたんだな」
抱きしめる腕の強さに、少しだけ、レオニダスの不安を感じた。
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