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第三章 二人の冷戦編
55.王子は別れを告げる【N side】▼
しおりを挟む斜めに倒した刃の先端が骨に到達する硬い感覚を感じた。実際問題、このまま力を掛けたところで骨に邪魔されて完全に切断することは難しそうだ。人が手首を切って死ぬには太い木の枝を折る程度には力が必要となる、と何かの文献で読んだけれど、どうやら嘘ではないらしい。
中途半端に刺さったナイフをグリグリと動かしながら、声にならない悲鳴を上げ続けるエレンを見下ろした。
「俺を騙したって本当?」
「……な、なんのことだ!?」
「お前が詐欺師だって聞いたから」
エレンは僅かにその口元を歪めた。
「騙される方が悪い。あいつら阿呆の集まりだ、俺がちょっと唆してやれば馬鹿な犬みたいに食い付いて来る。それだけお前も恨まれてるってことだ!」
「なるほど。反王党派なんてもっともらしい名前を語って人を集めたってわけか、良いアイデアだな」
「軍資金って名目で金だって差し出すんだ。その金で俺が飲んだくれてることも知らずにな…!」
真の反王党派である男たちが聞いたらどう思うだろう。行いの善悪は別として、多くの人々の闘志を燃え上がらせるエレンの演説は是非とも聞いてみたいと思った。素晴らしい話が終わったら最後に拍手でも送りたいぐらいだ。
「数を揃えて正解だったよ。俺はリゼッタにもう人を殺さないと誓ってる。彼女が見ているあの場で、大勢相手に虚勢を張ることは出来なかった」
「ノア、お前の土下座だけで俺はビール10杯は飲めるよ。間抜け面を踏めなかったのは残念だがなぁ…」
「踏んでも良かったのに。王権という権力に見せかけの数で挑んだお前に、俺が良いことを教えてあげようか?」
見上げる綺麗な目玉に引き抜いたナイフを刺した。
大きく跳ねる身体を脚で押さえ付ける。
「大勢を引き連れて力を持った気になっても、肝心の心臓部分を潰せば同じ。リーダーであるお前が抜けたら、指導者を失った彼らは以前ほどの団結力を発揮しない」
最早返事すら返って来ない顔を見つめた。
「お前のこと殺す気はないよ。リゼッタを襲ったあの日、参加していた男たちの情報を教えてくれるなら」
「……ルチアーノだ!現場として使った製鉄工場はルチアーノの所有物だった!」
「今度は嘘じゃない?」
「本当だ!信じてくれ…!」
どのみち、もう使い物にならない双眼を止血してあげるべきなのか、それとも抉り取ってあげるべきなのか判断出来なかった。医学に精通したウィリアムなら、そういった知識もあるのかもしれないけれど。
自分の腕の様子も確認したいし、あまり騒ぎ立てて他の乗客が見物にでも来たら困る。聞きたいことは聞き出せたので、もう心残りもない。
啜り泣くような声を漏らすエレンを引き摺って、走り続ける列車の乗車口に近付いた。窓の外には荒れ狂う海が見える。開閉部分の鍵が内側から外せることは安全面で問題があると、オーギュスト・ベルナールに教えてあげるべきかもしれない。
「……な、何をするんだ!?」
「運が良ければ助かる。悪ければ、当たりどころ次第では即死。俺が直接手を下したことにはならないと思うけど、どうかな?」
「やめろ!ノア!頼むから…!」
「お前が考えた陳腐な惨劇に巻き込まれたリゼッタに出演料が払われずに、一人で丸儲けはフェアじゃない」
扉を押し開けると、潮風の匂いがした。
「生きてても報復は考えないでほしい。お前の妹であるカーラのためにも、その方がきっと良いよ」
「カーラは…!妹をどうするんだ!?」
「南部の娼館へ送る予定だ。お前が殺した娼婦と同じ場所にしようか?その目で見付け出せるか分からないけれど」
ヒュッと息を呑む音がして、エレンは嗚咽を漏らした。上着を剥ぎ取って、謝罪と恨み辛みを混ぜこぜにして暴れる身体を大きく開いた扉から投げ捨てた。
赤く染まったシャツを隠す目的で拝借したジャケットを着込むと、害のない男から漂うような、女ウケの良い爽やかな香水が香る。自分も彼もとてもじゃないがそっち側の人間ではないので苦笑した。
通路に飛び散った血を処理して、残った課題を片付けるために隣の車両へと向かった。
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