「得多恨者必滅身」

梗概
我が名、景戒と申す、諾樂右京藥師寺沙門にて僧位は傳燈住なり、常には紀伊國貴志村貴志寺に修行する沙弥行者にござる。
我前世に功徳の善為さず、その因果に依って、我受身唯有五尺餘矣。また我れ、背の低さのみならず、我が生活の困窮にはただただ慚愧憂愁に絶えぬ。この世に生きながら,生きる術を知らず、結愛の網に絡まり,煩惱に纏わりつかれ,貧と飢に苦しみただただ生と死の境を彷徨い,八方に食を乞いて生きる有り様にござる。
薬師寺沙門と云いながら諾樂右京とはかけ離れた紀州貴志村の俗家に住んで妻を持ち,その妻子を養う蓄えもなく,粗末な菜も鹽(塩)もない。子らに着せる服も無ければ、竈にくべる薪も無い、何も無い。このこと愁いて,心安らかならず。晝も夜も飢えと寒さに震えて眠れぬ有り様なり。
我景戒、善悪を語らんと思い、ここに物語を著す。そもそも、善悪とは、人に付いて離れぬ影のようなもの、善行には幸楽をもたらし、悪行には必ず苦を以って報いる。善行とは因果を知り信じて布施を行うを云い、悪行とは因果を知らず信じず三宝を敬わず、誹るを云う。
 しかしながら、悪の影は闇に入れば消え、闇に生きる者には己の影を見ることも己の影に気付くこともなく、第三階末法の世、全て闇に覆い尽くされたこの地上に於いて、何れが善なるか、いずれが悪なるか見分けがつかず、今まさに我景戒が書こうとする、我が「霊異記」最終章に登場する人々の、闇の世に生きるこれら人々の、その業の深さ、その恨みの深さ、いずれが善かいずれが悪か、明らかにせんと欲す。

因果の理、果には必ず因がある、因には必ず端がある、端の起こりは欲である。欲こそ闇の正体、闇に棲むは鬼、鬼こそは悪、悪は恨、恨はひとの根源なり。恨あればこそひとは嘘を繕いて悪に染まる。人の世は恨みでのみ成り立つのでござる。我、茲に著すは、
「端」の章にて、真備、恨みに因って勢い失う様を、
「欲」の章にて、仲麿、恨みに因って勢いを得る様を、
「因」の章にて、仲麿、恨みに因って勢い失う様を、
「果」の章にて、道鏡、恨みに因って「黒足」踏み外す様を著し、
何れが善か、何れが悪か、世に問わんと欲す。

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