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第2章 前世の私の過ちと、今世の貴方のぬくもり
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フェリシアとニドラを乗せた馬車は、カラカラと車輪を回してモネが待つ別荘に向かっている。
車内にいるフェリシアはぼんやりと窓の外を見つめ、向かいの席に座るニドラは目を伏せて俯いている。
いつもならオレンジ色に染まりかけている西の空は、今日に限っては灰色の雲に覆われている。今にも落ちてきそうだ。
耳をすませば遠くでゴロゴロと雷が鳴っている。夕立がやってくるのも時間の問題だ。
「──お望みなら、いつでも攫ってまいります」
「え!?誰を?何を??」
俯いていたニドラが急に顔を上げたと思ったら理解しがたい発言をして、フェリシアはギョッとする。
「あの男と交わした契約術を無効化できる術師を、です」
「……気持ちだけ受け取っておくわ」
建国当初ならまだしも、四大家門ですら精霊力が弱まっている昨今、術師なんて大陸中を探したって見つからないだろう。
でも、そんなできないことまで言って自分を気遣うニドラの気持ちは嬉しい。
「わたくし、そんなに疲れているように見えるかしら?」
「いいえ、シア様は今日もお綺麗です。ですが……」
「ですが、なあに?」
「少し、悲しそうに見えます」
「っ……!そ、そう……」
泣きたい気持ちは確かにあるけれど、悲しいわけじゃない。今の気持ちは、そうじゃなくって──
「ニドラ、馬車を停めて」
「ここで、ですか?」
「そう。今すぐ停めて」
「……かしこまりました」
訝しそうにしながら、ニドラは窓を開けて御者に指示を出す。開いた窓から湿った風がフェリシアの髪を揺らした。
車輪が完全に動かなくなるのを待って、フェリシアは馬車の扉を開ける。それに気づいた御者が、慌てて馬車を降りてこちらに近づいてくる。
「シア様、何を──」
「少し一人で歩きたいの。先に帰って」
「お一人だなんて、危険です!」
「ここはもう、うちの敷地内よ。別荘だってもう見えてるし、大丈夫。そんなに心配しないで。夕食までには戻るから」
御者の手を借りながら地面に降りたフェリシアは、振り返ってニドラに「お願い」と言う。
普段よりかなり低い声音は、主として命令だということをニドラは瞬時に悟った。
「かしこまりました。夕立がきそうですから、濡れる前にお戻りください」
「ええ、そうするわ」
ニドラと目を合わせずに頷いたフェリシアは、車道を逸れて森の中の遊歩道を一人歩き始めた。
湿気を含んだ風は、草の香りを濃くする。太陽が雲に隠れてしまい、夕立特有の涼しさで森の中は寒いくらいだ。
七分袖のドレスの裾に泥がつかないよう少し持ち上げて、フェリシアは遊歩道を歩く。
別荘でひと月以上過ごしているのに、この小道を歩いたのは数えるほどしかない。
しばらく適当に歩いていたフェリシアだが、不意に足を止めて空を見上げる。夕方の曇天の空には当然、月も星も浮かんでいないけれど、フェリシアの目には見えないはずのそれが映っていた。
*
井上莉子が野崎俊也と付き合い始めたのは、毎日のように上司に叱られる彼を不憫に思い、自ら彼のアシスタントに付きたいと上司に掛け合ったのがきっかけだった。
それから俊也の仕事の補佐をしながら彼と一言二言、プライベートな会話をするようになり、会社の最寄り駅まで一緒に帰るようになり、初めて定時で仕事を終わらせた日、彼は食事に誘ってくれた。
『俺、リコさんのこと、好きになっちゃいました』
駅ビルの安さが売りの居酒屋で最後のデザートを食べている時、俊也は顔を真っ赤にして莉子に告白をした。
驚いて固まってしまった莉子に、俊也は「定時で仕事を終わらせることができたら、告白しようって決めてたんです」と続けた。
一体この人は何の取り柄もない自分のどこを気に入ってくれたのだろうか?という疑問が湧いたけれど、とにかく嬉しかった。
『私なんかで良かったら……』
モジモジと、溶けてしまったバニラアイスを見つめながら莉子が応えると、俊也は顔をくしゃくしゃにして笑った。
『ありがとう、リコさん。俺、絶対に幸せにするから』
まるでプロポーズのような言葉に、俊也との未来をリアルに想像してしまう自分が恥ずかしくて、莉子は「うん」と頷くのが精一杯だった。
バニラアイスはもう完全に液状化してしまったけれど、注文をし直すことはせず、会計を済ませた莉子と俊也は手を繋いで外に出た。
都会の夜空にぽっかりと浮かんだ月が綺麗だったのは、それから何年たっても覚えている。
夜空に浮かんだ月は、それからもずっと二人を見守っていてくれた。
初めてのキスも、身体を重ねた夜も、些細なことで口喧嘩になった時だって。
拗ねてコンビニに逃げた莉子を、決まって俊也は追いかけてきてくれた。「ごめん、アイス買って仲直りしよ」とコンビニで売ってる一番高いアイス二つ持って、ついでに「これも欲しいな」と避妊具も素早く手にしてレジに向かう俊也に、莉子は赤面しながら「今日の下着は上下お揃いだったかな?」と必死に思い出していた。
あの日々は、間違いなく楽しかった。とても幸せだった。
けれど終わりは、月すら見ることができない、寂しく、醜く、惨めなものだった。
そんな幕引きになったのは、全部全部、俊也のせいだと莉子は──いや、フェリシアとして生まれ変わっも、ずっとそう思っていた。
でも、違った。莉子はゆっくりと時間をかけて、ひどい言葉を吐く俊也を作り上げてしまっていたのだ。
『やっぱ大事に思う人から褒められるのが一番っす。ってか、頑張ってもその人にだけ褒められないのは辛いですね。なんか俺のこと、どうでもいいのかなって思っちゃいますし』
ラルフが言ったあの言葉こそ、台風の夜に感じた俊也の違和感の答えだ。
それに気づいてしまった以上、もう目をそらすことはできない。きちんと向き合う時がきてしまった。
車内にいるフェリシアはぼんやりと窓の外を見つめ、向かいの席に座るニドラは目を伏せて俯いている。
いつもならオレンジ色に染まりかけている西の空は、今日に限っては灰色の雲に覆われている。今にも落ちてきそうだ。
耳をすませば遠くでゴロゴロと雷が鳴っている。夕立がやってくるのも時間の問題だ。
「──お望みなら、いつでも攫ってまいります」
「え!?誰を?何を??」
俯いていたニドラが急に顔を上げたと思ったら理解しがたい発言をして、フェリシアはギョッとする。
「あの男と交わした契約術を無効化できる術師を、です」
「……気持ちだけ受け取っておくわ」
建国当初ならまだしも、四大家門ですら精霊力が弱まっている昨今、術師なんて大陸中を探したって見つからないだろう。
でも、そんなできないことまで言って自分を気遣うニドラの気持ちは嬉しい。
「わたくし、そんなに疲れているように見えるかしら?」
「いいえ、シア様は今日もお綺麗です。ですが……」
「ですが、なあに?」
「少し、悲しそうに見えます」
「っ……!そ、そう……」
泣きたい気持ちは確かにあるけれど、悲しいわけじゃない。今の気持ちは、そうじゃなくって──
「ニドラ、馬車を停めて」
「ここで、ですか?」
「そう。今すぐ停めて」
「……かしこまりました」
訝しそうにしながら、ニドラは窓を開けて御者に指示を出す。開いた窓から湿った風がフェリシアの髪を揺らした。
車輪が完全に動かなくなるのを待って、フェリシアは馬車の扉を開ける。それに気づいた御者が、慌てて馬車を降りてこちらに近づいてくる。
「シア様、何を──」
「少し一人で歩きたいの。先に帰って」
「お一人だなんて、危険です!」
「ここはもう、うちの敷地内よ。別荘だってもう見えてるし、大丈夫。そんなに心配しないで。夕食までには戻るから」
御者の手を借りながら地面に降りたフェリシアは、振り返ってニドラに「お願い」と言う。
普段よりかなり低い声音は、主として命令だということをニドラは瞬時に悟った。
「かしこまりました。夕立がきそうですから、濡れる前にお戻りください」
「ええ、そうするわ」
ニドラと目を合わせずに頷いたフェリシアは、車道を逸れて森の中の遊歩道を一人歩き始めた。
湿気を含んだ風は、草の香りを濃くする。太陽が雲に隠れてしまい、夕立特有の涼しさで森の中は寒いくらいだ。
七分袖のドレスの裾に泥がつかないよう少し持ち上げて、フェリシアは遊歩道を歩く。
別荘でひと月以上過ごしているのに、この小道を歩いたのは数えるほどしかない。
しばらく適当に歩いていたフェリシアだが、不意に足を止めて空を見上げる。夕方の曇天の空には当然、月も星も浮かんでいないけれど、フェリシアの目には見えないはずのそれが映っていた。
*
井上莉子が野崎俊也と付き合い始めたのは、毎日のように上司に叱られる彼を不憫に思い、自ら彼のアシスタントに付きたいと上司に掛け合ったのがきっかけだった。
それから俊也の仕事の補佐をしながら彼と一言二言、プライベートな会話をするようになり、会社の最寄り駅まで一緒に帰るようになり、初めて定時で仕事を終わらせた日、彼は食事に誘ってくれた。
『俺、リコさんのこと、好きになっちゃいました』
駅ビルの安さが売りの居酒屋で最後のデザートを食べている時、俊也は顔を真っ赤にして莉子に告白をした。
驚いて固まってしまった莉子に、俊也は「定時で仕事を終わらせることができたら、告白しようって決めてたんです」と続けた。
一体この人は何の取り柄もない自分のどこを気に入ってくれたのだろうか?という疑問が湧いたけれど、とにかく嬉しかった。
『私なんかで良かったら……』
モジモジと、溶けてしまったバニラアイスを見つめながら莉子が応えると、俊也は顔をくしゃくしゃにして笑った。
『ありがとう、リコさん。俺、絶対に幸せにするから』
まるでプロポーズのような言葉に、俊也との未来をリアルに想像してしまう自分が恥ずかしくて、莉子は「うん」と頷くのが精一杯だった。
バニラアイスはもう完全に液状化してしまったけれど、注文をし直すことはせず、会計を済ませた莉子と俊也は手を繋いで外に出た。
都会の夜空にぽっかりと浮かんだ月が綺麗だったのは、それから何年たっても覚えている。
夜空に浮かんだ月は、それからもずっと二人を見守っていてくれた。
初めてのキスも、身体を重ねた夜も、些細なことで口喧嘩になった時だって。
拗ねてコンビニに逃げた莉子を、決まって俊也は追いかけてきてくれた。「ごめん、アイス買って仲直りしよ」とコンビニで売ってる一番高いアイス二つ持って、ついでに「これも欲しいな」と避妊具も素早く手にしてレジに向かう俊也に、莉子は赤面しながら「今日の下着は上下お揃いだったかな?」と必死に思い出していた。
あの日々は、間違いなく楽しかった。とても幸せだった。
けれど終わりは、月すら見ることができない、寂しく、醜く、惨めなものだった。
そんな幕引きになったのは、全部全部、俊也のせいだと莉子は──いや、フェリシアとして生まれ変わっも、ずっとそう思っていた。
でも、違った。莉子はゆっくりと時間をかけて、ひどい言葉を吐く俊也を作り上げてしまっていたのだ。
『やっぱ大事に思う人から褒められるのが一番っす。ってか、頑張ってもその人にだけ褒められないのは辛いですね。なんか俺のこと、どうでもいいのかなって思っちゃいますし』
ラルフが言ったあの言葉こそ、台風の夜に感じた俊也の違和感の答えだ。
それに気づいてしまった以上、もう目をそらすことはできない。きちんと向き合う時がきてしまった。
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