その声で抱きしめて〖完結〗

華周夏

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〖第6話〗瀬川side

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あの時、ガラス越しに目があった瞬間、追いかけるつもりだった。しかし香織に引き留められた。

「まだ話は終わってないの。座って」

と、手を捕まれた。舌打ちしたい気分になった。逃げるように走り去った朱鷺を見て苦しくなった。追いかけて、小さな手をとって、巻き髪から覗く大きな瞳を見つめ、今までの事を謝って、言い訳をさせて欲しかった。

だから今、この四人で椅子に腰かけているなんて想像もつかなかった。

「バイオリニストの芦崎さんとも知り合いなんだ。すごいね、深谷くん!」

朱鷺はどう見ても泣き腫らした目で首をかしげ、曖昧に頷くだけの返事をする。返答に困った時は良くこの子はこの癖を出す。早く朱鷺と話をしたいのに。朱鷺が帰ってしまいそうで気が気じゃなかった。

朱鷺と目が合う。
いつもは少し驚いた顔をして目を逸らすのに、今は懐かしいものでも見るように、淋しそうに目を細めてじっと朱鷺は俺を見つめる。これで会うのも最後かのように。ざわざわと嫌な汗をかいた。ただ焦りだけが募る。

なぜ焦る?そんな冷静な考えはなかった。ただ、彼との繋がりを切りたくなかった。

鷹が香織を冷たい視線で見ているのが解った。さすがに耐えかねたらしく、彼女は『また』と言い喫茶室を後にした。
─────
「まずお前の趣味を疑うよ。何処が良いんだ?あの人が見てるのはお前の顔とピアニストの看板だろ」

「まあ、何となく気に入ったから」

ぬるくなった珈琲を啜る。

「何となくで手を出すな。お前にとってはただの遊びでも、朱鷺にとっては一応先生なんだからな。まったく」

首元の、ほくろの位置と、手の形。前髪をかきあげる仕草がお前に似ているからだとも言えば気が済むのか。

「香織先生は良い先生です」

ポツリと呟く朱鷺に鷹と俺は目がいく。
 
「僕は人がいるところではピアノが上手に弾けません。それなのに香織先生は僕に根気強く付き合ってくれました」

「そうだったのか。あれ、瀬川にピアノ見てもらってたんだろ?怖くなかったのか?」

「緊張しましたが、怖くなかったです。何故だか解らないですが」

「こいつ、普段愛想良いけど、ピアノが絡むとシビアだからな。俺ならごめんだよ」

目を合わせて笑い会う二人を見るのが不愉快だった。頬杖をついて珈琲を啜りながら言う。

「香織、面倒な生徒がいるっていってたけど君だったんだ」

二人の笑いが止まる。西日が暑い。肌が焼けるように熱い。この前と同じだ。言葉が止まらない。

「『私がいるとピアノを弾かない。いざ弾くとなると手なんてガタガタ震えて。本当に面倒だ』って。朱鷺くん、人には表と裏の顔があるんだよ。気をつけた方がいい」

珈琲の味が苦い。

「──そう、ですか。でも先輩。学校では気をつけて。誰が秘密の逢瀬を見てしまうか解りませんから」

俺は右手を握る。香織のことをこれ以上、鷹のいる前で言わないで欲しかった。
朱鷺を見る。
あるのは軽蔑の目線かと思っていた。けれど、朱鷺にあるのは寂しそうな笑顔だけだった。

「僕は帰ります。すみません先輩。お話の邪魔をして。鷹さん。お世話になりました」

そう言い朱鷺は頭を下げた。そして、

「あと、先輩」

一瞬会話に間が空いた。視線を朱鷺に向ける。

「もう、レッスンはいいです。電話も、いりません。楽しい時間をありがとうございました。本当に色々ありがとうございました。先輩、さよなら」

朱鷺は微笑み、喫茶室のドアが閉めた。その瞬間思いっきり鷹に足を踏まれ、目配せされた。はっとする。

「……お前は馬鹿か?色々、朱鷺に謝ろうと思ってたんだろ。泣かせてどうすんだ。あの子は泣きながら笑うことが日常にあった子だ。本当に独りで帰して大丈夫かな。俺、送ってく」

立ち上がろうとした鷹の袖を掴み、俺は訊く。

「──今、泣いてた?」

どうしようもない、というように鷹はため息をつき、鷹は椅子に座り直しアイスティーを飲む。

「あの子泣くとき声出さねぇんだよな。いつ、何で泣いているのか隠すみたいにさ。声だして泣いてるの見たのは、俺はここに来て最初の日だけ。お前にひでぇこと言われた時はよっぽどショックだったんだと思うよ」

「すまない。鷹、ちょっと席外す」

俺は朱鷺を追いかける。玄関で外を見つめる朱鷺を見つけた。俺は無言で腕をひく。入院したせいか、二の腕が前より細くなっていた。
人気のない階段まで手を曳く。朱鷺は俺に触れられることを嫌がり『腕を、放して下さい』と言った。

窓もなく、日差しの気配はない。夏を感じさせない病院の薄暗い、灰色の空気。何故か朱鷺は笑う。いつもなら怒るはずだ。嫌な予感がした。

「学校の北校舎みたいですね。初めて会った。覚えてますか?」

その始まりの言葉でもう、朱鷺は俺に会うつもりはないつもりでいることを悟った。

「最初の日のこと、忘れていてすみませんでした。僕、強いストレスを受けたりすると、その記憶が消えちゃうんです。母が心配して病院で診て貰ったら、お医者さんには、簡単に言えばストレス値の許容量オーバーではないかとのことでした。不便ですよ。あの時の先輩がよっぽど怖かったのかな」

目を合わさず朱鷺は言う。答えすらも朱鷺は俺に求めていないようだった。朱鷺は続ける。

「未だに一致しないんです。どの先輩が先輩なのか。楽しくレッスンして、コンタクトを落とすと心配そうに怒って、鍵を落とせば優しくミルク入りの珈琲をいれてくれる、ちょっと意地悪なのが先輩なのか──」

朱鷺はぼんやり、手持ち無沙汰のように小さく歩き回る。

「最初に会った時のような、張り付いた笑顔で感情を見せないのが先輩なのか──今なってはどうでも良いですけど、今日は退院手続き──」

「今日は、ごめんね。香織に引き留められて──君をそのままにして」

言葉を遮り、俺は話をする。このままだと、多分金を返され、終わる。このまま終わりたくなかった。終わらせたくなかった。彼を手放したくなかった。あの笑顔をみれなくなるのも、人懐っこく『先輩』と呼ぶ声が聴けなくなるのも。それに、あのふわふわした髪に、まだ触れていない。

「謝ることじゃないです。何で僕を追いかけなければならないんですか?恋人じゃあるまいし、いいんじゃないですか?そのままで」

「──教会の日は悪かった。君を待たせて、あの日はイライラしていて。あんな言い方をして。君にはきちんと謝らないといけないと思っていた。電話をかけようと、思っていたんだ。でも怖かった。君に泣かれるのが怖かった」

「もう、いいです。いいんですよ。もう──」

──先輩に会うのも最後だし。そう朱鷺の口から出てきそうで急いで言葉を探す。

「そういう投げやりな言い方、君らしくないよ」

朱鷺は一抹の悲しさがのぞく口調で言った。

「ぼ、僕らしいってなんですか、先輩。いつも一歩踏み出すことが怖くて、ただ後で泣いてるだけだとでも思ってるんですか?確かに──確かに、僕は先輩より十歳下の冴えない子供です。でも、子供にも感情はある。自尊心もあるんです。もう先輩の暇つぶしには付き合えません」

澱みなく朱鷺は言葉をつないだ。俺が『違う』と言う前に朱鷺は俺の目を見つめて淡く笑う。

「どう、したの?」

朱鷺の大きな目にだんだん涙が満ちてくる。病院の白く薄暗い照明に照らされ、涙が目の際を縁取る睫毛まで濡らしているのが見えた。限界まで貯められた涙が零れて頬に涙が伝った。

「でも、僕は、それでも、暇潰しでも、先輩が好きでした。今日、自分自身の気持ちに気づいてしまった。だから、もう終わりなんです。もう前のように振る舞えません。優しくされたら期待します。嫉妬もします。あの日、ずっと待ってた。暑くて暑くて、でも帰ってしまったらもう会えない気がして。会ってもらえない気がして。でも、その一時間より、先輩は香織先生の五分の方を気遣うような人なんですよね。僕、やっぱり変だったみたいだ。先輩が好きだなんて。ほら、今年の夏は、暑かったから」

朱鷺は泣きながら笑っていた。けれど、溶けるようにそれは消えて自嘲に変わる。俺は力づくで彼の肩を抱き寄せた。次の瞬間突き飛ばされた。

「簡単にこういうことをしないでください。どうせ──どうせ遊びのくせに!そんなに僕は可哀想に見えますか?そんなに先輩には、僕が、惨めにみえましたか?」

消え入るような声を絞るように朱鷺は言う。

「……これ」

手提げの楽譜入れから出てきたのは、俺がよく買うブランドの小ぶりの袋。ずっと持ち歩いていたことを窺わせる細かい皺。

「開けていい?」

朱鷺は小さく頷いた。出てきたのは綺麗にラッピングされた青の大判のハンカチ。

「ありがとう。大事に使わせてもらうよ。でもどうして?」

「シャツのお礼がしたくて。それだけです。入院のお金、ちゃんとお返しします」

『さよなら。先輩』弱々しくそう笑いながら朱鷺は言った。踵を返す。
俺は走って後ろから朱鷺を抱きしめる。後悔したくなかった。というよりやはり、手放したくなかった。と言った方が正しいかも知れない。鷹に似ている。確かにそうだ。でも、それだけでは割りきれない何か。
鷹とは違う感情。穏やかで満たされる。けれど、他人とあの笑顔を交わされると腹が立つ。それが鷹でさえも。感情をうまく制御出来なくなる。朱鷺といると味わったことがない感情ばかり浮かびあがる。

「──僕は鷹さんのかわりにはなれません。鷹さんに似てたから親切に、優しくしてくれたんですよね」

思わず抱き締めた腕が震えた。鷹のこと、何故知ってる?何処で気づいた?たくさんの疑問符が上る。

「どうして、そう思うの?」

「声が、違うんです。鷹さんを見るときだけ、まるい声です。片想い、長いでしょう?親友という距離で好きだという気持ちを隠してきたんですね。
先輩は鷹さん以外はどうでもいい。もしくは遊び。人をそう分類してるんですね。ただ僕は鷹さんに似たところが多かったから優しくしてくれたんですね。嬉しかった──初めて、僕は人を好きになりました。叶わなかったけれど。早く腕をほどいてください。今度こそ、本当のさよならです」

蛍光灯に照らされ遠ざかる影を目で追う。振り向いて欲しかった。小さくなる姿を見るのが苦しかった。
漠然と思う。
もう、朱鷺の声を聴くことはないだろう。
鮮やかな歌声、
穏やかで臆病な喋り方。
声が聞こえない。
笑顔が思い出せない。パーツがこぼれ落ちていく。
思い出すのはやはり、泣き顔だけ。そしてそれを誤魔化すように哀しく微笑んだ顔。

俺はあの子に何かしてやれただろうか。あの子は俺といて楽しかっただろうか。幸せだった瞬間があっただろうか。

「瀬川、何でこんなとこにいんの?あれ?朱鷺は?おい、大丈夫かよ」

俺は壁に手をつきながらしゃがみこんだ。

「どうした、おい、泣くなよ。喧嘩でもしたのか?」

首を振る。右手で額を押さえる。涙が止まらない。あの時、バス停まで追いかけていれば今、何か違ったのだろうか。

「もう、会えない……」

「いや、会えると思うぞ。退院の手続きの書類に確か住所が──あ、ここだ」

「ちょっと貸せ!」

俺はきっと熱病にかかった患者と同じような目をしていたと思う。

「……鷹のマンションのすぐ近所じゃねぇか」

なんだ、ご近所さんかと鷹は笑った。俺は笑えなかった。鷹には会って話をする。でも俺は?さっき彼は俺にさよならを告げた。もう朱鷺は決着をつけた。
俺は、まだ会いたい。声が聞きたい。ふわふわとしたあの髪に触りたい。

「帰ろう。お前まだ泣いてんの。どうした?」

「いや、目が痛くて」

眼鏡を外す。ぼやけた視界の中、一瞬、鷹が朱鷺に見えた。
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