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〖第5話〗朱鷺side
しおりを挟む「朱鷺、退院の手続き終わったから飯でも食わないか?」
鷹さんの片手には売店の袋が握られていた。花曇りで、風もない穏やかな日だった。鷹さんは口調はぶっきらぼうだけど、親切で優しい。真っ直ぐで、先輩とは真逆の人だと思う。
一週間と少しの入院だった。正直、最初は知らない人にお世話になるのは気が引けた。でも
「お袋も今、検査入院してるから丁度いいんだ」
という言葉もあって──実際、窓から中庭で中年の品の良い女性を乗せた車椅子を押す鷹さんの姿を見て──気持ちがが幾分か楽になった。
先輩から連絡は一切なかった。暇じゃないんだな、とだけ思った。暇つぶしは暇じゃないと出来ない。
二時間くらい前に点滴は抜かれ、腕が軽くなった。変わったことといえば血液検査を頼まれたくらいだ。
「俺には弟がいるんだけど、そいつのために検査を受けて欲しいんだ」
と言われた。家族が病気なのはつらい。僕は頷き、それ以上訊かなかった。
「中庭で食べませんか。天気も良いみたいですし。あとお昼代──」
僕はバッグから財布を探した。
「好きでやってるからいいんだ。元はと言えば俺達のせいでもある。今日は電話かかってこねぇな」
「待ってる人でもいるんですか?」
お母さんがそろそろ退院すると鷹さんが言っていたことを思い出した。
「本人に訊いた方が早いな」
振り返るとばつの悪そうな顔をした先輩が立っていた。片手には夏らしく、小ぶりの品種の向日葵をあしらった趣味の良い花束が握られていた。
「今日、退院するって、鷹から連絡があって来たんだ。花束、受け取ってくれる?」
「花束、綺麗ですね。ありがとうございます」
とだけ言った。感情が出てこなかった。あれだけ焦がれた人だったのに。
「じゃあ、失礼します。鷹さん、本当に色々ありがとうございました。お世話になりました」
「ああ。困った時はいつでも電話していいから」
「先輩もわざわざ遠くまでありがとうございました。それじゃ、さよなら」
これで本当のさよならだ。花束に顔を埋めて振り返らないようにした。
教会に行かなければ会うこともないだろう。電話にでなければもうあのひとの声を聞く事もない。
花曇りだったはずなのに、それでも日差しは強くなり足が重い。陽射しに頭が痛くなってくる。銀行でお金を下ろし、病院で手続きをし、入院費を支払おうとした。でも、支払いは全て終わったことになっていた。
僕は急いで病院の隅で鷹さんに電話をかけた。鷹さんが言うには、先輩が全部退院手続きをしてくれたと言うことだった。
『謝るきっかけが、欲しかったんじゃないか?最初の日、消灯時間のあと電話がかかってきたから。あれから毎日夜に電話が来るようになって、体調はどうだ、顔色はどうだって。毎日電話するくらいなら面会に来いって言ったらあいつ何て言ったと思う?『怖くて行けない』って言ったんだ。さっき煙草吸いに喫煙所行ったから近くにいるんじゃないか?朱鷺。まだ体が本調子じゃないんだから無理はするな』
『ありがとうございます。鷹さんも。お世話になりました』
と言い僕は電話を切る。喫煙所に長身の立ち姿が綺麗な人影があった。声をかけようとして、やめる。綺麗な髪の長い女性と楽しそうに話していたからだ。良く見ると香織先生だった。休日の格好はイメージが違う。聴きたくないのに僕の耳は二人の会話を余すことなく拾う。
「瀬川くんに病院で会えるなんて思ってもなかった。叔母さんが入院したの。瀬川くんは?」
「まあ、用事ですよ。知り合いが入院していて」
やさしい聞いたこともない声だ。香織先生も。
「用事?怪我?病気?」
「いえ、今日退院しました。大したことじゃないです」
「女の人でしょ」
「残念です。男ですよ。子供です。日射しが暑いから中に入りませんか。汗かくの嫌でしょう?すみません、煙草付き合わせて」
僕は見つからないように、そっと距離をとる。香織先生には煙草の五分は長くても、僕が教会で待った一時間はどうでもいいこと。倒れたことも、大したことではないみたいだ。鷹さんは
『謝るきっかけが欲しかった』
と言ったけど、本当にそうなんだろうか。
本当に悪いと思うなら、面と向かって謝ればいい。目を見て、誠実に。お金なんてどうでもいいじゃないか。電話だって、鷹さんじゃなくて僕にかけて欲しかった。例え一回だけだとしても、自分の耳で先輩の謝罪の声を聴きたかった。
『ごめん』の一言。
それだけで良かった。それとも僕はそんなに生活に困窮しているように見えたのだろうか。可哀想に見えたのだろうか。
この前、雨の日。時間が解らない薄暗い日、先輩にシャツのお返しがしたくて銀座へ行った。同じブランドの物をあげたかった。お店のショーウインドウには、品のある仕立ての服が趣味良く並んでいた。店内にいる人は、きらきらしたお洒落な人ばかりだった。店員さんはとても親切で、余計に恥ずかしかった。
『お父さんの誕生日?』
と綺麗なお姉さんに言われた。僕は頷くしかなかった。
『限られた予算で、見映えがするもの』
言い方は違うけれど、ありのままを伝えたら、大判のハンカチを選んでくれた。濃い独特のブルーの、刺繍が入った、とても綺麗な──。
病院のガラスに映った自分を見る。モジャモジャの頭に量産品のTシャツ、古いジーンズ。履き古したスニーカー。
悪くない。
普通じゃないか。
僕はみっともなくなんかない。
ガラス越しに喫茶室が見えた。先輩と香織先生が飲み物を飲んでいた。絵になる二人だと思った。ふと、先輩が目線を外に逃がす。目が合った僕は『しまった』と思い、目を逸らしてバス停まで走った。
何で僕は目を逸らしたんだろう。何から逃げているんだろう。もう何も見たくなかった。お似合いの二人も、隔てたガラスに映る子供臭い自分も。
視界がぼやける。目じりに冷たいものを感じる。悲しくて、切なかったけれど泣きたくなかった。歯をくいしばって走る。そんな僕の目の前をバスが通りすぎる。何処行きでもいいから乗りたかった。例え正しい帰り道でなくても。
正しい帰り道なんて僕には解らない。何が正解で不正解かすら、僕にはもうどうでもよかった。ただ、言えることは、呼吸が乱れた冷たい水のような指先に左腕を掴まれるより、ずっとましだと言うことだ。振り返りたく、なかった。
見たくなかった自分の気持ちが、見ないようにしていた自分の気持ちが、全部、みっともなく涙に滲んだ顔で見透かされてしまうのが怖かった。ゆっくりと振り返る。
鷹さんだった。
「忘れ物。鍵。なきゃ家入れないだろ。どうした、朱鷺。泣いてんのか?どうした?あのバカに何か言われたのか」
「違います。汗が目に入って」
僕は力なく笑った。こんな顔を見られずに済んで安堵するはずだったのに、僕の中には一抹の落胆があった。
追いかけてきてくれるかもしれない、僕はそう心の中で期待していた。
息を切らして、追いかけてきてくれた。そう思って振り返った自分がいた。
見たくなかった、見ないようにしていた気持ちを突きつけたのは誰でもない、自分自身だった。
ああ、僕は先輩が好きだったんだ。
だから、どうしようもなく苦しいんだ。
見られたくない。香織先生と比べて確実に見劣りする冴えない自分を。
見たくなかった。嬉しそうに香織先生と話すところなんて。そしてそれに嫉妬している自分も。
「──鷹さんも、手が冷たいんですね」
「あ、そうか?病院少し寒いから。朱鷺、何処か痛いのか?」
「何で、ですか?」
「ずっと、その、泣いてるから」
無意識だった。何故か涙がとまらなかった。一生懸命言い訳を考えた。それでも何も思い浮かばず、泣き顔を見られたくなくて、ただ笑った。涙がアスファルトに落ちてはじわじわと乾いて消える。鷹さんはそんな僕を抱き締めて、よしよしと子供をあやすように、僕を胸に抱いた。香水だろうか、花のような良い匂いがした。鷹さんは、不意に僕のおでこに手をあてた。
「おでこ熱いな。喫茶室いくか。冷たいの、一緒に飲もう」
僕は先輩と香織先生がまだいるかもしれないと思って気乗りがしなかったけど、断りきれず力なく頷いた。何処行きかも解らないバス停から歩きながら、鷹さんと話す。
「大学生活は楽しいか?一人暮らしなんだろ?」
「はい。楽しいです。一人暮らしはたまに寂しくなるけど、電話はかけないようにしてるんです。里心がつくんで」
「実家、遠いの?」
「F県です。冬寒いですよ」
「へー。東京暮らしは慣れた?暑いだろ」
「はい。びっくりしました」
「兄弟とかいないの?」
「一人っ子です。だからちゃんと音楽やらないと実家の喫茶店を継がなきゃならなくなります。そうなったら今度は調理師の勉強ですね」
鷹さんはカラカラと爽やかに笑う。
「なあ、朱鷺」
急に鷹さんが真面目な口調になる。
「お前、今幸せ?」
「幸せです」
僕は笑ってそう言うと『ならいい』と、鷹さんは満足そうに微笑んだ。あっという間に病院に戻る。
先輩が僕を目で追うのが解った。喫茶室の中の先輩と香織先生。グラスを持つ先生の濃い目の綺麗なネイルが目にはいる。先輩の香水の甘い香りも。
僕はやはり、暇つぶしだったんだなと、戻ってきた喫茶室の皆の姿と自分の姿を見比べて、そう思った。
場違いだと、思った。
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