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第一話 甘い夫婦生活とはなりません

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 ネットカフェを出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。

 住吉駅前は到着した時とは様子を違えている。
 夜の街へ出かける若者やサラリーマンが目の前を通り過ぎていき、時折大学生らしき若い女性が春樹さんを見ては驚きの声をあげて足早に離れていく。

 決して奇異なものを見たためではない。
 春樹さんは夜が似合う。
 ネオンに照らされた金髪とその風貌が、彼をまるで特別なもののように夜の街に浮かび上がらせている。

 バンド活動しているのだから、彼のことを知っている若者もいるのだろう。
 場違いだ。
 私はふと弱気になって、住吉駅を見上げる。

 まだ誠さんはこの街にいるかもしれないけれど、帰ろう。
 はやく帰るように言われた。
 彼が帰宅する時には家にいたい。
 そんな風に思っていると、春樹さんがまるでじゃれるように私の後ろから腕を回して抱きついてくる。

「千鶴ちゃん、お腹空かない?」
「えっ……」

 驚いて振り返ると、思ったより間近で春樹さんがにこにこと微笑んでいる。

 まるでミカンと一緒にいるような安心感を覚える雰囲気が彼にはある。
 つい気を許しそうになるが、彼の胸を押して離れる。
 愛くるしい瞳の青年は生身の男性なのだからと、ようやく適切な距離を取る。

 残念そうに眉を下げる春樹さんは、それでもめげずに私の手を握る。
 私に本気だと言った彼の言葉を軽率に感じてしまうほど、春樹さんはたやすく私に触れる。

「兄貴より先に帰れば問題ないだろ? 食事して帰ろう、千鶴ちゃん」

 春樹さんがうつむく私の顔を覗き込んだ時、私たちの横を通り過ぎようとした誰かが立ち止まった。
 革靴を履いたその足にはとても見覚えがあった。
 私が毎日磨く、焦げ茶の革靴も。

 ハッと顔を上げる。
 夜空を背に私を見下ろす青年と目が合う。
 途端に逃げ出したくなって、無意識に後ずさる。
 青年の左手薬指には私とお揃いのリングがはめられているのに、それには似つかわしくない光景が眼前に広がっている。

「御影さん? お知り合い?」

 ひょこっと青年の奥から顔を出した美しい女性が私を眺め見下ろすのに気づいて、とっさに手を後ろに回していた。

「ええ」

 誠さんは私を見下ろしたまま、短くそう返事をした。

 知らぬふりはしないのだ。
 その態度をどう理解したらいいのだろう。
 考えあぐねるうちにふと思い出す。
 御影探偵事務所で働き始めた頃、誠さんが私に言ったことがある。

『こういう仕事ですから、あなたは事務所の職員でありながら、時には友人であったり妹であったり、もしかしたら恋人……、夫婦のふりをしていただくこともあるかもしれません』

 何を要求されても承諾することしかできない立場にあった私は、「はい」とだけ返事をした。

 あれ以来、事務所の仕事もほとんどしないまま、誠さんの身の回りのお世話ばかりしていたから、すっかり職員としての本分を忘れていたように思う。

 後ろ手に回した指からするりとリングを抜いた。
 誠さんがお仕事中なら、依頼主が女性であるとするなら、妙な女性関係を巡る立ち位置にいてはいけない。
 そう判断した。

「お久しぶりです」

 お辞儀をすると、誠さんの眉がぴくりとあがる。

「若くて可愛らしいお嬢さんですね。失礼ですけど、妹さんか何か?」

 美しい女性が無遠慮に割り込む。
 一つに束ねたさらさらの髪が印象的な美しい女性。
 彼女と目を合わせたら妙な胸騒ぎがする。

「いえ、妹では」

 誠さんが即座に否定する。

「そうなの、残念。良かったら、御影さんと一緒にクッキングスクールにいらしたら? と思っていたのに」
「あいかわらず営業熱心ですね」

 朗らかに微笑み合う女性と誠さんの関係性が見えなくて戸惑う。
 妹でなかったら、私は何の役をすればいいのか。

「クッキングスクール?」

 そう横槍を入れたのは、眉をひそめた春樹さんだった。

「春樹、おまえは黙ってろ」

 誠さんが鋭く制すると、女性は愉快げに笑って、カバンを開く。そして革のケースから名刺を取り出す。

「その様子からすると、あなたの方が御影さんの弟さんかしら? デートのところごめんなさいね。私、浜辺洋子ようこって言います。駅前のクッキングスクールで、水曜日だけ和食料理を教えているの。良かったら見学にだけでもいらして」

 春樹さんは無言で名刺を受け取る。不信感があらわになる表情なのに、洋子さんは笑みを崩さない。気の強い女性だろう。そんな気がした。

「あなたも」

 そう言って、洋子さんはもう一枚名刺を差し出してくる。

「浜辺洋子です」

 迷いながらも、両手を伸ばして名刺を受け取った。

「あ、私、羽村千鶴と言います。御影さんとはただの知り合いで……」

 だからクッキングスクールに誘われても見学にすら行くことはないのだ、と主張しようとした私は、洋子さんと目を合わせた途端に口をつぐんだ。

 洋子さんはハッと片手を口元にあて、ひどく目を丸くして私を見つめていた。
 脳裏に、先ほど見た悪夢がよぎった。

 両親が口論する横で、両手で顔を覆い、泣く女。
 あの悪夢に存在した女性は浜辺洋子だと、根拠もないのに確信する。

「羽村……」

 洋子さんは震える声でそう発すると誠さんを見上げ、「そういうことですか」と静かに息をついた。
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