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第二章 聖女は過去とむきあうようです
過去にこだわるものは未来も失うのかもしれない
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「アマネ様、エレノア王女殿下がいらしています」
午後に王都へ戻るための準備をしているところに困り顔の使用人が現れた。
「アルテア様なら、今はいないとお伝えして下さい」
天音は昨夜のことを思い出すと、気分が重くなる。アルテアは最後の日程をこなしており、午前中は不在であった。一人で対応するのは危険かもしれない。今朝はセスも急ぎの案件があるらしく、朝から顔を見ていなかった。
「――それが、アマネ様にお会いしたいと。大勢の皆様でホールにいらしていて、ちょっとした騒ぎになっているようです……」
ベルーゲン城の一階は、この地での役所もかねていて、多くの地域住民や役所の人たちであふれている。
別の入口から入ることができる貴賓室ではなく、正面入口のホールにエレノアが訪ねて来ているというのは、本当に嫌な予感しかしない。しかし騒ぎが大きくなる前にいかないと、と天音は覚悟を決めて、ホールへ向かう。
天音がホールに到着すると、エレノアのみならず、彼女の使用人や護衛たちが異様な様子で待ち構えていた。役所に来ている人や職員たちも何が起こったのかと、遠巻きにエレノアたちを見ていた。
よく見れば、エレノアたちは、泥や血のようなもので汚れており、一様に疲れているように見えた。
エレノアは昨日着ていた服のまま、疲れた様子で仁王立ちをしていた。
「アマネ様、どうしてこんな仕打ちをなさるのでしょうか⁉︎」
天音が近づくと、挨拶もなしに突然エレノアが叫ぶ。天音はその声にびくっと身体を震わせる。周りの人々も何が起こったのかと、固唾を飲んで様子を見守っている。
「どうされましたか?」
「私のことがそんなに憎いのですか⁉︎ ほんの少し、アルテア王太子殿下と昔の話をしただけではないですか!」
「……すみません。仰る意味がよく分からないのですが。ここでは皆様のご迷惑になりますし、お疲れのようですので、奥でお話いたしましょう?」
言い聞かせるように天音が言うと、エレノアは激昂し、泣き出す。昨夜のふてぶてしい強気な様子とは打って変わって、何かに打ちひしがれて悲しんでいるご令嬢のように見える。
「ひどいですわ。ご自分がされたことを隠蔽しようとされているのですか」
エレノアが泣き崩れると使用人たちが、震える背中を労わるように慰める。
「姫様……聖女様を怒らせてはなりません。また酷いことが起きます」
「もうあんなことは充分です。聖女様のお力は瘴気を操ることが可能なのです」
一人の使用人――以前教会裏で瘴気を浄化してもらった女性――が、天音の方を見て、切なげに声をあげる。
「――エレノア様が一体何をされたのでしょう。少し、アルテア殿下とお話をしたいと言っただけではないですか」
天音が話す隙を与えずに、口々に皆が声を上げる。天音は一体何が起きているのか分からずに混乱する。
一体何なのだ、この茶番は……。
「昨日の夜、何があったのでしょうか?」
話が進まなそうなので、天音はエレノアに話しかける。待っていましたと言わんばかりにエレノアは、しおらしい口調で話し出す。
「昨夜、レストランでお会いした後、ナルヴィク侯爵家に戻った所で、濃い瘴気溜まりに集まっていたオーガたちに襲われたのです。私が屋敷を出る前には無かったのに……」
「そ、それと私が一体、どんな関係が……あるのでしょうか?」
オーガは、人食い巨人と言われており、大きいものだと三メートルを超える個体もある。本で見せてもらったその姿は、まるで前世での絵本で見るような鬼の様だった。
太い角と巨大な牙が口から飛び出し、その体躯は大きい。二足歩行をし、簡単な道具なら使うことができるらしい。しかし言語は、通じず意思疎通はできない。
「しらを切るつもりなのですか。あなたが、瘴気を操って私を悪意ある存在に襲われるように仕向けたのでしょう?」
「そんなことできません。瘴気を浄化することはできても、操るなんて。とにかくお怪我もされているようですし、医務室へ参りましょう」
天音が、エレノアに近づく。
「いや、触らないで! あなた、本当は厄災の竜の眷属なのでしょう? 私が真実を言ったものだから、私のことを襲わせようとしたのでしょう!」
エレノアが、あたかも天音に危害を加えられたかのように大袈裟に後ろに倒れるようなふりをする。後ろの使用人が、エレノアの背を支える。
「そんな穢らわしい手で姫様に触れるなんて、無礼者め」
「瘴気を出そうとしていたんだろう!」
「厄災の竜の眷属め!」
「ち、違います。そんなことはできません」と天音は、慌てて否定する。
そしてエレノアの筋書きを全て理解した。ここで、天音は聖女ではなく、瘴気を操ることができる『厄災の竜の眷属』として、人々に認識させたいのだ。
「じゃあ、あなたが眷属じゃないことを証明してみなさいよ!」
天音は、その言葉にたじろぐ。
瘴気を操ることはできない。でも、それをどうやったら証明できる? 瘴気に触れてしまった人を衆人環視の中、治癒することはできる。しかし実際にそうした場合、瘴気を操って消しただろうと言われるに違いない。
肯定しても否定しても天音には、不都合な状況となる。
逆に聖女ということを証明することもできない。神聖力は魔力と同じように見えるし、シグナイからもらった神聖力の証としての白鳥の文様は、セスにしか見えない。そして見えた所で、それを聖女の証だと言うこともできない。
人々が何の騒ぎかと次第に集まってくる。
「ナルヴィク侯爵家のお孫さんが……けがをされて泣いている」
「トウライアムウルの王女様が、オーガに襲たらしくて、それを聖女様のせいだと」
「聖女様は、厄災の竜の眷属で瘴気を操れるそうだ」
「厄災の竜の眷属とは、瘴気から生まれて、竜の復活を助けるものらしい」
集まってきた人は口々に状況を周りに伝えていく。ここは、ナルヴィク侯爵家の力が強い土地で、その孫娘である隣国の王女が泣いており、聖女がその原因であるというセンセーショナルな状況に、人々の困惑が伝わる。
ああ……学生時代に、天音の出自がバラされた時と状況は似ている。
人の注目が集まっているところに、私生児だというぼんやりとした、けれども他人の不幸という発火材を少し足すだけで、噂は一気に一人歩きする。
『あいつは娼婦の娘で、天王寺谷家の正妻の座を狙っている。そのためには手段を選ばない』
『外では裏の組織と繋がっていて、良家の子女たちを裏の市場に斡旋してる』
『そうだ。だから何をしてもいいんだ。やられる前にやるんだ。これは正当防衛だ』
そうして天音を虐げることは、正当なことだと周りの人々に自然と刷り込まれていく。
また、同じことを繰り返すの? せっかくシグナイ様から未来のことを考えられる機会をもらったのに。声を出して反論したいのに、声が出ない。ヒューヒューと喉から空気が出るばかりで、情けないと天音は泣きたくなる。
「――聖女様を囲って、一体、何の騒ぎだ」
その時、セスの声がホールに響く。鈍色の瞳が、状況を理解するために周りを見渡す。
「セス!」
エレノアが涙ながらにセスに向かって走り、まるで天音を恐れるようかのように抱きつく。
「アマネ様が、瘴気を操って私に危害を与えようとするのです」
「はあ? エレノア王女殿下、聖女様にはそんなことはできませんよ」
セスは呆れたように、エレノアに冷たい視線を向ける。
「でも、昨夜、アルテア殿下とアマネ様と会った後、私たちオーガに襲われて。アマネ様の機嫌を損ねてしまったから、瘴気で、あいつらを呼び寄せて報復されたのですわ……」
セスは、「ああ、その件ですか。大変でしたね」と一言エレノアに言うと彼女を自分から引き剥がす。
「皆様、お騒がせして申し訳ございません。今日未明起こった、エレノア王女殿下がオーガに襲われたという事件につきまして、私どもで現場を確認してまいりました」
セスは天音に向かって、大丈夫だと言うように少しだけ頷く。
「後ほど、神殿から正式に発表致しますが、オーガは討伐済み、瘴気は神官により浄化は完了しています。ただオーガのベルーゲンへの進入経路が不明のため、引き続き調査しております。王都へ聖騎士団の派遣を要請しましたので、午後には到着します。念のため、聖騎士団の到着までは、森や郊外の人気のない場所には行かないでください」
様子を見守っていた人々の間に一様に安心したような空気が流れる。
「まあ、良かったですわ」
エレノアが、安堵したかのようにヘナヘナと床に座り込む。そして、使用人たちが「姫様!」と駆け寄る。
そのわざとらしさが滑稽で、まるで学芸会の劇のようで、天音は緊張していたのが馬鹿らしくなる。そしてセスが来てくれたことで、勇気が湧く。まるでシグナイ様が側にいてくれているような安心感がある。
さっきまで震えていた身体が嘘みたいにしゃっきりとする。一歩前に踏み出す。
「皆様、瘴気や悪意ある存在の件で、不安にさせて申し訳ございません。聖女として、この場でお詫び申し上げます」
天音は深呼吸を一つすると、堂々とした様子で、深々とお辞儀をする。
「エレノア王女殿下に大きなお怪我がなくて安心しました。ですが、その尊いお身体に後ほど何かあっては、メイオール王国としても不名誉なことですので……」
天音はそう言うと、両手をエレノアたちに向ける。
「治癒」
輝く白い光はエレノアたちを包み、瘴気と怪我の治療をする。その白く輝く光は、あまりに神々しく、見ていた人々は言葉を失った。
セスは、「神聖力の調節がうまくなったな」と天音に駆け寄り、手の甲に恭しくキスを落とす。
先程まで不安げにざわついていた人々は、しばらくすると、口々に「やはり本物の聖女様だ!」と言い始める。
「皆様、まだまだ不安なことがあるかと思います。神殿に神聖力を込めた聖水晶をお渡ししていますので、お役に立てていただければと思います」
天音は、アルテアの作り笑顔を真似て、盛大に微笑む。
エレノアは、少しだけ不機嫌そうな表情をしたが、すぐに立ち上がると、「セス、引き続き調査をお願いね」と使用人たちを引き連れて、ホールから出ていった。
騒ぎがおさまったところで、セスと一緒にホールから王族及び関係者以外立ち入り禁止の通路に戻る。
緊張が切れたのか、膝ががくがくと震え、柱に手をついたまま歩けなくなってしまう。変な汗が吹き出し、喉が渇き口の中がねばねばとする。
「聖女様、頑張ったね。お疲れ様」
「はい……。一世一代の大芝居でした……。セス様が来て下さらなかったら、私は何もできませんでした」
セスが天音の手を取り、背を支え中庭の座れる所まで連れて行ってくれる。
「ひとまずアルと王都に戻るといい。私はここで調べたいことがあるから、もう少し逗留する」
「調べたいことって?」
「オーガたちがどこから来たかを調べたい。昔と違って、今はあまり人が多い場所に現れないんだよ。長い歴史の中で、人族との適度な距離感を覚えたのだろう。それにあの巨体、闇に紛れて忍び込んだとしても、明るくなれば普通は侵入経路は分かるものだ」
「どうしても瘴気が欲しかったとかじゃなくててすか?」
「それも考えたが、ナルヴィク侯爵家にあった瘴気は、通常現れるくらいものので、私たちだけでも対応可能だった。そこまでして欲しがるとは思えない」
「不思議ですね」
「そう。そして警備隊に倒されたオーガには不可解な傷や針を刺した跡があったのも気になる。それにオーガは簡単に倒されないのだが、戦った際に全然手応えがなかったらしい」
「エレノア様が何かされたのだと思うのですが……。何をされたのか分かりませんね」
中庭から見えるグレーの雲が重たく空にのしかかっているように見える。天音は不安を打ち消すようにふるふると頭を振る。
「聖女様のことは、絶対に自分の命に代えても守ります。アルテアもついています。ですからどうかあまり無理をなさらずに」
「命に代えてもなんて、ダメですよ」
「聖女様が、無理をしなければいいのですよ」
「……ごめんなさい。私のせいですね」
「心配、しているのです」
セスは神聖力を使うたびに、少しずつ輝きを失っている白鳥の文様が浮かぶ天音の手を、自分の両手で慈しむように包んだ。
***
その後、アルテアとオウロスへ戻り、エレノアからの反撃に備えて緊張した日々を過ごした。
しかし陽が沈まない短い夏が終わり、再び冬が来ても、何も大きなことは起こらなかった。
トウライアムウル連合国ミドルアース領での瘴気による大気汚染が深刻化しており、何かをしている余裕がなかったのかもしれないと二人は考えていた。
ベルーゲンでの騒動は、オーガの侵入経路は結局分からず、うやむやになったまま終結した。
その後、同様の騒動は無かったが、一部の人は天音の聖女としての存在を疑うようになった。ただ多くの人々は天音がいてくれたから、これ以上の事件は起こらず、街は守られたのだと考えていた。
嵐の前の静けさだけが不気味に、横たわっているように思えた。
午後に王都へ戻るための準備をしているところに困り顔の使用人が現れた。
「アルテア様なら、今はいないとお伝えして下さい」
天音は昨夜のことを思い出すと、気分が重くなる。アルテアは最後の日程をこなしており、午前中は不在であった。一人で対応するのは危険かもしれない。今朝はセスも急ぎの案件があるらしく、朝から顔を見ていなかった。
「――それが、アマネ様にお会いしたいと。大勢の皆様でホールにいらしていて、ちょっとした騒ぎになっているようです……」
ベルーゲン城の一階は、この地での役所もかねていて、多くの地域住民や役所の人たちであふれている。
別の入口から入ることができる貴賓室ではなく、正面入口のホールにエレノアが訪ねて来ているというのは、本当に嫌な予感しかしない。しかし騒ぎが大きくなる前にいかないと、と天音は覚悟を決めて、ホールへ向かう。
天音がホールに到着すると、エレノアのみならず、彼女の使用人や護衛たちが異様な様子で待ち構えていた。役所に来ている人や職員たちも何が起こったのかと、遠巻きにエレノアたちを見ていた。
よく見れば、エレノアたちは、泥や血のようなもので汚れており、一様に疲れているように見えた。
エレノアは昨日着ていた服のまま、疲れた様子で仁王立ちをしていた。
「アマネ様、どうしてこんな仕打ちをなさるのでしょうか⁉︎」
天音が近づくと、挨拶もなしに突然エレノアが叫ぶ。天音はその声にびくっと身体を震わせる。周りの人々も何が起こったのかと、固唾を飲んで様子を見守っている。
「どうされましたか?」
「私のことがそんなに憎いのですか⁉︎ ほんの少し、アルテア王太子殿下と昔の話をしただけではないですか!」
「……すみません。仰る意味がよく分からないのですが。ここでは皆様のご迷惑になりますし、お疲れのようですので、奥でお話いたしましょう?」
言い聞かせるように天音が言うと、エレノアは激昂し、泣き出す。昨夜のふてぶてしい強気な様子とは打って変わって、何かに打ちひしがれて悲しんでいるご令嬢のように見える。
「ひどいですわ。ご自分がされたことを隠蔽しようとされているのですか」
エレノアが泣き崩れると使用人たちが、震える背中を労わるように慰める。
「姫様……聖女様を怒らせてはなりません。また酷いことが起きます」
「もうあんなことは充分です。聖女様のお力は瘴気を操ることが可能なのです」
一人の使用人――以前教会裏で瘴気を浄化してもらった女性――が、天音の方を見て、切なげに声をあげる。
「――エレノア様が一体何をされたのでしょう。少し、アルテア殿下とお話をしたいと言っただけではないですか」
天音が話す隙を与えずに、口々に皆が声を上げる。天音は一体何が起きているのか分からずに混乱する。
一体何なのだ、この茶番は……。
「昨日の夜、何があったのでしょうか?」
話が進まなそうなので、天音はエレノアに話しかける。待っていましたと言わんばかりにエレノアは、しおらしい口調で話し出す。
「昨夜、レストランでお会いした後、ナルヴィク侯爵家に戻った所で、濃い瘴気溜まりに集まっていたオーガたちに襲われたのです。私が屋敷を出る前には無かったのに……」
「そ、それと私が一体、どんな関係が……あるのでしょうか?」
オーガは、人食い巨人と言われており、大きいものだと三メートルを超える個体もある。本で見せてもらったその姿は、まるで前世での絵本で見るような鬼の様だった。
太い角と巨大な牙が口から飛び出し、その体躯は大きい。二足歩行をし、簡単な道具なら使うことができるらしい。しかし言語は、通じず意思疎通はできない。
「しらを切るつもりなのですか。あなたが、瘴気を操って私を悪意ある存在に襲われるように仕向けたのでしょう?」
「そんなことできません。瘴気を浄化することはできても、操るなんて。とにかくお怪我もされているようですし、医務室へ参りましょう」
天音が、エレノアに近づく。
「いや、触らないで! あなた、本当は厄災の竜の眷属なのでしょう? 私が真実を言ったものだから、私のことを襲わせようとしたのでしょう!」
エレノアが、あたかも天音に危害を加えられたかのように大袈裟に後ろに倒れるようなふりをする。後ろの使用人が、エレノアの背を支える。
「そんな穢らわしい手で姫様に触れるなんて、無礼者め」
「瘴気を出そうとしていたんだろう!」
「厄災の竜の眷属め!」
「ち、違います。そんなことはできません」と天音は、慌てて否定する。
そしてエレノアの筋書きを全て理解した。ここで、天音は聖女ではなく、瘴気を操ることができる『厄災の竜の眷属』として、人々に認識させたいのだ。
「じゃあ、あなたが眷属じゃないことを証明してみなさいよ!」
天音は、その言葉にたじろぐ。
瘴気を操ることはできない。でも、それをどうやったら証明できる? 瘴気に触れてしまった人を衆人環視の中、治癒することはできる。しかし実際にそうした場合、瘴気を操って消しただろうと言われるに違いない。
肯定しても否定しても天音には、不都合な状況となる。
逆に聖女ということを証明することもできない。神聖力は魔力と同じように見えるし、シグナイからもらった神聖力の証としての白鳥の文様は、セスにしか見えない。そして見えた所で、それを聖女の証だと言うこともできない。
人々が何の騒ぎかと次第に集まってくる。
「ナルヴィク侯爵家のお孫さんが……けがをされて泣いている」
「トウライアムウルの王女様が、オーガに襲たらしくて、それを聖女様のせいだと」
「聖女様は、厄災の竜の眷属で瘴気を操れるそうだ」
「厄災の竜の眷属とは、瘴気から生まれて、竜の復活を助けるものらしい」
集まってきた人は口々に状況を周りに伝えていく。ここは、ナルヴィク侯爵家の力が強い土地で、その孫娘である隣国の王女が泣いており、聖女がその原因であるというセンセーショナルな状況に、人々の困惑が伝わる。
ああ……学生時代に、天音の出自がバラされた時と状況は似ている。
人の注目が集まっているところに、私生児だというぼんやりとした、けれども他人の不幸という発火材を少し足すだけで、噂は一気に一人歩きする。
『あいつは娼婦の娘で、天王寺谷家の正妻の座を狙っている。そのためには手段を選ばない』
『外では裏の組織と繋がっていて、良家の子女たちを裏の市場に斡旋してる』
『そうだ。だから何をしてもいいんだ。やられる前にやるんだ。これは正当防衛だ』
そうして天音を虐げることは、正当なことだと周りの人々に自然と刷り込まれていく。
また、同じことを繰り返すの? せっかくシグナイ様から未来のことを考えられる機会をもらったのに。声を出して反論したいのに、声が出ない。ヒューヒューと喉から空気が出るばかりで、情けないと天音は泣きたくなる。
「――聖女様を囲って、一体、何の騒ぎだ」
その時、セスの声がホールに響く。鈍色の瞳が、状況を理解するために周りを見渡す。
「セス!」
エレノアが涙ながらにセスに向かって走り、まるで天音を恐れるようかのように抱きつく。
「アマネ様が、瘴気を操って私に危害を与えようとするのです」
「はあ? エレノア王女殿下、聖女様にはそんなことはできませんよ」
セスは呆れたように、エレノアに冷たい視線を向ける。
「でも、昨夜、アルテア殿下とアマネ様と会った後、私たちオーガに襲われて。アマネ様の機嫌を損ねてしまったから、瘴気で、あいつらを呼び寄せて報復されたのですわ……」
セスは、「ああ、その件ですか。大変でしたね」と一言エレノアに言うと彼女を自分から引き剥がす。
「皆様、お騒がせして申し訳ございません。今日未明起こった、エレノア王女殿下がオーガに襲われたという事件につきまして、私どもで現場を確認してまいりました」
セスは天音に向かって、大丈夫だと言うように少しだけ頷く。
「後ほど、神殿から正式に発表致しますが、オーガは討伐済み、瘴気は神官により浄化は完了しています。ただオーガのベルーゲンへの進入経路が不明のため、引き続き調査しております。王都へ聖騎士団の派遣を要請しましたので、午後には到着します。念のため、聖騎士団の到着までは、森や郊外の人気のない場所には行かないでください」
様子を見守っていた人々の間に一様に安心したような空気が流れる。
「まあ、良かったですわ」
エレノアが、安堵したかのようにヘナヘナと床に座り込む。そして、使用人たちが「姫様!」と駆け寄る。
そのわざとらしさが滑稽で、まるで学芸会の劇のようで、天音は緊張していたのが馬鹿らしくなる。そしてセスが来てくれたことで、勇気が湧く。まるでシグナイ様が側にいてくれているような安心感がある。
さっきまで震えていた身体が嘘みたいにしゃっきりとする。一歩前に踏み出す。
「皆様、瘴気や悪意ある存在の件で、不安にさせて申し訳ございません。聖女として、この場でお詫び申し上げます」
天音は深呼吸を一つすると、堂々とした様子で、深々とお辞儀をする。
「エレノア王女殿下に大きなお怪我がなくて安心しました。ですが、その尊いお身体に後ほど何かあっては、メイオール王国としても不名誉なことですので……」
天音はそう言うと、両手をエレノアたちに向ける。
「治癒」
輝く白い光はエレノアたちを包み、瘴気と怪我の治療をする。その白く輝く光は、あまりに神々しく、見ていた人々は言葉を失った。
セスは、「神聖力の調節がうまくなったな」と天音に駆け寄り、手の甲に恭しくキスを落とす。
先程まで不安げにざわついていた人々は、しばらくすると、口々に「やはり本物の聖女様だ!」と言い始める。
「皆様、まだまだ不安なことがあるかと思います。神殿に神聖力を込めた聖水晶をお渡ししていますので、お役に立てていただければと思います」
天音は、アルテアの作り笑顔を真似て、盛大に微笑む。
エレノアは、少しだけ不機嫌そうな表情をしたが、すぐに立ち上がると、「セス、引き続き調査をお願いね」と使用人たちを引き連れて、ホールから出ていった。
騒ぎがおさまったところで、セスと一緒にホールから王族及び関係者以外立ち入り禁止の通路に戻る。
緊張が切れたのか、膝ががくがくと震え、柱に手をついたまま歩けなくなってしまう。変な汗が吹き出し、喉が渇き口の中がねばねばとする。
「聖女様、頑張ったね。お疲れ様」
「はい……。一世一代の大芝居でした……。セス様が来て下さらなかったら、私は何もできませんでした」
セスが天音の手を取り、背を支え中庭の座れる所まで連れて行ってくれる。
「ひとまずアルと王都に戻るといい。私はここで調べたいことがあるから、もう少し逗留する」
「調べたいことって?」
「オーガたちがどこから来たかを調べたい。昔と違って、今はあまり人が多い場所に現れないんだよ。長い歴史の中で、人族との適度な距離感を覚えたのだろう。それにあの巨体、闇に紛れて忍び込んだとしても、明るくなれば普通は侵入経路は分かるものだ」
「どうしても瘴気が欲しかったとかじゃなくててすか?」
「それも考えたが、ナルヴィク侯爵家にあった瘴気は、通常現れるくらいものので、私たちだけでも対応可能だった。そこまでして欲しがるとは思えない」
「不思議ですね」
「そう。そして警備隊に倒されたオーガには不可解な傷や針を刺した跡があったのも気になる。それにオーガは簡単に倒されないのだが、戦った際に全然手応えがなかったらしい」
「エレノア様が何かされたのだと思うのですが……。何をされたのか分かりませんね」
中庭から見えるグレーの雲が重たく空にのしかかっているように見える。天音は不安を打ち消すようにふるふると頭を振る。
「聖女様のことは、絶対に自分の命に代えても守ります。アルテアもついています。ですからどうかあまり無理をなさらずに」
「命に代えてもなんて、ダメですよ」
「聖女様が、無理をしなければいいのですよ」
「……ごめんなさい。私のせいですね」
「心配、しているのです」
セスは神聖力を使うたびに、少しずつ輝きを失っている白鳥の文様が浮かぶ天音の手を、自分の両手で慈しむように包んだ。
***
その後、アルテアとオウロスへ戻り、エレノアからの反撃に備えて緊張した日々を過ごした。
しかし陽が沈まない短い夏が終わり、再び冬が来ても、何も大きなことは起こらなかった。
トウライアムウル連合国ミドルアース領での瘴気による大気汚染が深刻化しており、何かをしている余裕がなかったのかもしれないと二人は考えていた。
ベルーゲンでの騒動は、オーガの侵入経路は結局分からず、うやむやになったまま終結した。
その後、同様の騒動は無かったが、一部の人は天音の聖女としての存在を疑うようになった。ただ多くの人々は天音がいてくれたから、これ以上の事件は起こらず、街は守られたのだと考えていた。
嵐の前の静けさだけが不気味に、横たわっているように思えた。
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