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7.正体
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屋敷の中は静寂に包まれていた。
廊下を歩く自分たちの足音すらも聞こえない。まるで床や壁に音を吸い取られてしまったかのように。
不気味というより、不思議な雰囲気のする場所だ。
アグリッパ以外の使用人の姿も見えない。
この広大な屋敷や庭園を、たった一人で管理しているとは思えないが……。
と、先頭を歩いていた黒衣の男は、ある部屋の前で立ち止まった。
「入れ」
後ろの二人に短く告げてから部屋に入る。
サリサも恐る恐る室内に足を踏み入れると、そこは応接間だった。
座るように言われたソファーはふかふかで柔らかく、その心地良さに逆に居心地の悪さを感じてしまう。
そんなサリサの心境など露知らず。アグリッパは、どこからか用意したケーキと紅茶を手早くテーブルに並べていく。
細かくした果肉入りの柑橘ソースをかけたレアチーズケーキ。森の中でいただいたものと同じ香りの紅茶。
ただし、ケーキはサリサの分だけだ。ヴィクターの前に置かれたのは紅茶のみ。
え、え、と狼狽えるサリサに、どこか不満げに口を開いたのはアグリッパだ。
「私はお菓子作りが趣味なんですが、肝心のヴィクター様は甘いものが嫌いなんですよ。この私が丹精込めて作っているのに、全く食べようとしない」
「エルフに食事など必要ないだろう」
「必要がないだけで、味覚自体はあるでしょうよ。食べるという行為を楽しまないなんて勿体ない」
「だとしても、お前の作るものはいらん」
随分と緩い主従関係のように思える。
主にぴしゃりと跳ね除けられ、けれどアグリッパは唇で弧を描きながらサリサを見た。
「別にいいですよ。私には私の作るお菓子を食べてくださる人がいますし?」
「……もしかしてこのケーキも、さっき食べたパンもジャムもアグリッパ様が作ったんですか?」
「はい。私は食事を摂ることも作ることも大好きなんです」
「本当ですか!? とっても美味しかったです……!」
改めて感想を伝えると、アグリッパは笑みを深くした。
「いやぁ。これだけ喜んでくださると、これから毎日作りがいがありそうですねぇ。明日は今日のよりももっとふかふかのパンを焼いて──」
「アグリッパ、そんなことはどうでもいい。この人間を連れてきた理由を言え」
ヴィクターは不機嫌なのを隠そうともせず、サリサを睨みつけた。
……まさか結婚のことについて、当人だけが何も知らないのだろうか。いや、サリサも昨晩知ったばかりなのだけれど。
ところがヴィクターの口から次に放たれたのは、意外な言葉たちだった。
「この森に入ってからの動向を密かに観察していたが、お前は俺の知る『テレーゼ』ではない」
「な、何を仰っているのですか? 私は確かにテレーゼです! 他の誰でもありません!」
動揺のせいで語気を強めてしまった。これでは余計怪しまれる。
サリサは青ざめながら自分の頬に触れた。
姉は自分たち姉妹は顔が似ていると言っていたが、他者から見ればその差は歴然だったのだろう。
美しいテレーゼを妻に迎えたはずが、いざやってきたのはこんな小娘。
(怒るに決まってるよね、こんなの……)
だがいくら詰られるようと、サリサは自分がテレーゼであると言い張るだけだ。そのためにここにいるのだから。
そんなサリサを更に追い詰めるように、執事が言葉を放つ。
「それ、私も思ってました。どう考えてもテレーゼじゃないよなぁって」
「アグリッパ様まで何を……」
「だってあまりにもいい子過ぎますよ、あなた」
何その理由。
瞬きを繰り返すサリサに、アグリッパは滾滾と語る。
「使用人の私にも敬語を使う。森の中を歩き続けていても、文句の一つも言わない。わざと硬めに焼いたパンも美味しいと褒める。他にもありますよ。テレーゼ様は大の動物嫌いと聞きます。他の令嬢たちと森を散策している時、傍に寄ってきた野兎を蹴り飛ばしたくらいなのに、あなたは好きだと仰った。だから早い段階で確信していましたよ。……あなたが別人であると」
アグリッパの眼差しと声音は叱責するようなものではなかった。ただ、「どうしてこんなことを」という純粋な疑念が込められている。
サリサは何も言い返せず、黙って聞いていることしかできずにいた。どんなに否定しても、無駄だと悟ったからだ。
「ごめ……ごめん、なさい……」
震えた声で謝罪する。ヴィクターたちを騙したことに対して、姉に成り切れなかったことに対して。
自責の念に耐えきれず、何度も謝る。作戦失敗だ。彼らからは罵倒され、実家に戻れば家族からも責められる。
何より、姉からの暴力が待っている。
殴られるのも、蹴られるのも、切られるのも平気だ。痛みを感じないから。
けれど、首を絞められた時の苦しさだけは怖い。
姉の細くて白い指が喉に絡みついて、じわじわと力を込められる。
そうしたら今度こそ二度と呼吸することができなくなって、死ぬことが……。
「おい」
ヴィクターの声にハッと我に返る。彼は険のある目付きでサリサ、ではなく放置されたままのケーキと紅茶を見ていた。
「早く食え。茶も冷める」
「……はい」
促され、サリサはフォークでケーキを切り分けるとゆっくりと口に運んだ。
つるりとした食感。濃厚な風味。そこにソースの甘酸っぱさが混ざり合う。果肉のプチプチとした食感が楽しい。
食べ進めるうちに、胸の中に渦巻いていた不安が消えていく。
甘くなった口内を紅茶ですっきりさせると、またケーキが食べたくなる。
気がつくと、サリサからは自然と笑みが零れていた。
廊下を歩く自分たちの足音すらも聞こえない。まるで床や壁に音を吸い取られてしまったかのように。
不気味というより、不思議な雰囲気のする場所だ。
アグリッパ以外の使用人の姿も見えない。
この広大な屋敷や庭園を、たった一人で管理しているとは思えないが……。
と、先頭を歩いていた黒衣の男は、ある部屋の前で立ち止まった。
「入れ」
後ろの二人に短く告げてから部屋に入る。
サリサも恐る恐る室内に足を踏み入れると、そこは応接間だった。
座るように言われたソファーはふかふかで柔らかく、その心地良さに逆に居心地の悪さを感じてしまう。
そんなサリサの心境など露知らず。アグリッパは、どこからか用意したケーキと紅茶を手早くテーブルに並べていく。
細かくした果肉入りの柑橘ソースをかけたレアチーズケーキ。森の中でいただいたものと同じ香りの紅茶。
ただし、ケーキはサリサの分だけだ。ヴィクターの前に置かれたのは紅茶のみ。
え、え、と狼狽えるサリサに、どこか不満げに口を開いたのはアグリッパだ。
「私はお菓子作りが趣味なんですが、肝心のヴィクター様は甘いものが嫌いなんですよ。この私が丹精込めて作っているのに、全く食べようとしない」
「エルフに食事など必要ないだろう」
「必要がないだけで、味覚自体はあるでしょうよ。食べるという行為を楽しまないなんて勿体ない」
「だとしても、お前の作るものはいらん」
随分と緩い主従関係のように思える。
主にぴしゃりと跳ね除けられ、けれどアグリッパは唇で弧を描きながらサリサを見た。
「別にいいですよ。私には私の作るお菓子を食べてくださる人がいますし?」
「……もしかしてこのケーキも、さっき食べたパンもジャムもアグリッパ様が作ったんですか?」
「はい。私は食事を摂ることも作ることも大好きなんです」
「本当ですか!? とっても美味しかったです……!」
改めて感想を伝えると、アグリッパは笑みを深くした。
「いやぁ。これだけ喜んでくださると、これから毎日作りがいがありそうですねぇ。明日は今日のよりももっとふかふかのパンを焼いて──」
「アグリッパ、そんなことはどうでもいい。この人間を連れてきた理由を言え」
ヴィクターは不機嫌なのを隠そうともせず、サリサを睨みつけた。
……まさか結婚のことについて、当人だけが何も知らないのだろうか。いや、サリサも昨晩知ったばかりなのだけれど。
ところがヴィクターの口から次に放たれたのは、意外な言葉たちだった。
「この森に入ってからの動向を密かに観察していたが、お前は俺の知る『テレーゼ』ではない」
「な、何を仰っているのですか? 私は確かにテレーゼです! 他の誰でもありません!」
動揺のせいで語気を強めてしまった。これでは余計怪しまれる。
サリサは青ざめながら自分の頬に触れた。
姉は自分たち姉妹は顔が似ていると言っていたが、他者から見ればその差は歴然だったのだろう。
美しいテレーゼを妻に迎えたはずが、いざやってきたのはこんな小娘。
(怒るに決まってるよね、こんなの……)
だがいくら詰られるようと、サリサは自分がテレーゼであると言い張るだけだ。そのためにここにいるのだから。
そんなサリサを更に追い詰めるように、執事が言葉を放つ。
「それ、私も思ってました。どう考えてもテレーゼじゃないよなぁって」
「アグリッパ様まで何を……」
「だってあまりにもいい子過ぎますよ、あなた」
何その理由。
瞬きを繰り返すサリサに、アグリッパは滾滾と語る。
「使用人の私にも敬語を使う。森の中を歩き続けていても、文句の一つも言わない。わざと硬めに焼いたパンも美味しいと褒める。他にもありますよ。テレーゼ様は大の動物嫌いと聞きます。他の令嬢たちと森を散策している時、傍に寄ってきた野兎を蹴り飛ばしたくらいなのに、あなたは好きだと仰った。だから早い段階で確信していましたよ。……あなたが別人であると」
アグリッパの眼差しと声音は叱責するようなものではなかった。ただ、「どうしてこんなことを」という純粋な疑念が込められている。
サリサは何も言い返せず、黙って聞いていることしかできずにいた。どんなに否定しても、無駄だと悟ったからだ。
「ごめ……ごめん、なさい……」
震えた声で謝罪する。ヴィクターたちを騙したことに対して、姉に成り切れなかったことに対して。
自責の念に耐えきれず、何度も謝る。作戦失敗だ。彼らからは罵倒され、実家に戻れば家族からも責められる。
何より、姉からの暴力が待っている。
殴られるのも、蹴られるのも、切られるのも平気だ。痛みを感じないから。
けれど、首を絞められた時の苦しさだけは怖い。
姉の細くて白い指が喉に絡みついて、じわじわと力を込められる。
そうしたら今度こそ二度と呼吸することができなくなって、死ぬことが……。
「おい」
ヴィクターの声にハッと我に返る。彼は険のある目付きでサリサ、ではなく放置されたままのケーキと紅茶を見ていた。
「早く食え。茶も冷める」
「……はい」
促され、サリサはフォークでケーキを切り分けるとゆっくりと口に運んだ。
つるりとした食感。濃厚な風味。そこにソースの甘酸っぱさが混ざり合う。果肉のプチプチとした食感が楽しい。
食べ進めるうちに、胸の中に渦巻いていた不安が消えていく。
甘くなった口内を紅茶ですっきりさせると、またケーキが食べたくなる。
気がつくと、サリサからは自然と笑みが零れていた。
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