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第十章 混乱と動乱

第230話 もうすぐ

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 八月も終わりにさしかかった頃。ジャガイモと大豆の今年二度目の栽培が行われたアールクヴィスト領は、また景色を様変わりさせていた。

 ジャガイモも大豆も同じ農地で連作ができないため、必然的に二度目の作付は一度目とは違う土地で行うことになる。領都ノエイナや鉱山村キルデ、開拓村、アスピダ要塞の周囲はもちろん、都市の中にさえ空いている土地を見つけては掘り返し、強引な栽培がされていた。

 今年ばかりは仕方のないことだが、空き地や道の端でジャガイモの葉が生い茂り、大豆の房が太陽を浴びながら風に揺れている光景は異様だった。

 緊急の耕作地拡大にはクレイモアのゴーレム使いも動員され、それどころか領主のノエインも手が空いているときは自らゴーレムで開墾したり、一度目の作付で役目を終えた臨時の農地を固め直したりした。開拓初期以来の青空の下での労働だ。

 領都内では目の前で作物が成っているわけだが、それを領民が勝手に採って食べる事件は今のところ数件しか起こっていない。領内で食糧自体は足りているし、盗みの場面を見回りの兵士にでも見つかったら厳罰に処されるとほとんどの者が理解しているからだ。

 実際に、魔がさして盗み食いに手を染めた者は公開の棒打ち刑になり(子どもがしでかした例ではその親が棒で打たれた)、常習的に盗んでいたと発覚した者が二人ほど領外追放となった。それが効いたのか、以降は動揺の事件はない。

 王国が混乱に包まれる中でも、比較的平穏に日々が過ぎているアールクヴィスト領。その領主家屋敷の会議室では、従士たちを集めた定例会議が例のごとく開かれていた。

「――よって、領都周辺の見回り時に領軍が盗人を発見した例は今月で四件増え、累計で八件となりました。農地の端の方で作物が盗まれていた被害と照らし合わせると、それ以外に数人ほどが入り込んで、盗みを働いて領外へ逃げおおせたものと思われます。力及ばず申し訳ございません」

 報告する従士ダントの言葉に、ノエインは顔をしかめた。盗人を逃がした領軍ではなく、領外から忍び込んだ盗人の増加そのものに不快感を覚えての表情だ。

「アールクヴィスト領は人口規模のわりに広いから、領内を完璧に見回るのは難しいさ。その点を責めるつもりはないよ……だけど、今月だけで領外からの盗みが四件以上も増えたのか。今後が心配だね」

「他領では盗賊被害まで発生していますから、むしろアールクヴィスト領はそれだけの被害で済んでいる方だとも言えますが……」

 懸念を語るノエインに、従士長ユーリが返す。

 今はどの貴族領も、食糧不足による治安悪化に悩まされていた。ケーニッツ子爵領をはじめ近隣の領地でも数人規模だが盗賊の目撃報告が複数回あり、ノエインもレトヴィクに行く際は多めの護衛を連れている。

 それと比べれば、コソ泥が入り込んでジャガイモを何株か引っこ抜いて逃げ去る程度で済んでいるアールクヴィスト領は相当マシな部類だ。ユーリの言うことも正しい。

「そうだね……だけど泥棒がうろついてると領民たちも不安がるだろうし、農作業中に鉢合って死傷者でも出たら事だ。領境から領都までの街道周辺の見回りを増やせる?」

「領都内の巡回を減らし、人手を回せば可能です。領都の治安は今のところ良好なので、多少減らす分には問題ないかと」

「いいよ。必要なら親衛隊も回して。実務的なことはユーリとペンス、ダント、グスタフで相談して決めてほしい」

「「了解」」

 ノエインに名前を呼ばれた武家の従士たちが頷く。国境防衛や森の深部の見回りを担うラドレーやリックの下からは兵を抜けないので、彼らはここには加わらない。

 ダントによる治安維持に関する報告が終わり、今度は婦人会を統率する従士マイが立つ。

「……婦人会からです。これは農民統括のエドガーと協同の報告になります。医師のセルファース先生からの提言も含まれています」

 女性のまとめ役と農民のまとめ役と町医者。報告者の面子的に、領民の生活に関することだろうと予想しつつ、ノエインはマイの方を向く。

「ジャガイモと大豆を、よく火を通さずに食して腹痛などの症状を起こし、診療所を受診する領民が増えています。特に食べ慣れていない大豆ですね。なかには症状が重くなり、仕事を何日も休まなければならない者も出ていると……同じ食事をとって一家そろって食中毒になった例も少なくありません」

「ああ……」

 そんな懸念もあったな、とノエインは夏前のことを思い出す。

 ジャガイモを生で食すと腹痛や下痢、おう吐などの症状を引き起こす。大豆を生で食べ過ぎても同じくだ。ジャガイモが食卓に並ぶ機会が例年と比べて多くなり、さらに食べ慣れない大豆が食用に回されることでこれらの食中毒が増えるのではないかとマイから意見をもらい、婦人会を通して注意を広めてもらっていた。

 が、それだけでは不足だったらしい。領民たちも失念していたのか、あるいはしっかり火を通すのを面倒がったためか、既に何十人も診療所の世話になっているという。

「よほど重度でない限り死者は出ないでしょうが、労働力が損なわれ、診療所の薬の減りも早くなるため、このままでは問題があるかと……」

「そうだね。放置していいことじゃない……もっと大々的に注意喚起を呼びかけようか。領都の広場に看板を立てて、日に何回か兵士を立たせて大声で読み上げさせよう」

 兵士に読み上げさせるのは、字が読めない領民にも注意を呼びかけるためだ。平民の子どもが通える学校があるアールクヴィスト領だが、看板に書かれた文章をスラスラと読める者はまだまだ少ない。

「注意の文言はこちらですぐに考えます」

「看板、すぐに作りますよ!」

「領都内の巡回手順に看板の読み上げを加えましょう」

 ノエインの提案に、マイとダミアンとユーリが答えた。

「ありがとう。それじゃあ次は――」

 その後も細々とした領内の情報共有が終わり、さほど時間もかからず会議は終了。最後にノエインは一部の従士――ユーリ、バート、マイ、エドガーを居残らせた。

 この四人にノエインとクラーラ、マチルダを合わせた七人だけが室内に残る。

「それで、何の話だ?」

 領主の身内と古参の従士だけになり、ユーリが態度を気安くしてノエインに問いかける。

「僕も今日の会議の前にエドガーから教えてもらったんだけどさ、一部の領民の間で領主への不満が出てるらしいんだよね。食事がジャガイモと大豆ばかりになってるのが嫌だ~これは領主様のせいだ~って感じの」

 ノエインの話を聞いたユーリたちがエドガーの方を見る。視線を受けたエドガーは苦い表情で口を開いた。

「……私も小作農たちが話しているのが何度か聞こえただけですが。会議の場であまり大々的に言うべきことではないかと思って、ノエイン様お一人のお耳に入れさせていただきました」

「愚痴ってたのはまだ忠誠が弱い新移民らしいから仕方ないのかもしれないけど、聞いたときは悲しくなっちゃったよねえ。僕の領地運営に一部とはいえ民が不満を持ってるなんて」

「……とはいえ、そりゃあいくらなんでも民が勝手すぎるだろう」

「そうですよ、アールクヴィスト領民が誰一人として飢えずに済んでるのは他ならないノエイン様のおかげなのに」

 ノエインが苦笑いをすると、ユーリとマイが夫婦そろって擁護してくれる。

「どれだけ民を満足させようとしても、民はすぐに自分が享受する幸福に慣れて感謝を忘れてしまう……というのが領主貴族の共通の悩みだと聞いたことがあります」

 クラーラが困ったような表情で名門貴族家出身ならではの格言を語ると、従士たちも微妙な表情になった。貴族ならではの苦労を想像してくれたらしい。

「まあそういうわけで、このままだと僕も悲しいし領地運営的にもよくない。だから領民たちの忠誠を維持するために、領内にちょっとした噂を流してほしくて君たちを集めたんだよねえ」

「……なるほどな。それでこの四人か」

 呟いたユーリも他の三人も、納得した顔になる。

 四人とも古参の従士で、領内の世論操作の裏工作を頼めるほどにノエインが信頼を置いている。そしてユーリは領軍兵士たち、マイは領内の女性陣、エドガーは農民たちに情報を広めるだけの強い影響力を持つ。

 そして外務担当のバートは――

「俺が見てきた領外の様子を伝え広める……っていう体で噂を広めればいいんですね。『領外は凶作のせいでどこも飢饉が起こっていて、悲惨極まりない有り様だ。それに比べて飢えずに済むアールクヴィスト領はこの世の天国だ。この平穏を実現してくださっているノエイン様は素晴らしい、神様のような方だ』みたいな感じで」

「あははは、大正解。さすがバート、よく分かってるね」

 ノエインが笑いながら頷くと、バートも苦笑いで「恐縮です」と答える。

「領外の状況をよく知らない領民の一部が、パンを食べられる機会が減ったってだけで現状に不満を持ち始めるのは、まあ仕方ない。視野が狭いのは教育の不足や生活環境のせいだからね。だけど僕も領主として頑張ってるし、これくらいの裏工作は許されるよねえ?」

 多くの場合、学のない民の思考は単純だ。少しのことで支配者に対して不満を持つが、その逆も然り。少しのことでまたコロッと支配者を好きになる。

「……ああ、いいんじゃないか。俺たちもそういう話を広めるように尽力しよう。治安維持のためにもなるしな」

「領民たちも、自分がいかに恵まれているか自覚する方が幸せでしょうからね」

「何より、常に民を慈しまれているノエイン様は民から敬愛されるべきお方ですから」

「いかにアールクヴィスト領が恵まれてるか強調するために、領外のことは思いっきり悲惨に語りますね」

 四人はそれぞれの言葉と表情で頷いた。

・・・・・

 会議室を出たノエインは、再び領主執務室に戻った。本当はもう仕事を切り上げてクラーラとエレオスとくつろぎたいが、それはまだおあずけだ。

「ふうー」

 部屋に入ってマチルダと二人きりになるなり、ノエインは気を抜いて深いため息をついた。

「お疲れ様でした、ノエイン様」

「ありがとうマチルダ……ちょっと甘えてもいい?」

「はい、もちろんです」

 頷いたマチルダの方へ近づき、そのまま抱き締め合う。会議を終えた後だ。これくらいの息抜きは許されるだろう。

「最近は気の疲れる仕事ばっかりだな……」

「ご苦労をお察しします。私が疲れを代われるものなら代わって差し上げたいほどです」

 食糧増産、金欠や塩不足や盗人への対応、そして領民感情のコントロール。神経を使う面倒な仕事ばかりが続くことをノエインがぼやくと、マチルダはノエインの頭を胸に抱き、優しく撫でながら答える。

「ありがとう……こうしてマチルダに甘えられるから頑張れるよ」

 言いながら顔を上げて、鼻先が触れ合うような距離でマチルダと見つめ合う。そのままどちらからともなく唇を重ねる。

 数秒ほどで唇を離し、少しの名残惜しさを感じつつノエインはマチルダから離れて自分の執務机についた。

「……十月にベトゥミアから食糧が輸入されたら国内の情勢も改善するだろうし、金属資源が売れてお金も入る。それまでもうひと頑張りだね」

 もうすぐ状況はよくなる。そう信じて、ノエインは執務を再開した。
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