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第十章 混乱と動乱

第231話 襲来①

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 キヴィレフト伯爵領の領都ラーデンは、ロードベルク王国で最大の港湾都市として知られている。伯爵領全体で七万、領都ラーデンは三万の人口を抱え、遠く海を越えた先にあるベトゥミア共和国をはじめ、周辺国家との海洋貿易の玄関口として栄えてきた。

 戦争以前は西のランセル王国沿岸部からも多くの船が訪れていたし、少数ながら東のパラス皇国から商船が来ることもある。それらの国よりさらに西や東にある国々からも、沿岸航海によって船舶が訪れてきた。

 そんな交易都市ラーデンも、今年の大凶作の影響は免れなかった。

 なんとかベトゥミア共和国から大量の食糧輸入の契約を取りつけたものの、かの国とは海路で片道二週間もの距離がある。おまけにロードベルク王国は未だ遠洋航海の技術を持たないので、貿易はベトゥミアの輸送船がロードベルク王国と本国を行き来するかたちでのみ行われてきた。

 よって、こちらから向こうへ出向くことはできない。食糧の集積も輸送もベトゥミア任せだ。

 まとまった食糧を輸入できるのは秋になってから。それまでは例年通りの貿易しかできない。通常の貿易でも多少の食料の輸入はあるが、その量は王国全体が飢饉に陥っている中では雀の涙だ。

 さらに、キヴィレフト伯爵領の当代領主であるマクシミリアン・キヴィレフトはその少ない食糧を領内に留めず、領外へとほぼすべて売ってしまった。破格の高値をつけ、関税をこれでもかと上げても食糧が売れるのだ。金に目のくらんだマクシミリアンは、自領の民の救済を考えずに目先の利益をとった。

 おまけに、凶作だった麦の減税もほとんど行っていない。もともと格差が広がっていたキヴィレフト伯爵領の社会はさらに分断が進み、貧民や奴隷の中には人の死体を食う者まで現れるほどに飢饉の影響が広がっていた。

 王歴218年の九月の終わり。領内の混乱をよそに、マクシミリアンはキヴィレフト伯爵家の屋敷の自室で昼間から酒をあおっていた。

 酒の肴はベトゥミアから個人的に仕入れた希少な魔物の肉の燻製。薄い一切れが銀貨一枚もする燻製を、安い干し肉でも齧るかのように口に放り、対して味わうでもなく噛み、一本で平民の年収が飛ぶような高級酒で流し込む。

「……まったく、貧乏人どもは五月蠅くて嫌になる」

 酒と燻製の臭いが入り混じった息を吐きながら、マクシミリアン独り言ちる。

 ここ最近は、領主への嘆願と称して屋敷に泣きついてくる貧民が相次いでいた。やれ税を減らせだの、やれ食糧を配給しろだの、煩わしいことこの上ない。凶作で収穫が減ろうと、それは寒波や雪に備えていなかった農民どもの責任だ。なぜ領主の、大貴族の自分が尻拭いをしてやらねばならないのか。

「民は税を納めるために生きているのだ。税を納められず死ぬのならば勝手に死ねばよい。なあロッテンマイエル、そうだろう?」

「……旦那様の仰る通りにございます」

 マクシミリアンが声をかけると、部屋の隅に控えていたメイド長がそう答えた。この老齢のメイド長はいつでもマクシミリアンに都合のいい言動をとってくれる。実に便利で快適な、使用人の鑑だ。

「貧民どもも、お前くらい聞き分けと頭が良ければなあ。特に今日の午前中に来た奴らは不愉快だった……まあ、見せしめに二人ほど斬った後の反応は面白かったがな」

 今日は領都ラーデンから近い獣人の集落の住民が、集団で嘆願に来たのだ。屋敷の前であまりにも五月蠅かったので自ら出て行って怒鳴りつけたら、その中から進み出た兎人の夫婦がよりにもよって足元に縋りついてきた。獣人の農民の汚い手で、あろうことか領主である自分の服に触れたのだ。

 あまりにも腹が立ったので、貴族への暴行罪を言い渡して衛兵にその場で斬り殺させた。そしたら他の獣人どもは泣いたり叫んだり大騒ぎで逃げ帰っていった。あれは少しばかり愉快な光景だった。

 これから嘆願に来る民がいたら、同じように斬り伏せると効果的かもしれない。そんなことを考えていると、飲み飽きた酒も少しばかり美味く感じる。

 数日中に、早ければ今日にでも、ベトゥミアから大量の食糧を積んだ船団が到着するだろう。その中にはベトゥミア商人どもからの手土産も積まれているはずだ。また新しい美酒か、珍しいつまみを受け取れるはずだ。この酒もとっとと空けてしまおうか。

 そんなことを考えつつ、気晴らしに椅子から立ち上がって部屋の大窓を開け、テラスに出た。自分の富の象徴である領都ラーデンの街並みが広がり、酒で少しばかり火照った顔を潮風が撫でる。実に心地よい。

「ん? あれは……おお、船団が来たか。早かったな」

 海の方に目を向けると、いくつもの大型船の影が見えた。ベトゥミアの輸送船団だ。

 これでロードベルク王国に大量の食糧がもたらされる。その売買からの税でキヴィレフト伯爵家はまた大儲けできるし、商人たちからの賄賂も相当額を期待できる。他貴族や王家にも恩を売れる。マクシミリアンは思わず顔がニヤつくのを感じる。

 と、そこへドタドタと廊下を走る音が近づいてきた。併せてガチャガチャと鎧が擦れるような音も。領軍兵士だろう。

 軍事費を食うだけで何の富も生み出さない領軍は気に食わないが、機嫌のいい今ばかりは屋敷内を騒々しく走ってきたことに腹も立たない。

「入ってい――」

「報告! 緊急の報告です!」

 マクシミリアンが入室を許可する前に、兵士は勝手に扉を開けて部屋に踏み込み、マクシミリアンの前で片膝をついた。それを見て、扉の傍に控えていたメイド長が呆気に取られている。

「騒がしいな、何を焦っている? 船団の到着の報告であろう? もうここからも見えている。すぐに――」

「王都より報告です! ベトゥミア共和国からロードベルク王国へ、宣戦布告がなされました! 本日の午前のことです!」

 報告を咄嗟に理解できず、マクシミリアンは固まる。数秒の間を置いて口を開く。

「……な、何だと!? そ、そ、そんなわけがあるか!」

「いえ、間違いございません! 王都に駐在するベトゥミア共和国の大使より、オスカー・ロードベルク3世陛下に宣戦が布告されました! 直ちに港の防衛準備を整えよとの、陛下直々の御命令です!」

 険しい表情で言い切った兵士を前に、マクシミリアンは青ざめた顔でよろめきながら海の方を振り返る。船団は先ほどまでよりもずっと近くに来ている。先頭の船はもう港に入っている。

「そんな……そんな……では、ではあの船団は……」

「ほ、報告します!」

 うろたえるマクシミリアンのもとへ、また別の兵士が転がり込んできて片膝をつく。

「ベトゥミア共和国の船団が港に攻撃を仕掛けてきました! 警備船は既に全滅! 港の警備隊が応戦しようとしていますが、数が……敵の数が多すぎます!」

「あ、あああ……そんな……何ということだ……」

 マクシミリアンは呆けた顔で力なく椅子に座り込んだ。部屋に控えていたメイド長も真っ青な顔で口に手を当てている。報告をした二人の兵士は戸惑った表情でマクシミリアンを見て、指示を待っている。

「キヴィレフト伯爵閣下! こちらにおられますか!」

 と、そこへ入ってきたのはエルンスト・アレッサンドリ士爵だった。

 エルンストはキヴィレフト伯爵家に金で雇われている武家の下級貴族の現当主だ。裕福なキヴィレフト家は従士以外にも、このような下級貴族を官僚として何人か飼っている。

 普段は面倒な領軍の運営を丸投げするだけの相手でしかないエルンストが、今のマクシミリアンにはとても頼もしい存在に見えた。

「おお、エルンスト! いいところに来た! 私は、私はどうすればいい!? ディートリンデやジュリアンはどこだ!?」

 領主貴族とは思えないほどみっともなく取り乱したマクシミリアンに小さく眉を顰めてから、エルンストは答える。

「……奥方様と若様のご所在については私は存じ上げません。港はもう間もなく敵の手に落ちます。もはや上陸は避けられないでしょう。現在は領軍隊長のサトゥルノ士爵が領都内で防御陣地構築や民の避難誘導の指揮にあたっています。閣下には領主として、領軍の士気の維持に努めていただきたく――」

「な、何を言っているのだ! あの船団を見ろ! きっとあれが全部、食糧の輸送船団に見せかけた侵攻軍なのだろう!? か、勝てるわけがない! 早く、早く私と家族を逃がせ!」

「民を捨てて自分だけ逃げ出すおつもりか!」

 マクシミリアンが叫ぶと、それを遥かに上回る気迫でエルンストが怒鳴り返した。彼に今まで逆らわれたことなどないマクシミリアンは驚きのあまり唖然とする。

「……若様とお孫様を避難させるというのは納得できます。キヴィレフト伯爵家の血を絶やさないために必要な措置でしょう。ですが、あなたが怖気づいて逃げるのは駄目だ。あなたはこの地の領主です。港を持ち、海の国境を預かる領主貴族なのです。何の対応もせず命欲しさに逃げ出すことは許されません」

 静かに、しかし反論を許さない凄みを滲ませながら言うエルンストを前に、マクシミリアンも黙り込む。

「あなた! ここですか! 何をぐずぐずしてるの!」

「父上! 父上えぇー!」

 そこへ、シャツにズボンという動きやすい服装で帯剣したディートリンデと、泣きべそをかいたジュリアンがやって来る。

 ジュリアンは、南東部のとある貴族家から二年前に嫁いできた嫁も隣に連れている。ジュリアンと似て頭の良くない嫁はこちらも半泣き顔で、その腕には昨年の秋に生まれたばかりの二人の長男が――マクシミリアンにとっては初孫が抱かれていた。

「いつまでぼさっとしているのですか! あなたは領主でしょう! ジュリアンたちを避難させて、あなたは戦いの準備をしなさいな!」

「奥方様の仰る通りです! 閣下、あなたが戦場に立たれなければ軍もついて来ませんぞ!」

「父上ぇ! このままでは死んでしまいますぅ! 早く逃げましょお!」

 ディートリンデとエルンストとジュリアンそれぞれが好き勝手に声を張る中で、マクシミリアンはしばし頭を抱え、そして、

「黙れえぇ!」

 机に拳を叩きつけて怒鳴った。
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