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第46話 子鹿の怨返し

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 距離は離れていたが、聖の目はミヤビの対戦相手であるバンビの異変をハッキリ捉えていた。一瞬だけ顔色が赤黒く紅潮すると同時に、顔じゅうの血管や神経が浮き出る異様な変容。しかしそれはすぐになりを潜め、まるで何事も無かったかのように元に戻った。だが、先ほどまでのバンビとは明らかに雰囲気が違う。露骨な怒りを周囲に撒き散らす烈火のような雰囲気から、獰猛でありながらもどこか陰湿な何かが彼女に憑りついた、そんな錯覚を覚えた。彼女の一瞬の変化は、聖の脳裏に残っていた嫌な記憶を蘇らせる。傾き始めた陽の光が茜色に染める夏空の下、聖は人知れず背中に怖気おぞけを感じて身震いした。

(今のは……)

 恐ろしく驚異的な精度で、ライン際に叩き込まれる強打

 これまで積み上げてきた努力を、否定されるような感覚

 無機質で無感情な表情と、こぼれ落ちた血の雫

 妙な不気味さと不吉さを帯びた、金色の瞳

――試合は終わり。失せなさい

 明滅するように、中断された弖虎てとらとの試合が聖の頭の中でフラッシュバックした。一緒に呼び起こされる不安と焦りの感情が、鈍痛にも似た胸騒ぎとなって聖の心を波立たせる。

(ミヤビさん、気を付けて。そのは何か、ヤバイ――ッ!)

 フェンスを握る手に知らずと力が入り、ぎちりと音を立てた。



 勝敗を分ける1ポイントを獲るべく我慢に我慢を重ね、耐えて耐えて耐え忍んだ挙句にその努力が水泡と帰す瞬間が、テニスの試合の中では幾度となく訪れる。選手達はその度に、ある者は無力感に打ちのめされ、ある者は絶望感から戦意を失い心挫かれ、またある者は怒り狂い感情を爆発させる。

 怒鳴り、喚き、暴力的な振舞いをすることでフラストレーションを発散するタイプの選手は、プロ・アマ問わず多く存在している。プロ選手ともなると、時に行き過ぎた行為が批判の対象となり、酷いときは多額の罰金や試合の出場停止を課せられることもある。しかしそれでも、彼らはそれをやめない。そうすることで自身を立て直し、闘志を燃え上がらせるためだ。次の1ポイントを奪い返すべく、怒り狂うことで挫かれた心を奮い立たせる。

 バンビの振る舞いを、ミヤビはそうした選手達と同じものと思っていた。確かに素行は良くないし、昔から気性の荒い性格なのは周知の通りだ。だが、ミヤビはバンビが怒りを誰構わずただ迷惑に撒き散らすわけではないということを知っている。


――ピンク頭。オマエ、小学生のクセに髪染めてんのか

 12歳だったバンビが初めてATCアリテニへ来たとき。小学生の大会で実績を残したジュニア選手が集められ、選抜試験を兼ねて開かれた合宿にバンビはいた。今よりも背が低く、ひょろひょろと細い頼りない身体つきだったのをミヤビは憶えている。

 派手に染められたピンクの髪は悪目立ちし、バンビは完全に浮いていた。先輩として小学生を取りまとめる役を与えられていた中学生の頃のミヤビは、この超がつく個性的な少女をどう扱ったものかと出会った当初は困惑するばかりだった。

 髪の毛の色を初対面で同世代の男子からからかわれたバンビだったが、その時は恐ろしく鋭い眼光で睨みつけ、やけに低いドスの利いた「うるせぇ」の一言で黙らせた。華奢な少女とは思えない言い知れぬ迫力に参加者たちは驚いたものだが、それだけではなかった。彼女は練習において他の選手とは明らかに一線を画すパフォーマンスを発揮し、参加していた全ての人間の度肝を抜いたのだ。

 バンビの異様な迫力に驚嘆する人達の中、ミヤビだけは素直にバンビのポテンシャルに尊敬の念を覚え、率先して彼女を褒めて声をかけた。しかしバンビは憮然とした態度のまま、ウンともスンとも言わずただ黙々と練習をこなすだけ。他のメンツからは下手に刺激しない方が良いのではと言われたが、ミヤビはバンビのわずかな態度の変化に気付き、ちょっと個性的だけどシャイなだけで決して悪い子じゃないと感じた。初日はずっと無視され続けてしまったが、ミヤビは構わず声をかけ続けた。

 事件が起きたのは合宿中日の3日目。
 それは男女混合で試合形式の練習をしたときに起こった。

美波みなみちゃん、相手は同い年の男子だけど美波ちゃんなら勝てるよ、頑張って!」
 ミヤビがそういって声援を送っても、バンビはそっぽを向いて返事をしない。だが、少し間を置いて彼女はボソッと呟いた。

「バンビ」
「え?」
「あたしは、バンビだ」

 伴美波ばんみなみという彼女の名前の事を言っていると察したミヤビは、初めて反応を返した彼女の意図にもすぐ気が付いて、送り出すようにしてその背中に向けて言った。

「バンビ、頑張っておいで!」
 試合の展開は圧倒的だった。同じ12歳同士だが、男子の方はすでに身長が170cmを越えていて、身体もすでにでき始めている。対するバンビは当時まだ150cmに届くかどうかの小柄な体格で身体の線も細く、比べるまでも無く体格の差は歴然としていた。

 それにも関わらず、バンビは男子顔負けの強打を連発し、あっという間にリードを開く。見ていた者たちの多くはバンビの持つ底知れぬ才能に驚嘆すると共に、つい先日、ミヤビと同い年の素襖春菜すおうはるなが、当時日本ナンバー1だった金俣剛毅かねまたごうきを圧倒した事件を思い出した。

――しかし。

 途中から、バンビの放つ際どいショットに対し、アウトのコールが続いた。審判をしていたのは同じ参加者の小学生選手で、審判役もトレーニングの一環として選手に任されている。だが、バンビの試合の審判をしていたのは、合宿初日からなにかとバンビに突っかかる少年で、そのジャッジが公平でないのは明らかだった。

 胸騒ぎを覚え、さすがに注意しなければと思ったミヤビだったが、遅かった。審判役の少年に暴言を吐いて怒鳴り散らすバンビ、それを挑発するように審判台から降りた少年が威圧的な態度で自分の正当性を主張する。そして、遂に我慢の限界に達したらしいバンビが、持っていたラケットで少年の顔面を思い切り殴りつけた。横っ面を殴られた少年は顔を押さえてうずくまり、バンビはそれを思い切り蹴飛ばして何度も踏みつけた。大人達が慌てて止めに入り、その日の練習が中断したのち、バンビはATCアリテニから追放された。



(一応、喧嘩両成敗ってことで事件にはならなかったけど)
 2年前の出来事を思い出しながら、ミヤビがバンビの表情を窺う。今、相手の顔にはいつものような激しさは無い。しかしそれでいて、腹の底が知れない不気味な暗い色をその瞳に浮かべている。バンビのそんな表情を、ミヤビはこれまで見たことが無かった。

(バンビはあのあと、どういう経緯かは知らないけど榎歌えのうたさんが面倒見てるんだよね。あの人なら確かに、バンビの手綱を握るのに適任って感じはする。地方の試合に出てきたときはびっくりしたなぁ)

 バンビをATCアリテニから追放したのは、最高責任者である沙粧さしょうだ。殴られた少年に対しては、被害者ということもあり手厚くフォローがなされた。しかしバンビに対しては、ATCアリテニはもちろんのこと、傘下のテニススクールへも出入り禁止が言い渡され、彼女は実質、木代きしろ市内周辺のテニス界隈から締め出されることになった。子供の喧嘩とはいえ、物を使って相手を怪我させたのだから、下手すれば訴訟を起こされても文句は言えない。それを考えれば、温情をもった措置であるという体裁も成り立つのだろう。だがミヤビは、口にこそ出さなかったがやり過ぎだと感じていた。

 類稀な才能を持つ選手でありながら、活躍の場を奪われたバンビだったが、それを引き取ったらしいのがバンビと同じようにATCアリテニとは袂を分かつ存在である榎歌だった。彼がどういう意図と経緯で彼女と接触したのかはミヤビも知らない。しかし、あるとき地方の試合会場に彼らが現れ、ミヤビとバンビはコートの上で相まみえた。

 試合は激戦を極めた。序盤でバンビにリードを許してしまったミヤビが追いかける展開となり、苦戦を強いられながらも必死に食い下がるミヤビ。そしてもう後が無いという場面で、バンビの打ったボールが偶然ネットの白帯はくたいに当たって跳ねた。それをチャンスと見たミヤビは、バンビのいない所を目掛けてスマッシュを放つ。だが、それを果敢にキャッチしようとしたバンビの顔面に、見事ボールがぶち当たった。

 幸い、ボールが当たったのは額の真ん中で大事には至らずに済んだ。しかしバンビはそのことで完全に怒りで我を忘れ、ミヤビ目掛けてダイレクトにボールを当てようと大暴走し、結局ミヤビが勝利を手中に納める結果に終わった。

 それ以降バンビはミヤビの前に、仕返しのためやってくる。

 はじめは、わざとではないにせよ申し訳ないことをしたと誠心誠意謝ったミヤビだったが、バンビが望むのは自分がやられたことの寸分たがわぬ再現であり、何をどう言おうと聞き入れなかった。ミヤビはなるべく彼女の意に添うようにと試合を受け、バンビの打ったボールに何度かわざと当たったが、それでもバンビは納得しなかった。もはや何をどうすれば彼女が納得するのか、誰にも分からない。来るたびに大声で喚きたてるので、さすがのミヤビも段々と鬱陶しくなり、あしらうようになった。



「いつも怒り狂ったテンションのバンビが道場破りみたいにやってきて、ミヤビさんが仕方なくそれを受けて立つだろ。序盤はバンビがミヤビさんに向かってダイレクトにボールを当てようと大暴れ、疲れてきたら少しまともに打ち合う。でも結局はバンビが先に力尽きてミヤビさんがリードを保ったまま逃げ切る。これがまぁ、お決まりのパターンなんだけど」

 いつの間にか棒アイスを買ってきたらしいマサキが、尖ったアゴをしゃくれさせながら美味そうにかじりつつ解説する。かき氷を固めたようなそのアイスをマサキが噛むと、冷たく爽やかにシャリシャリと音がした。

「んだけど今日はなんか変だな。いつもとちげーや」

 マサキの言うことが確かなら、既に序盤の展開は終わっているだろう。少しまともに打ち合うというのが、さきほどバンビが奇声を上げる直前までとするなら、今はバンビの体力が底を尽きる頃合いのはずである。だが、バンビの攻撃の激しさは序盤を遥かに超えていた。その様子を、聖は固唾をのんで見守るより他なかった。


(おかしいッ! いつからこんなッ!)
 ライン際ギリギリに叩き込まれたボールを、辛うじてショートバウンドで返球しながらミヤビは焦りを覚える。必死に当て返したボールはしかし力無く飛んで行き、まるで餌に食らいつこうとする獰猛な肉食獣を思わせる激しさでバンビが攻撃を重ねた。打たれたボールの軌道はまたしてもライン際、いや、ラインの上・・・・・だ。

「ッ!」
 ミヤビはボールを打たず、着弾を目視ウォッチした。バンビの狙いは明らかだが、そう何度も連続してラインの上を狙えるものではない。そろそろボール1つ分くらいアウトするのではないかと思い見送った。だが、ボールマークはラインの上。またも有効打である。先ほどから幾度となくバンビはライン上を狙って強打を繰り返し、ことごとく成功させている。驚嘆すべき精度だ。

 思わずミヤビはバンビに目線を向ける。その様子はこの恐るべき猛攻とは正反対に物静かで不気味だった。いつもあんなに喧しく怒鳴り散らしているのに、まるで人が変わったよう。ミヤビに対する敵意それ自体はそのままに、別の何かがバンビを支配しているように見えた。

(どうしちゃったの……? バンビ、何かヘンだ)
 バンビの様子を見て、ミヤビは自分の胸に悲しさが宿っているのを自覚した。恐るべき攻撃を驚異的な精度で繰り出されることへの恐れよりも、彼女がまるで一切テニスを楽しんでいな・・・・・・・・・・ように感じることが、その理由だった。

(いつもはなんだかんだ怒りながらも、楽しそうにしてるのに)
 暴言を吐きながらミヤビに勝負を挑み、自分が勝つまでやめないぞという雰囲気を全開にしているバンビだが、勝敗がついたあとはなんだかんだあっさり帰っていく。試合中の様子も含めて、ミヤビにはバンビが自分との勝負を楽しんでいるのだと思えていた。あの暴力的な態度に付き合わされるのは正直辟易としているけれど、それでも試合それ自体はミヤビも楽しんでいる節がある。でなければ、例え自分に過去の非があっても相手になどしない。

 胸にわいた悲しい気持ちから逃れるように、ミヤビが視線を上げる。すると、試合の様子を観戦していた仲間たちの姿が目に入った。その中の一人、心配そうな表情を浮かべた聖と視線が合う。

――なんていうか、正直ちょっと不気味でした

――物凄い精度でした

――ピンポイントでラインの上を狙ってくるみたいで

 この前、聖と二人で話をしたときに修造合宿の話題になった。その際、試合最終日に聖が対戦したという弖虎てとら・モノストーンという選手について、そんな風に聖が語っているのを唐突にミヤビは思い出した。その会話の記憶が、不思議と別の記憶を呼び覚ます。断片的で繋がりの見えない記憶が連鎖反応のように、ミヤビの頭の中で結び付けられる。論理的な思考ではない。あくまで直感に過ぎず、無理やり共通項を見出しているかのように思えたが、不思議と確信めいたものがあった。

(もしかしたら、バンビは――)



 窓の無い執務室で、ATCアリテニ最高責任者の沙粧さしょうはディスプレイに目を走らせていた。宝石のように美しく大きな瞳には表示された文章が映り、流れるように読み取っていく。顔の造形こそ見目麗しいが、その顔には表情と呼べるものは何一つ浮かんでいない。ふと、画面の端でアラートを報せる小さなウインドウが点灯する。素早く操作して内容を確認するとライブカメラに繋がり、画面にはピンク色の髪をした少女の姿が映し出された。

「また来たの?」
 侮蔑の声色を隠そうともせず、吐き捨てるように彼女はつぶやく。数年前に問題を起こしたこの少女を、沙粧は追放した。しかしどういうわけか彼女はこの施設に乗り込んできては、特定の相手を着け狙い勝手に暴れまわっている。そのことを沙粧は最初から把握していたが、年の近い選手同士でじゃれ合っているだけだと判断し放置していた。それに、あまり厳密に彼女を締め出してしまうと、それはそれで面倒が増える恐れがあった。

 沙粧の知る限り、彼女はもうとうの昔に用済みだ。再利用リサイクルの価値すら見出せない。できることなら早いうちに処分してしまいたかったが、厄介な男に拾われてしまって手が出せない。それに、調べによれば彼女は既に力を失っているはずだ。正式なやり方ではないにせよ、彼女の身体から余計なもの・・・・・は除去されている。仮に残骸が残っていたとしても、自力で扱えるものではない。

 しばらく様子を窺ったが、見るに値しないバカバカしい映像が流れるだけ。時間の無駄だ。失敗作は所詮、失敗作。検体としては優秀だったが、欲をかいてあれやこれやと詰め込み過ぎたのだ。沙粧はライブカメラを切り、画面を戻す。その瞬間、沙粧の頭の中からはピンクの髪をした少女のことは消え失せた。

 不意に携帯端末から無機質なメロディが響く。表示された名前を見て、沙粧は軽く咳払いをする。そして固まった表情筋をほぐす様に目をしばたかせ、カメラをオンにして通話に出た。その顔に、今この瞬間まで貴方からの電話を待っていましたと言わんばかりの表情を張り付けて。

「えぇ、今にかかってくるんじゃないかと思ってた。ずっと待ってたの」
 恋する少女のように甘える声で通話しながら、彼女は片手間でディスプレイに映ったファイルを閉じる。冒頭の見出しは、次のようなものだった。

『ジェノ・アーキアの機能不全および動作不良に関する報告』

続く
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