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第45話 バンビ、襲来

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 8月下旬

 ピンクの角を生やした小鬼こおに。一言でその少女を形容するならそんな表現が妥当かもしれない。綺麗に染め上げられたショッキングピンクの髪を乱雑に縛り上げ、ちょんまげのような、角のような髪型をしていた。普段から鏡も見ずに自分でハサミを入れているらしく、ところどころ長さが不揃いで、あちこち髪がとげのように飛び跳ねている。

 不動明王も裸足で逃げ出しそうなほどの激しい憤怒の形相を浮かべ、肩を怒らせながら歩く。反面、着ているものは髪色に合わせたピンク色で可愛らしい丈の短いキャミソール。引き締まったお腹の真ん中で、おヘソについたピアスがキラリと光る。デニム生地のホットパンツから伸びる両脚は、細いながらも草食獣を思わせる力強さを感じさせ、のっしのっしと力強く地面を踏みしめていた。

「ゴラァ! ブス出せや! ぶっ殺す!」
 見た目のファンシーさとは裏腹に、口汚い言葉で気炎を吐き散らしながら、彼女――伴美波ばんみなみ――は、ATCアリテニの敷地内へやってきた。

「げぇっ!? バンビ!」
 偶然通りがかった沼沖文学ぬまおきぶんがくは彼女の姿を見るや、絶対に会いたくない敵と遭遇して思わず本音が飛び出たどこかの武将みたいなリアクションをしたあと、慌てて踵を返した。ブンがバンビと呼んだピンクの少女は、過去に暴力沙汰を起こしてATCアリテニから追放された札付の危険人物ワルモノだ。少なくともブンはそういう認識でいる。そして彼女が口にした『ブス』とは、彼女がどういうわけか目の敵にしているATCアリテニ屈指のジュニア女子選手、ミヤビを指している。


「たいへんだぁ! バンビがきたぁ!」
 命からがら逃げおおせ、敵軍に新たな増援がきたことを報告する伝令のように、ブンが足をもつれさせながらやってくる。カフェ『ジュ・ド・ポーム』にある中二階席のウッドデッキで夏の午後のひと時を楽しんでいたジュニア選手の面々は、バンビの名を耳にするやそれぞれ思い思いの表情を浮かべた。

「どけ小デブ!」
「きゃいん!」
 バンビがブンの尻を蹴り飛ばす。体格は明らかにバンビの方が小さいのに、ブンはサッカーボールよろしく端の方まで転がっていく。邪魔者を退けたバンビは、椅子に座りストローをくわえて目を丸くしているミヤビに向かってピンクのラケットを差し向け、見上げながら怒鳴り散らした。

「ブス! バンビより先に海外デビューなんて許さねぇ! ぶっ殺す!」
 その場にいた大半が、その顔に『なに言ってんだコイツ』という表情を一瞬浮かべたが、どうやら来月ジュニアメンバーが参加する国際ジュニア団体戦の話をしているらしいことを察した。彼女が何をどう履き違えているのか不明だが、それを『海外デビュー』と捉え、自分より先にミヤビがそこへ参加するのが許せないらしい。理屈や話の論理性はひとまず置くとして、ピンクの化身であるバンビが言いたいことは、どうやらそういうことのように思われた。

「バンビが飛行機キライなの知っててよぅ! 卑怯だぞ! ぶっ殺す!」
<このイカレポンチは語尾に『ぶっ殺す』をつけなきゃ死ぬのか?>

 仲間と遅めのランチを一緒にとっていたひじりは、少なくともアドとバンビが直接対峙するということはあり得ない、という事実に人知れずほっとした。この二人がもし万が一にでも顔を合わせるようなことがあったら、飛び出る罵詈雑言だけで地球の環境汚染が加速しそうな気がするからだ。聖はアドの軽口を無視してミヤビの方に視線を向けると、彼女はバンビをしばし見つめたあと、何事も無かったかのようにランチを再開した。それを見たバンビは侮辱と捉えたらしく、更に大声で嗄鳴がなりたてる。

「ブスごらぁ! シカトこいてんじゃねーッ! ぶっ殺す!」
 低い場所でぎゃあぎゃあと喚くバンビを尻目に、ミヤビはとりたてて気にする風もなく、サンドウィッチを食べきった。それからわざとゆっくりした動作で口元を拭き、おもむろに立ち上がる。手すりに片手をついて、文字通り思い切りバンビを見下しながら、少しオーバーに威厳さを演出しながら言った。

「まず、どこの誰に話しているのか知らないけど、ここで大声出して喚くのはやめて。それにバンビ、あなたはここに来ちゃダメってことになってるはずでしょう? いつから約束を破るような悪い子になったの。乱暴だけど言いつけはちゃんと守る子だって聞いてたのに。榎歌えのうたさんはこのこと知ってるの? 勝手なことしたら怒られるんじゃないの? あと、人に向かって『ぶっ殺す』なんて言葉使っちゃダメでしょ」

 ミヤビの迫力に圧されたらしいバンビは、一度うぐっとたじろいだ様子を見せる。しかし、怖じ気を一緒に押し返すように応戦した。

「か、関係ねぇ! バンビ知ってるぞ! 海外デビューしたらあっちこっち飛び回ってもう帰って来なくなるんだ! 勝ち逃げなんて許さねー! バンビの方が絶対絶対ぜぇーったいつえーんだ! 勝負しろブス! ぶっ殺す!」

 それを聞いたミヤビは、わざとらしく大きく溜め息をしてみせる。たっぷり間をあけて、あれやこれやと言いたいことのすべてを飲み込むように息を吸う。そして色っぽく片手で髪をかきあげると、冷たい視線と共にバンビに向けて言い放った。

「わからせてあげる、お転婆娘バンビ



「すごいな、ヤベ君! バンビのやつ試合してもらえるっぽい!」
「すごいね、スゲ君! まるで殴り込みのようじゃあないか!」
 少し離れた場所からバンビの様子を窺っていたのは、中学生のスゲとヤベだった。午前中に市営のコートで練習していたところ突然バンビが現れ、問答無用でお供にさせられたのだ。しかし、バンビの蛮行を阻止しようとあれこれ口出ししていたら「うるせぇ邪魔すんな」と殴られ途中で見放されてしまった。仕方なく二人はバンビの動向を見守るべく、何かあったら榎歌えのうたコーチに連絡しようと決め、探偵アニメの真似事のように尾行ごっこに勤しんでいる。

 すると突然、バンビの動向を見守る悪ガキ二人の間へ、サングラスをかけた男の顔がぬっと割って入ってきた。
「しかし今日はどこのコートもレンタルやレッスンで埋まっている。空いているのは最近人気が無くなりつつある砂入り人工芝オムニコートだけだ。ミヤのやつ、バンビのプレースタイルを理解した上でコートを選んだようだ。さすがはオレの後輩。勝負とは戦う前から既に始まっているということを理解してやがるぜ」

 男は自分がここにいるのがさも当然といった風に意見を述べた。
「うぉぉ、そうなのか! さすがはATCアリテニ女子ナンバー1だ!」
「顔もスタイルも頭も良いなんて、天は二物を与えないとか嘘だねスゲ君! ところで」
「なにしてんすか、守治さねはるセンパイ」
 二人が声を揃えて尋ねると、守治は白い歯をキラリと光らせて不敵に笑った。



「ザベストオブ3セットマッチ、バンビサービス、トゥープレー」
 審判台に腰掛けたブンが、若干やる気のない表情を浮かべながら試合開始を宣言した。憮然とした態度で、やれやれどうして自分がこんな役回りをしなきゃならないんだとでも言いたげだった。だが実際は、ミヤビから審判をお願いされて飛び上がるほど嬉しく思っている。比較的心情が顔に出やすいことを自覚しているブンは、あえて興味のないフリを装うのがクセになっていた。バンビに尻を蹴られたことなど、もはや露ほど気にしていない。

「しゃらァ!」
 バンビが雄叫びと共にサーブを放つ。フォームはでたらめだが、モーションは小さく動きに無駄が無い。トスを上げてから打つまでの間が短い即座に放つ狙撃球クイックサーブと呼ばれる打ち方に類似している。打球はミヤビの身体方向へ向けて勢いよく飛んでいった。

 機敏に反応したミヤビは身体の向きをずらし、勢いを利用するようにブロックリターン。普段は狙うことのない、コート中央付近へ返球した。どうせ、利き手側フォアに打とうが非利き手側バックに打とうが、バンビの次の攻撃は決まっている・・・・・・のだ。

 ミヤビのリターンに対し、バンビは素早く攻撃態勢を取る。相手の立ち位置などお構いなしに、ボールを跳ね際ライジングで捉えてフルスイング。激しい打球音と共に、ミヤビに向かってボールが直線軌道球ライナーのようにかっ飛んでいく。ミヤビはラケットを使わず、ひょいと身体を傾けそれを避ける。当然ながらノーバウンドでボールがフェンスにぶち当たり、跳ね返った。アウトである。

「どゆこと」
 観戦していた聖が思わずつぶやいた。今の動き、というか狙いは、明らかにバンビがミヤビの身体に向かって直接ボールを当てに行っている。それを避けられたバンビは眉間に皺を寄せ憤怒の形相のまま悪態をついていた。アウトしたことより、ミヤビにボールを当てられなかったことを悔しがっているようだ。

「ミヤとやる時は、いつもこーなんだよ」
 やや呆れながら、羽切はぎりナツメが言った。女子メンバーの中では一番背が高く、髪も短くて一見すると男っぽく見える彼女は、短く鼻を鳴らしてから続けた。

「ったく、あの性格のせいで台無しだぜ。才能の持ち腐れにもほどがある」
 GWの団体戦で、ナツメはバンビと対戦している。そういえば聖もその様子を少しだが見たのを思い出す。ナツメには悪いが、一方的に相手をコテンパンに叩きのめすようなバンビのテニスを見て、聖は感心したのを憶えている。正統派の格闘技使いが、路地裏のストリートファイトで鍛えたならず者に打ちのめされるような、そんな試合だった。そういえば、アドがバンビの持つ才能をハルナ並だと言っていたような気がする。

 試合は、数球のラリーのあとバンビがチャンスを窺いミヤビにボールを当てようと四苦八苦し、それをミヤビが軽やかに避ける展開が続いた。バンビの打ったボールがたまたまコートに収まることもあったが、15分もしないうちに最初のセットが終了した。

「ちょこまか逃げやがって! そんなにバンビが怖ぇかよ!」
 隙あらばフルスイングをくり返すバンビは、汗まみれで文句を言う。対するミヤビは、涼しい顔で飲み物を口にしながらそれを無視する。彼女の相手をするのは一度や二度ではないのだろう、バンビの扱いに相当慣れていることが伺えた。

「バンビ、テニスで勝負にきたの? それとも文句言いに来たの?」
 冷たい視線でバンビを睨みながら、ミヤビが言う。

「ちゃんとテニスしないならもうお終い。私たちは暇じゃないんだから。それに勘違いしてるみたいだけど、来月の試合がどうなろうと私は日本に帰ってくるよ。あと、海外での試合ならとっくに何度もしてる。『海外デビュー』なら中学の時に済ませてるからね」
 バンビの悪態に付き合わず、毅然とした態度でミヤビは告げた。バンビは聞いているのか聞いていないのか、まるで警戒するように唸りながらミヤビを睨みつけている。そして暫くしたのち、ラケットを持ってポジションに向かった。試合を続行したいらしい。そんなバンビの後ろ姿を見て、ミヤビはクスっと笑った。



 試合は一転、実にハイレベルな内容に変わった。
 コートサーフェスが砂入り人工芝オムニコートということもあり、球足が遅い。超攻撃的なショットをいつでも繰り出せるバンビだが、このサーフェスで強打を乱発するとカウンターを食らう恐れがある。ただでさえ、女子のシングルスは男子と違ってカウンターが命取りになり易い。フォームこそ独特で一見メチャクチャなバンビだが、優秀なコーチの元にいるお陰か、そうしたセオリーは承知しているようだ。

(といっても、ベースのショットが男子並みなことに変わりはないけど)
 ミヤビはバンビが打つショットを返しながら、そんなことを思う。同じテニスという競技ではあるが、男子と女子ではその内容に雲泥の差がある。技術でもメンタルでも道具でも覆しようのない、生物として持って生まれた肉体という器の性能差。しかしそれにも関わらず、傍目からは華奢な少女にしか見えないバンビは、文字通り男子並みのクオリティのプレーをする。バンビが他と一線を画すのは、この点にあった。

(それに、以前より明らかに強くなった。攻め所を嗅ぎ分ける天性の才覚に、戦いながら相手の動きを冷静に見抜いて先を読む戦考力・・・が加わってる。ホント、榎歌オオカミさんは育て上手なんだら)

 まともな打ち合い、力比べをしていると歩が悪くなると判断したミヤビは、短いボールや低く滑るショットを織り交ぜ、バンビに気持ちよく攻撃させないよう展開する。これまでなら強引に攻めてきたバンビも、軽率には攻撃に転じずじっくり耐える。ラリーが長く続き、1つのポイントにかかる時間が増大していく。

(まったく、憎たらしいぐらい強いんだから。もしバンビがATCここでちゃんと指導を受けていたら、とっくに私より強いんじゃないの? 下手したらハルナちゃんだって危ないかもしれないぐらい。その才能が羨ましいったらないよ)

 しつこく、しつこく相手を削る展開が続く。寄せては返す波のように、互いに隙を見せぬよう、しかし互いに隙を作り出そうと探り合う。先にれて攻め急いだ方が窮地に立たされてしまう。スタミナを消費し、徐々に呼吸が乱れ始め、気にならなかった陽射しが身体を少しずつ焼いていくような錯覚を覚える。

 ラリーが始まって5分以上経過した頃、ついに幽かな流れのひずみが現れた。ミヤビの打ったボールが、二人を分かつネットの先端にかすって、ボールの軌道が上がる。回転と推進力を削られたボールが、ミヤビの意図しない深さと高さでバウンドする。

(――来るッ!)
 ミヤビがそう察するより早く、バンビが全身から目に見えそうなほどの戦意を燃え滾らせてボールに迫る。ミヤビの方に広く開いた隙オープンコートはほぼ無いが、しっかり前に入られているとどこに打たれるか分からない。バンビの球威を持ってすれば、簡単にポイントを奪われるだろう。守るにはギリギリで見極めてヤマを張るしかない。

「おるあァ!」
 雄叫びと共にバンビがフルスイングする。しかし、打ったボールはミヤビのコートでバウンドすることなく、またもフェンスに直撃してしまう。ボールは転がることもなく、ひし形のフェンスの隙間にすっぽり嵌っていた。

「あっぶなぁ……」
 エースを獲られると思っていたミヤビが、思わずそう漏らす。今のは完全にやられていた。足を止めた途端、心臓の鼓動が耳の奥で少しずつ大きくなっていくのが分かる。ボールを取りにフェンスへ向かうと、見ていた仲間が口々に声援を送った。正直、今のは褒められるようなポイントではなかったが、我慢の結果だと思うことにして笑顔を向けた。

 ミヤビがボールを送ろうとバンビを見ると、彼女はコートの真ん中で首を項垂れて立っていた。チャンスを決めきれなかったのがよほどショックだったのか、随分としょんぼりした雰囲気で気の毒に思えた。もし自分が同じ立場なら、確かにかなり堪えただろう。徹底的に我慢した挙句、チャンスを活かせなかったときの言いようのない自分への怒りは、テニスをする者なら誰もが感じたことのある苦い経験だ。

「あンギャアアアアアーーーッ!!」
 突然、バンビが絶叫する。かなり離れた位置にいるが、耳をつんざくとはこのことかと思うほどの大声だ。怒り、悲しみ、悔しさ、色んなものが混じっている。あまりの声量に顔をしかめたミヤビだったが、あぁやって怒りを発散させて落ち着くやり方もある。さすがに注意するのは可哀想だと思って何も言わなかった。するとバンビは、目に涙を浮かべながらいつも以上の怒りの形相を浮かべ続けて叫んだ。

「もう知るか! 言いつけなんか知ったことか! バンビが勝つんだ!」
 一瞬、ミヤビは自分の目を疑った。バンビが湧き上がってくる怒りをさらに燃え上がらせるように唸ると、彼女の首回りから顔のあたりまで、皮ふの下にある血管や神経が全て浮き上がるように見えた。バンビが俯き、大きく息を吐く。そして下から見上げるようにミヤビを睨み付けると、今まで見たことのないぐらい陰鬱で空恐ろしい表情に変貌している。

「え、バンビ……?」
 ミヤビは妙な胸騒ぎを覚える。これまでに何度も彼女と試合をして、何度も彼女は癇癪を起すように激高することはあった。だが、今のような顔をしたことは一度もなかった。今のはまるで、怒りや悔しさではなく、純粋な悪意に染まった顔。

 友達からいきなり絶交を告げられたような気がして、ミヤビの胸を締め付けた。

続く
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