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第47話 デッドゾーン
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「よくないウワサ?」
国内の地方大会に遠征し、ミヤビが試合後にホテルのベッドでストレッチをしているときのことだった。同室になった先輩であるプロ選手の三縞ありすの言葉を、ミヤビは思わず聞き返してしまう。ありすもミヤビと同じようにベッドの上でストレッチをしているが、そのポーズはストレッチを通り越してもはやヨガと呼べる領域だ。胡坐をかいた状態から両足のつま先をそれぞれ左右の手で持ち、器用に首の後ろへと回しながら話を続ける。
「そ~。んまぁ、ホントにウワサ程度だけどね~。人体実験とか?」
ありすはインドあたりの神様を思わせるポーズで、とんでもないことを口にする。本人は信じていないのか、普通の世間話でもするような気軽さだが、ミヤビは形の良い眉根をひそませながら、うへぇ、と苦い顔をした。
「ほら、あそこ元々製薬会社じゃん? 前身の会社で薬品流出事故だかなんかを起こしてさ、でも会社の規模が大きいから役員総入れ替えして今の社名のReal Blumに変わったんだけど、遺伝子工学の事業に成功してからなんだかんだ重要なポストに就いてた人間が戻って来てるんだよ。事故の裁判も終わってほとぼりも冷めてたしね。アメリカじゃ割と有名なハナシ。ま、それ自体はどこの国でもある話かもしんないけど」
よっこいせとつぶやいたありすは、ポーズを変える。今度はうつ伏せになり、下半身を徐々に高く上げていく。そのままゆっくり上体と背中を反らせながら、足の裏を後頭部まで持ってきた。横から見ているミヤビにはアルファベットのOを模した身体文字に見える。身体の柔らかさには自信のあるミヤビだが、さすがにここまではできない。
「ちょっとコワイのはさ、RBとスポンサー契約した選手たちって、引退後にいつの間にかテニス業界からいなくなっちゃうんだよね。引退するにしたって、世界で戦ってたレベルの選手は大体なんらかの形でテニスと関わるもんだけど、不思議とそういう選手がいないみたいなんだよね。それどころか、そもそも音信不通になるってさ~」
やや人間離れしたポーズのまま、ありすはミヤビを露骨に恐がらせるような口調で言う。どうだ恐いだろう、とでも言いたげに妙ちくりんなポーズのまま上目遣いを向けてくるが、話よりもその姿勢のまま当り前のように喋っているありすの方が怖い。ミヤビが笑顔を引きつらせているのに満足したのか、ありすはひょいっと体勢を戻し再びベッドの上に胡坐をかく。首を回しながら人懐こい笑みを浮かべ、最後に付け加えた。
「全部ウワサだけどね。でも火の無いところに~ってゆーじゃん? あんたは日本で結果出せてるし、あたしの次に美人だからスポンサーなら自分で探さなくても勝手に向こうから打診が来るって。それにいざとなったら、あたしのスポンサーに口利いたげるから。だからお金のことは心配しなさんな」
テニス選手は活動費に莫大な費用がかかる。実親を既に失っているミヤビとしては、今後自分が活動していくにあたって自分の活動費は自力でどうにかしたいと常々考えていた。叔母や叔父は遠慮するなと言っていたが、彼らの実子は重い病を患っていてとてもその言葉を真に受けることはできない。既にテニス用具のメーカーとはスポンサー契約を結んでいるミヤビだが、正直それだけでは全く足らない。大手企業からの強いバックアップが必要で、それについて先輩であるありすに相談したところ、話の流れでアメリカ企業の名前が出た。普段こうした話はあまりしないので、ありすの方からそうした裏事情みたいなものが聞けたのは驚いた。
「ありがと、ありすちゃん。ただね」
一つだけ気になることがある、とでも言いたげにミヤビが真剣な表情を浮かべたので、ありすは首を傾げた。
「美人なのは私の方だと思うな」
「ええ度胸じゃ!」
ありすがベッドの上から飛び上がり、ミヤビに襲いかかる。しばしの間、二人はくんずほぐれつ、ベッドの上で女子シングルスを繰り広げるのだった。
★
ほぼラインの上目掛けて飛んで来るバンビのショットを、凄まじい集中力とセンスでバウンド直後に捉えて返球するミヤビ。攻撃のリズムを早めることでバンビの時間を奪う狙いがあったが、それでもバンビの猛攻は止まらない。2度、3度と同じようなクオリティで執拗にコート奥深くへ叩き込まれてしまうと、ジリジリとミヤビはポジションを下げざるを得ない。後ろへ下げさせられれば守備範囲が拡がってしまい、バンビはそこへ自由に打ち込んで来る。見事にゴリ押しされる形となっていた。
(きっついなぁ。これじゃ守れば守るだけ不利になっちゃう)
かつてこれほど正確に繰り返しライン上を狙える選手と戦った事など、ミヤビには経験が無かった。テニスというスポーツのルール上、コートの枠内にボールを収めれば有効なのだから、ラインの上を狙って打ち続けることが出来れば理論上これ以上の攻撃はない。だがそれは、野球で全打席ホームラン、バスケットで常に3ポイント、ゴルフで毎回ホールインワン、というような次元の話だ。それが出来れば、誰も苦労しない。そして、そんなことが出来てしまったらその競技の面白さは失われてしまうだろう。
(バンビはいつも怒りながらプレーしてるけど、なんだかんだ楽しそうにやってるって私は感じてた。今のバンビの環境じゃ、同等の相手を探すのが大変だもんね。思い切り自分のやりたいプレーをやりたくて私のところに来てくれてるんだと思ってたよ。正直なところを言えば、私もそれが嬉しかったんだと思う。でも今日のバンビは、少なくとも今のバンビはそうじゃない。どうしてかは分からないけど……)
バンビが放ったショットを打ち損じ、ミヤビの手に痛みと痺れが残る。だが今強く感じるのは、手に受けた痛み以上に、悪友を失ったかのような奇妙な喪失感だ。ミヤビはバンビに視線を向ける。その瞳は妙に虚ろで、いつもの露骨な怒りは消え失せている。別人のように変わってしまった悪友の姿に、ミヤビは戸惑いを覚えずにいられなかった。
幾度かの攻防を繰り広げ、果敢に抵抗を見せるミヤビ。だが、バンビの容赦ない攻撃は続き、いくら粘っても結局はバンビがポイントを奪っていく。ミヤビはどうしたものかと考えようとして、ふと奇妙な点に気付く。
(あれ? これだけ正確にラインの上を狙って連撃できるのに、ボールは殆ど私の方に飛んでくる?)
試合序盤、バンビが怒鳴り散らしていたときは確かにミヤビの身体を狙ってボールが飛んできた。そして結局それらはほぼ全てコートに収まらなかった。途中からミヤビがちゃんとテニスをしろと諫めた結果、バンビは持ち前のセンスを発揮して比較的まともな打ち合いに方針を変更した。そして突然豹変し、今度は恐ろしい精度でラインの上を的確に狙うショットを繰り出すようになった。
(なんか、おかしいな)
バンビが集中力を増し、ショットの精度が向上した為に戦略方針を序盤のようにミヤビの身体目掛けて打とうとすることに再度変更しただけ、という見方もできる。だがミヤビは妙な引っ掛かりを覚え、再びバンビの表情を観察した。
(あれ?)
一瞬、虚ろな表情のままのバンビの瞳に、チラリと怒りの炎が見えた気がしたのだ。それは、厚い雲のかかった真っ暗な夜空を見上げたときに、ちょっとだけ顔を覗かせた小さな星の煌めきのようにミヤビの目には映った。
確証など何もない。だが、ミヤビは一縷の望みを見つけた気がした。
間違いない。バンビはまだ、そこにいる。
★
意識の遠くで声が聞こえる。
――機能に異常はありません
――じゃあ何故、攻撃性が増す?
――仮説の域を出ませんが、神経伝達物質の促進による副作用かと
――抑制できないのか
――元が元ですから。高い攻撃性の原因はむしろそっちかと
――素体別遺伝固有特性ということか
――遺伝要素の強化出力を下げますか
――それでは意味が無い
――出来損ないは出来損ないですね
――次世代の理想的な子供を待つしかない
――これは処分でよろしいですか
――アーキアはサンプルとして残せ
うるさい。サイレンがうるさい。
かと思えば、人の気配がした。
『立てますか?』
だれだ。なんだ。
『仕返しをしたいでしょう』
あたりまえだ。全員やっつけてやる。
『なら今は逃げます。準備が要りますからね』
ざけんな。誰が逃げるか。
『勝つためには、堪える事も必要です』
るせぇ、クソが。
『君は賢い。あとは力の使い方を覚えるだけだ』
使い方……?
『私が教える。行きましょう』
そして、消魂しくサイレンが鳴り響く中、あたしはもう一度外に出た。
★
第2セット ゲームカウント 5-4
序盤にミヤビが稼いでいたリードはあっという間に差を詰められ、連続でゲームを落とす展開が続いた。男子と違い、女子はサービスゲームの取得率が選手によって変動しやすい。それでもサーブ側が優位を保ちやすいという事実は確かなことで、特にサーブ後のプレースメントが突出し始めたバンビのサービスゲームをブレイクするのは容易ではなかった。
コートチェンジを終えたミヤビとバンビが再びポジションにつく。その様子を、ミヤビの仲間であるATCのメンバーが、試合の様子を神妙な面持ちで見届けている。特に女子は、ミヤビを応援するというよりも、仮に自分がバンビを相手にするならどう戦うかに思考を巡らせていた。仲間に声援を送ることを忘れさせるほど、バンビのプレーは圧巻だったのだ。
「ミヤビさん、大丈夫かな」
そんな中ただ一人、聖の幼馴染である神近姫子だけが純粋にミヤビの心配を口にした。それを聞いて初めて、観戦していた女子たちはハッとしたように反応する。
「あれが続くとしんどいけど、さすがに続かないでしょ」
桐澤姉妹の姉である雪乃が楽観的なセリフに反して険しい顔で言う。
「あそこまでのプレーができるやつだとは思わなかったな」
コートを睨みながら、ナツメがつぶやく。
「砂あり人工芝で大正解、だね」
雪菜が少しおどけたように言うが、場は明るくなりそうもない。
「だいじょぶなんじゃなーい?」
いつから食べていたのか、鈴奈が棒アイスをくわえながらしれっと言う。既にアイスは無くなっており、口の中でしゃぶるように棒を転がしている。指でつまんで一度口から出すと、味が残っているのを確かめるように、長い舌先でぺろりと舐めた。
「うちのエースをナメてもらっちゃあ困るよ。バカ打ちぶっぱの小娘なんぞに後れを取るほど弱くないって。確かに今日のバンビはいつもと一味違うみたいだけど、ホラ、どうってことないサ」
指の代わりにアイスの棒をチッチッチと振りながら、鈴奈は不敵な笑みを浮かべる。そしてミヤビのポジションに皆の視線を促すように、棒で指し示した。
ミヤビのポジションが、ベースラインより大きく1歩前に変わっている。
「オイ、あいつ」
「あの位置って」
「デッド・ゾーン?!」
女子たちの会話のなかに耳慣れない単語が聞こえたので、聖は小声で隣にいた奏芽に問いかける。
「ねぇ、デッド・ゾーンって?」
「あん? あぁ、ちょい古い表現かもな。最近じゃ使わねぇ概念だ」
そういうと、奏芽はコートを指差して簡単に説明する。
「自陣をネットと平行に5分割して、それぞれに役割の名前をつけるんだよ。ネット前をフィニッシュゾーン、その後ろがアプローチゾーン、その後ろがニュートラルゾーン、一番後ろがディフェンスゾーン。簡単に言えば、ネットに近付くほど攻撃的なポジション、離れるほど守備的なポジションってこと」
「なるほど、考え方は難しくはないね。でも、それ4分割だろ?」
奏芽の説明に相槌を打ちつつ、疑問を投げかける聖。
「あぁ、4分割は今でもたまに採用される考え方。一つ増やして5分割にしてた時期があったんだよ。ニュートラルゾーンとアプローチゾーンの間にもう一つあった。それがデッド・ゾーン。攻めるのも守るのもやり辛い中途半端な位置だから、死を招くって具合にな。昔はそこに立つのはご法度、みたいな考え方が主流だったんだ。だがラケットの性能進化やプレースタイルの変化、或いは戦術的な考察が進んだ結果、別にそこが必ずしも立ってちゃダメな場所じゃないよなって話に行き着いたのさ。それどころか、場合によっては有効なポジションだって見直されて、ニュートラルとアプローチに吸収されたんだよ。まぁ、やり辛い場所であることには変わりないから、今でもあの位置をデッド・ゾーンって呼ぶやつも少なからずいる。しかし、ミヤビさんすげぇな。なるほどって感じだ」
デッド・ゾーンがそう呼ばれた理由は、その立ち位置では相手の深いボールがインなのかアウトなのかを判断し辛く、場合によっては非常に長い距離をノーバウンドで打ち返さなければならないためだ。相手の打った勢いが生きているボールを、わざわざ難しいタイミングのノーバウンドで打ち返すのはメリットよりデメリットが上回る。現代よりもラケットの性能が低かった頃、確かにそのポジションは死を招く場所と呼ばれるに相応しい場所だったと言える。しかし、奏芽が言ったように道具を始めとした諸々の進化によって、必ずしも戦術的にその場所が不利な場所であるとは言えなくなったことで、徐々にその呼び名は廃れていった。
「それに、相手のバンビがあからさまにラインの上を狙って来るなら、ノーバウンドでダイレクトにボールを打つスイング・ボレーで処理する方が、イレギュラーの可能性が高いオムニコートでショートバウンドを多用するよりマシだろうぜ。プラス、前に詰めた分、守備範囲は狭まる。難易度は高いが、言わば死中に活を求める、って感じだな」
<シチューに、カツだと!? バカの食いモンだ!>
「シチューにカツってあんまり美味しくなさそうだなぁ」
聖にはアドのセリフと、話が聞こえていたらしいデカリョウの声が重なる。奏芽が話を合わせるように、そりゃ確かにあわねぇだろうな、と適当な相槌を打った。
「ビーフシチューならワンチャン」
「んん、難しいところかも」
<オレの思考が、このバカデブと同じ……?>
(ちょっと黙っててくれないか)
気の抜けた男共のやり取りを余所に、コートの上ではバンビの猛攻をミヤビが必死に押し返し始めていた。
★
(よし、これなら!)
バンビの強打をコートの内側に入ってノーバウンドで打ち返すことで、ミヤビはバンビの攻撃準備時間を極端に削ることができた。速いボールを打てば打つだけ、ノーバウンドで返されれば自分に余裕がなくなってしまう。準備の整わないバンビは嫌でも次の攻撃を封じられ、得意のライン上を狙った強打を連打できなくなった。どうにかポイントを先行し、ミヤビが先にマッチポイントを握る。
――しかし。
再びバンビがライン上を狙った強打を放つ。それをミヤビが素早く落下点に入り、出来るだけ高い位置でボールを捉える。打球のエネルギーが充分残っているため、タイミングとラケット面の角度を誤れば即ミスに繋がる。ミヤビは持ち前のリズム感覚とタッチセンスで見事バンビの放つ強打を正確に打ち返した。打ち返しながら、ミヤビは視界の端でバンビの位置を捉え血の気が引いた。
(なんでネット前いるの!?)
バンビは自分が打った直後、ネットへ向かい距離を詰めていた。ミヤビがノーバウンドで放ったショットを、バンビも同じようにノーバウンドで捉える為に。最初からそのつもりで前に出ているバンビは、既に迎撃態勢が出来ている。対して、ミヤビは打ち終わりの動作さえ完了していない。言わば動作後の硬直状態にあるミヤビ目掛けて、バンビがダイレクトにボレーを叩き込んだ。
「ッ!」
鋭く空気を裂くような音を立てながら、ボールがミヤビの顔の横を一直線に通り過ぎる。バンビの挙動に驚いたこと、足元が砂の多い場所だったこと、その他複数の小さな要因が重なり、ミヤビは着地時わずかに足を滑らせたのだ。その事でバランスを崩し、尻もちをついた。打ち抜かれたボールはノーバウンドでフェンスに直撃し、金網を歪ませて挟まった。
(あ、危なかった……)
辛うじてボールが当たらなかったことに、座ったまま胸をなでおろすミヤビ。ふとバンビに視線を向けると、バンビもまた膝をついてへたり込んでいる。左手でネットを掴みながら、苦しそうに肩で息をしている。
「バンビ……?」
ミヤビが声をかけると、バンビが顔を上げてミヤビを睨み付ける。その表情は、ミヤビの知っているいつものバンビだ。悔しそうな顔で目に涙を浮かべている。傍から見れば結構な形相に見えるのだが、ミヤビにはその表情が不思議と血の通ったものに思えて、なぜだか懐かしい気持ちを覚えた。
「気は済んだ?」
バンビと真っ直ぐ視線を合わせ、ミヤビが言う。するとバンビは恨めしそうにもうひと睨みしたのち、手首で涙を拭って立ち上がった。ミヤビに背を向けて、何も言わずに立ち去ろうとする。しかし途中で振り返り、言った。
「次は……バンビが勝つ」
ミヤビは立ち上がろうとして、途中でやめる。そして尻もちをついたままの姿勢で、バンビに向けて優しく微笑みながら言った。
「いつでも、受けて立つよ」
夏の夕日に照らされ、バンビのピンクに染められた髪が燃え上がる紅色に染まっている。髪型のせいかそれは、彼女の中にある尽きることのない闘志の炎のように揺らめいて見えた。
続く
国内の地方大会に遠征し、ミヤビが試合後にホテルのベッドでストレッチをしているときのことだった。同室になった先輩であるプロ選手の三縞ありすの言葉を、ミヤビは思わず聞き返してしまう。ありすもミヤビと同じようにベッドの上でストレッチをしているが、そのポーズはストレッチを通り越してもはやヨガと呼べる領域だ。胡坐をかいた状態から両足のつま先をそれぞれ左右の手で持ち、器用に首の後ろへと回しながら話を続ける。
「そ~。んまぁ、ホントにウワサ程度だけどね~。人体実験とか?」
ありすはインドあたりの神様を思わせるポーズで、とんでもないことを口にする。本人は信じていないのか、普通の世間話でもするような気軽さだが、ミヤビは形の良い眉根をひそませながら、うへぇ、と苦い顔をした。
「ほら、あそこ元々製薬会社じゃん? 前身の会社で薬品流出事故だかなんかを起こしてさ、でも会社の規模が大きいから役員総入れ替えして今の社名のReal Blumに変わったんだけど、遺伝子工学の事業に成功してからなんだかんだ重要なポストに就いてた人間が戻って来てるんだよ。事故の裁判も終わってほとぼりも冷めてたしね。アメリカじゃ割と有名なハナシ。ま、それ自体はどこの国でもある話かもしんないけど」
よっこいせとつぶやいたありすは、ポーズを変える。今度はうつ伏せになり、下半身を徐々に高く上げていく。そのままゆっくり上体と背中を反らせながら、足の裏を後頭部まで持ってきた。横から見ているミヤビにはアルファベットのOを模した身体文字に見える。身体の柔らかさには自信のあるミヤビだが、さすがにここまではできない。
「ちょっとコワイのはさ、RBとスポンサー契約した選手たちって、引退後にいつの間にかテニス業界からいなくなっちゃうんだよね。引退するにしたって、世界で戦ってたレベルの選手は大体なんらかの形でテニスと関わるもんだけど、不思議とそういう選手がいないみたいなんだよね。それどころか、そもそも音信不通になるってさ~」
やや人間離れしたポーズのまま、ありすはミヤビを露骨に恐がらせるような口調で言う。どうだ恐いだろう、とでも言いたげに妙ちくりんなポーズのまま上目遣いを向けてくるが、話よりもその姿勢のまま当り前のように喋っているありすの方が怖い。ミヤビが笑顔を引きつらせているのに満足したのか、ありすはひょいっと体勢を戻し再びベッドの上に胡坐をかく。首を回しながら人懐こい笑みを浮かべ、最後に付け加えた。
「全部ウワサだけどね。でも火の無いところに~ってゆーじゃん? あんたは日本で結果出せてるし、あたしの次に美人だからスポンサーなら自分で探さなくても勝手に向こうから打診が来るって。それにいざとなったら、あたしのスポンサーに口利いたげるから。だからお金のことは心配しなさんな」
テニス選手は活動費に莫大な費用がかかる。実親を既に失っているミヤビとしては、今後自分が活動していくにあたって自分の活動費は自力でどうにかしたいと常々考えていた。叔母や叔父は遠慮するなと言っていたが、彼らの実子は重い病を患っていてとてもその言葉を真に受けることはできない。既にテニス用具のメーカーとはスポンサー契約を結んでいるミヤビだが、正直それだけでは全く足らない。大手企業からの強いバックアップが必要で、それについて先輩であるありすに相談したところ、話の流れでアメリカ企業の名前が出た。普段こうした話はあまりしないので、ありすの方からそうした裏事情みたいなものが聞けたのは驚いた。
「ありがと、ありすちゃん。ただね」
一つだけ気になることがある、とでも言いたげにミヤビが真剣な表情を浮かべたので、ありすは首を傾げた。
「美人なのは私の方だと思うな」
「ええ度胸じゃ!」
ありすがベッドの上から飛び上がり、ミヤビに襲いかかる。しばしの間、二人はくんずほぐれつ、ベッドの上で女子シングルスを繰り広げるのだった。
★
ほぼラインの上目掛けて飛んで来るバンビのショットを、凄まじい集中力とセンスでバウンド直後に捉えて返球するミヤビ。攻撃のリズムを早めることでバンビの時間を奪う狙いがあったが、それでもバンビの猛攻は止まらない。2度、3度と同じようなクオリティで執拗にコート奥深くへ叩き込まれてしまうと、ジリジリとミヤビはポジションを下げざるを得ない。後ろへ下げさせられれば守備範囲が拡がってしまい、バンビはそこへ自由に打ち込んで来る。見事にゴリ押しされる形となっていた。
(きっついなぁ。これじゃ守れば守るだけ不利になっちゃう)
かつてこれほど正確に繰り返しライン上を狙える選手と戦った事など、ミヤビには経験が無かった。テニスというスポーツのルール上、コートの枠内にボールを収めれば有効なのだから、ラインの上を狙って打ち続けることが出来れば理論上これ以上の攻撃はない。だがそれは、野球で全打席ホームラン、バスケットで常に3ポイント、ゴルフで毎回ホールインワン、というような次元の話だ。それが出来れば、誰も苦労しない。そして、そんなことが出来てしまったらその競技の面白さは失われてしまうだろう。
(バンビはいつも怒りながらプレーしてるけど、なんだかんだ楽しそうにやってるって私は感じてた。今のバンビの環境じゃ、同等の相手を探すのが大変だもんね。思い切り自分のやりたいプレーをやりたくて私のところに来てくれてるんだと思ってたよ。正直なところを言えば、私もそれが嬉しかったんだと思う。でも今日のバンビは、少なくとも今のバンビはそうじゃない。どうしてかは分からないけど……)
バンビが放ったショットを打ち損じ、ミヤビの手に痛みと痺れが残る。だが今強く感じるのは、手に受けた痛み以上に、悪友を失ったかのような奇妙な喪失感だ。ミヤビはバンビに視線を向ける。その瞳は妙に虚ろで、いつもの露骨な怒りは消え失せている。別人のように変わってしまった悪友の姿に、ミヤビは戸惑いを覚えずにいられなかった。
幾度かの攻防を繰り広げ、果敢に抵抗を見せるミヤビ。だが、バンビの容赦ない攻撃は続き、いくら粘っても結局はバンビがポイントを奪っていく。ミヤビはどうしたものかと考えようとして、ふと奇妙な点に気付く。
(あれ? これだけ正確にラインの上を狙って連撃できるのに、ボールは殆ど私の方に飛んでくる?)
試合序盤、バンビが怒鳴り散らしていたときは確かにミヤビの身体を狙ってボールが飛んできた。そして結局それらはほぼ全てコートに収まらなかった。途中からミヤビがちゃんとテニスをしろと諫めた結果、バンビは持ち前のセンスを発揮して比較的まともな打ち合いに方針を変更した。そして突然豹変し、今度は恐ろしい精度でラインの上を的確に狙うショットを繰り出すようになった。
(なんか、おかしいな)
バンビが集中力を増し、ショットの精度が向上した為に戦略方針を序盤のようにミヤビの身体目掛けて打とうとすることに再度変更しただけ、という見方もできる。だがミヤビは妙な引っ掛かりを覚え、再びバンビの表情を観察した。
(あれ?)
一瞬、虚ろな表情のままのバンビの瞳に、チラリと怒りの炎が見えた気がしたのだ。それは、厚い雲のかかった真っ暗な夜空を見上げたときに、ちょっとだけ顔を覗かせた小さな星の煌めきのようにミヤビの目には映った。
確証など何もない。だが、ミヤビは一縷の望みを見つけた気がした。
間違いない。バンビはまだ、そこにいる。
★
意識の遠くで声が聞こえる。
――機能に異常はありません
――じゃあ何故、攻撃性が増す?
――仮説の域を出ませんが、神経伝達物質の促進による副作用かと
――抑制できないのか
――元が元ですから。高い攻撃性の原因はむしろそっちかと
――素体別遺伝固有特性ということか
――遺伝要素の強化出力を下げますか
――それでは意味が無い
――出来損ないは出来損ないですね
――次世代の理想的な子供を待つしかない
――これは処分でよろしいですか
――アーキアはサンプルとして残せ
うるさい。サイレンがうるさい。
かと思えば、人の気配がした。
『立てますか?』
だれだ。なんだ。
『仕返しをしたいでしょう』
あたりまえだ。全員やっつけてやる。
『なら今は逃げます。準備が要りますからね』
ざけんな。誰が逃げるか。
『勝つためには、堪える事も必要です』
るせぇ、クソが。
『君は賢い。あとは力の使い方を覚えるだけだ』
使い方……?
『私が教える。行きましょう』
そして、消魂しくサイレンが鳴り響く中、あたしはもう一度外に出た。
★
第2セット ゲームカウント 5-4
序盤にミヤビが稼いでいたリードはあっという間に差を詰められ、連続でゲームを落とす展開が続いた。男子と違い、女子はサービスゲームの取得率が選手によって変動しやすい。それでもサーブ側が優位を保ちやすいという事実は確かなことで、特にサーブ後のプレースメントが突出し始めたバンビのサービスゲームをブレイクするのは容易ではなかった。
コートチェンジを終えたミヤビとバンビが再びポジションにつく。その様子を、ミヤビの仲間であるATCのメンバーが、試合の様子を神妙な面持ちで見届けている。特に女子は、ミヤビを応援するというよりも、仮に自分がバンビを相手にするならどう戦うかに思考を巡らせていた。仲間に声援を送ることを忘れさせるほど、バンビのプレーは圧巻だったのだ。
「ミヤビさん、大丈夫かな」
そんな中ただ一人、聖の幼馴染である神近姫子だけが純粋にミヤビの心配を口にした。それを聞いて初めて、観戦していた女子たちはハッとしたように反応する。
「あれが続くとしんどいけど、さすがに続かないでしょ」
桐澤姉妹の姉である雪乃が楽観的なセリフに反して険しい顔で言う。
「あそこまでのプレーができるやつだとは思わなかったな」
コートを睨みながら、ナツメがつぶやく。
「砂あり人工芝で大正解、だね」
雪菜が少しおどけたように言うが、場は明るくなりそうもない。
「だいじょぶなんじゃなーい?」
いつから食べていたのか、鈴奈が棒アイスをくわえながらしれっと言う。既にアイスは無くなっており、口の中でしゃぶるように棒を転がしている。指でつまんで一度口から出すと、味が残っているのを確かめるように、長い舌先でぺろりと舐めた。
「うちのエースをナメてもらっちゃあ困るよ。バカ打ちぶっぱの小娘なんぞに後れを取るほど弱くないって。確かに今日のバンビはいつもと一味違うみたいだけど、ホラ、どうってことないサ」
指の代わりにアイスの棒をチッチッチと振りながら、鈴奈は不敵な笑みを浮かべる。そしてミヤビのポジションに皆の視線を促すように、棒で指し示した。
ミヤビのポジションが、ベースラインより大きく1歩前に変わっている。
「オイ、あいつ」
「あの位置って」
「デッド・ゾーン?!」
女子たちの会話のなかに耳慣れない単語が聞こえたので、聖は小声で隣にいた奏芽に問いかける。
「ねぇ、デッド・ゾーンって?」
「あん? あぁ、ちょい古い表現かもな。最近じゃ使わねぇ概念だ」
そういうと、奏芽はコートを指差して簡単に説明する。
「自陣をネットと平行に5分割して、それぞれに役割の名前をつけるんだよ。ネット前をフィニッシュゾーン、その後ろがアプローチゾーン、その後ろがニュートラルゾーン、一番後ろがディフェンスゾーン。簡単に言えば、ネットに近付くほど攻撃的なポジション、離れるほど守備的なポジションってこと」
「なるほど、考え方は難しくはないね。でも、それ4分割だろ?」
奏芽の説明に相槌を打ちつつ、疑問を投げかける聖。
「あぁ、4分割は今でもたまに採用される考え方。一つ増やして5分割にしてた時期があったんだよ。ニュートラルゾーンとアプローチゾーンの間にもう一つあった。それがデッド・ゾーン。攻めるのも守るのもやり辛い中途半端な位置だから、死を招くって具合にな。昔はそこに立つのはご法度、みたいな考え方が主流だったんだ。だがラケットの性能進化やプレースタイルの変化、或いは戦術的な考察が進んだ結果、別にそこが必ずしも立ってちゃダメな場所じゃないよなって話に行き着いたのさ。それどころか、場合によっては有効なポジションだって見直されて、ニュートラルとアプローチに吸収されたんだよ。まぁ、やり辛い場所であることには変わりないから、今でもあの位置をデッド・ゾーンって呼ぶやつも少なからずいる。しかし、ミヤビさんすげぇな。なるほどって感じだ」
デッド・ゾーンがそう呼ばれた理由は、その立ち位置では相手の深いボールがインなのかアウトなのかを判断し辛く、場合によっては非常に長い距離をノーバウンドで打ち返さなければならないためだ。相手の打った勢いが生きているボールを、わざわざ難しいタイミングのノーバウンドで打ち返すのはメリットよりデメリットが上回る。現代よりもラケットの性能が低かった頃、確かにそのポジションは死を招く場所と呼ばれるに相応しい場所だったと言える。しかし、奏芽が言ったように道具を始めとした諸々の進化によって、必ずしも戦術的にその場所が不利な場所であるとは言えなくなったことで、徐々にその呼び名は廃れていった。
「それに、相手のバンビがあからさまにラインの上を狙って来るなら、ノーバウンドでダイレクトにボールを打つスイング・ボレーで処理する方が、イレギュラーの可能性が高いオムニコートでショートバウンドを多用するよりマシだろうぜ。プラス、前に詰めた分、守備範囲は狭まる。難易度は高いが、言わば死中に活を求める、って感じだな」
<シチューに、カツだと!? バカの食いモンだ!>
「シチューにカツってあんまり美味しくなさそうだなぁ」
聖にはアドのセリフと、話が聞こえていたらしいデカリョウの声が重なる。奏芽が話を合わせるように、そりゃ確かにあわねぇだろうな、と適当な相槌を打った。
「ビーフシチューならワンチャン」
「んん、難しいところかも」
<オレの思考が、このバカデブと同じ……?>
(ちょっと黙っててくれないか)
気の抜けた男共のやり取りを余所に、コートの上ではバンビの猛攻をミヤビが必死に押し返し始めていた。
★
(よし、これなら!)
バンビの強打をコートの内側に入ってノーバウンドで打ち返すことで、ミヤビはバンビの攻撃準備時間を極端に削ることができた。速いボールを打てば打つだけ、ノーバウンドで返されれば自分に余裕がなくなってしまう。準備の整わないバンビは嫌でも次の攻撃を封じられ、得意のライン上を狙った強打を連打できなくなった。どうにかポイントを先行し、ミヤビが先にマッチポイントを握る。
――しかし。
再びバンビがライン上を狙った強打を放つ。それをミヤビが素早く落下点に入り、出来るだけ高い位置でボールを捉える。打球のエネルギーが充分残っているため、タイミングとラケット面の角度を誤れば即ミスに繋がる。ミヤビは持ち前のリズム感覚とタッチセンスで見事バンビの放つ強打を正確に打ち返した。打ち返しながら、ミヤビは視界の端でバンビの位置を捉え血の気が引いた。
(なんでネット前いるの!?)
バンビは自分が打った直後、ネットへ向かい距離を詰めていた。ミヤビがノーバウンドで放ったショットを、バンビも同じようにノーバウンドで捉える為に。最初からそのつもりで前に出ているバンビは、既に迎撃態勢が出来ている。対して、ミヤビは打ち終わりの動作さえ完了していない。言わば動作後の硬直状態にあるミヤビ目掛けて、バンビがダイレクトにボレーを叩き込んだ。
「ッ!」
鋭く空気を裂くような音を立てながら、ボールがミヤビの顔の横を一直線に通り過ぎる。バンビの挙動に驚いたこと、足元が砂の多い場所だったこと、その他複数の小さな要因が重なり、ミヤビは着地時わずかに足を滑らせたのだ。その事でバランスを崩し、尻もちをついた。打ち抜かれたボールはノーバウンドでフェンスに直撃し、金網を歪ませて挟まった。
(あ、危なかった……)
辛うじてボールが当たらなかったことに、座ったまま胸をなでおろすミヤビ。ふとバンビに視線を向けると、バンビもまた膝をついてへたり込んでいる。左手でネットを掴みながら、苦しそうに肩で息をしている。
「バンビ……?」
ミヤビが声をかけると、バンビが顔を上げてミヤビを睨み付ける。その表情は、ミヤビの知っているいつものバンビだ。悔しそうな顔で目に涙を浮かべている。傍から見れば結構な形相に見えるのだが、ミヤビにはその表情が不思議と血の通ったものに思えて、なぜだか懐かしい気持ちを覚えた。
「気は済んだ?」
バンビと真っ直ぐ視線を合わせ、ミヤビが言う。するとバンビは恨めしそうにもうひと睨みしたのち、手首で涙を拭って立ち上がった。ミヤビに背を向けて、何も言わずに立ち去ろうとする。しかし途中で振り返り、言った。
「次は……バンビが勝つ」
ミヤビは立ち上がろうとして、途中でやめる。そして尻もちをついたままの姿勢で、バンビに向けて優しく微笑みながら言った。
「いつでも、受けて立つよ」
夏の夕日に照らされ、バンビのピンクに染められた髪が燃え上がる紅色に染まっている。髪型のせいかそれは、彼女の中にある尽きることのない闘志の炎のように揺らめいて見えた。
続く
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